97. 狂気
島に戻った四人は、村から離れた場所に舟を置き、昨日夜を明かした野営地に再び陣取った。
人の住む場所に家を求めても良かったのだろうが、島民の助けを借りることを誰もよしとはしなかった。
四人は手分けして食事にするものを探すことにした。
モムルとファンエーマは藪の中で茸や山菜を探し、可能であれば鳥などを狩って肉を手に入れる。ヘステスとオトは村に向かい適当な食材や塩などを入手する。
どうしてわざわざ村に行くのか、とオトに尋ねられたヘステスは、「あれを手に入れねばの」、と他の荷物と一緒に地面に積まれた白い棒を指さした。
「不測の事態に備えて、余計に二、三本を用意しておいても困るまい。あのもてなしの姿勢なのじゃから、頼めば恵んでくれるじゃろうて。断られたのならおぬしが盗めばよい。できるな?」
「分かった。……全部、盗ってやる」
並々ならぬ決意で頷いたオトを連れ、ヘステスは藪の中に消えていった。
それからファンエーマも、後ろを振り返らず野営地を後にした。モムルが別の方に藪をかき分けて進む音が遠くに聞こえた。
食べられるかどうかの見極めはヘステスに託せばいいだろう───そう考えたファンエーマは、手当たり次第に見つけたものを両手に抱えて何度もたき火の前と藪の中を往復した。
地面に敷いた白布の上に茸が山と積み上がり、木に吊された名も知れない鳥の首から血が滴り落ちなくなった頃に、日は完全に落ちた。
ヘステスが着けていった焚き火の火を保ちつつ、ファンエーマはヘステスとオトの帰りを待った。
モムルは少し離れた所で黙々とボウガンの手入れをしている。火から遠ざかれば手元は見えにくくなるだろうに、相変わらず徹底した槍女嫌いっぷりだ。
火を見守るという仕事のおかげで沈黙は苦痛ではなかったが、いがみ合う相手と二人きりというのはどうしたって疲れてしまう。
できる限り早くヘステスとオトが帰ってきてくれることを願いながら、ファンエーマはまた枝を一本火にくべた。
どぉぅん、と鈍い音が遠くに聞こえた。
何気なくそちらに顔を向ける。村の方だろうか。
「───」
それほど間を置かずに、今度は人の声らしい細い音が聞こえた。
すぐにその音は、さわさわと風が草を撫でる音に取って代わられ、消えていった。
何だったのだろうか、とぼんやり考えながら再び火と向きあおうとしたときだった。
「───」「───」「───」「───」「───!」「───!」「───!」「───!!」
人の声が幾重にも続き、徐々に大きく、強くなっていった。
ファンエーマは思わず立ち上がり、耳を澄ませた。
自然の奏でる音に混じって、遠くからいくつもの叫びが届いてくる。
「───!!」「───!!」「──を!!」「──を!!」
「集会を!!」
「───っ!!」
遠い叫びを意味のある言葉として聞き取った瞬間、ファンエーマの背筋に未だかつて感じたこともないような悪寒が走った。
こうして島民が集会の開催を叫んだ後に起こったことを、ファンエーマは忘れてなどいない。
ファンエーマは即座に槍を掴み、走り出した。
月明かりの下で藪を一心不乱にかき分け、体力のことなど何も考えず叫びの聞こえた方へと突き進む。
村に近づくにつれ、ファンエーマの鋭い嗅覚は風の中に微かな血の臭いを感じるようになった。それは、昨日死んだ老女が流し、既に腐り始めた血の臭いではなかった。
それは、戦場の中に漂うような、まだ生臭く暖かい血の臭い。
さっきまで絶え間なく上がっていたはずの叫びは、もう聞こえない。
どうしようもなく募っていく焦りをさらに力に換えて、強く強くファンエーマは駆けた。
すぐに村の周縁部に辿り着いた。
辺りを見回す。まだ日が沈んでそれほどの時間も経っていないのに、人の気配がない。
さほど遠くない場所に煙が立ち上っているのが見えた。
ファンエーマは迷わずそちらに足を向けた。
いくつ目かの角を曲がった瞬間に、ファンエーマは立ち止まった。
「───っ、ぐ」
吐き気がこみ上げてきたのを、全力で押し殺す。
数え切れないほどの人が、倒れ伏し、あるいは蹲っていた。
何人かは手脚をすっぱりと失っていて、残った手で切断面近くを抑えて震えている。また何人かは、真っ黒に焦げた布地との境界線も定かではない焼け爛れた肌を晒し、ピクリとも動かないでいる。
ファンエーマはムカムカする胸を左手で押さえつけながら、惨禍のただ中に立つ一軒の家に向かって歩を進めた。
壁から何本か、氷の杭が突き出ている。
溶けた水と混ざり薄まった赤い液体滴るそれらをできる限り触らないようにしながら、ファンエーマは家の玄関をくぐった。
「……」
家の中には何体もの石像が転がっていて、どれもこれも、苦悶の表情を顔に貼り付けていた。
外に倒れていた、まだ「息のある」人々と比べ、遙かに重篤な傷を負っていることが石像たちの共通点だった。
何度か石像をひっくり返すなどして探してみても、オト、ヘステスの顔は見つからない。
家の外に出て、ファンエーマは近くに座り込んでいた島民の一人に槍を突きつけ、顎を穂先で持ち上げた。
「答えなさい……っ、ここに、老人と、少女が、連れだって現れたはずです! 二人をどこへやったのですか!」
まだあどけなさを残す年頃の少女は、半分以上焼け爛れた顔にもはや嫌悪しか抱かせることのない微笑みを浮かべた。
「〈ケカシェ〉のお二人は、大いなる海の御許に参られました」
再び、ファンエーマは走り出した。
今度は村の外へ。今朝、チェリに連れられて目指した、海岸の方へ。
身体中が疲労を訴えても、深呼吸を欲しても、ファンエーマは止まらなかった。
藪を抜け、広い海が視界に広がった。
海岸沿いには多くの人がいて、そして沖合にいくつもの明かりが浮かんで見えた。
意思が先に現実を理解して、ファンエーマの身体をついに疲労が飲み込んだ。
ファンエーマはよたよたと海の方へ進み、足に水の冷たさを感じて立ち止まった。それ以上、ファンエーマと石像と化した二人との距離が縮まることはなかった。
「……どう、して……!」
既に、ラズエイダとテレミアが〈ケカシェ〉として渦の中に投げ込まれたはずだった。
それで穴は塞がるのだ、と老女は語っていたはずだった。
”余り物”の四人には、誰も興味など示してはいなかったはずだった。
それが、どうして。
「大いなる海の沙汰により、〈界渦〉に運ばれこの島へと辿り着いた夫婦、つまり〈ケカシェ〉には、〈界渦〉を蓋するという任が託されております」
漏れた声を質問と受け取ったのか、近くに立っていた男の口がパクパクと動いた。
既に知っていることばかりを聞かされたファンエーマは、苛立ちのあまり槍を突きだそうとした。
そのとき。
何の前触れもなく、身の毛もよだつような閃きが思考を真っ白に染めた。
───今船を出せば、皆様は大いなる海の沙汰に身を委ねることとなりましょう。
今朝、まさにこの海岸で、四人を見送るチェリが口にした台詞だ。
そのときは、ただ単に荒れている海の上へと漕ぎ出そうとする無謀を諫めようとしているのだと考えていた。
だが、もしも、チェリの台詞がその言葉通りの意味を持つというのなら。
話は全く別のものに変わる。
四人は、大いなる海の沙汰に身を委ねたのだ。
「……私達は、島を出て……渦の中に入り。……島に流れ着いた」
形にできてしまった理屈を、震える声で辿る。
大いなる海の沙汰により、〈界渦〉に運ばれ、島に流れ着いた、男と女。
それはまさに、この島の狂気に彩られる伝承が定める〈ケカシェ〉そのものでしかない。
ヘステスとオトは、昨日の二人とは全く関係なく、新しい〈ケカシェ〉として認められてしまったのではないか───
「はい」
微笑みの中心で、口が動き出した。
男の白い歯が月の光を照らし返すところまで、ファンエーマには見えてしまった。
「大いなる海は〈ケカシェ〉として、新たに二人をお見定めになられました。皆様が六人という奇妙な人数でいらっしゃったのには、このような意味があったのですね」
目の前が暗くなった。
怒りと、それをドロドロに塗りつぶす恐怖が身体に溢れた。
足に力が入らず崩れ落ちた直後、
「───こいつぁ、何だ?」
強ばった男の声がした。
ファンエーマがついさっき進んだ道をそのまま辿って、油断なくボウガンを構えたモムルが近づいてきた。
既に槍を持ち上げる気力もないファンエーマは、頬をボウガンの弦で叩かれるまでモムルが自分に問いを投げつけていたことに気づかなかった。
「おい、槍女。説明しろ。これは、何だ」
「……ヘステス様とオト様が」
ファンエーマは言葉に詰まった。
「二人がどうしたんだ」
「あは、ははっ」
恐怖だけが引き攣った笑いとなって口から溢れた。
自分が何を問われているのか分かっているのに、答えもはっきりと分かっているのに、何故か言葉にすることだけができなかった。
「言えよ」
言葉にすることは、何もかもが終わってしまったと認めるのと同義だった。
「言えよこのクソアマ!」
絶叫したモムルに肩を強く弾かれ、ファンエーマは顔から塩辛い地面に崩れ落ちた。
その拍子に、するり、と言葉が脳の障壁をくぐり抜けた。
「お二人が、海の、底へと……!」
モムルは何も答えなかった。
ファンエーマと同じようにここまで全力で走ってきたのだろう、その息は荒い。
「……クソが」
やがて、ぽつりと悪態をついたモムルは、ついさっきまでファンエーマが話していた男にボウガンを向けた。
「おい、これが分かるな」
「ええ、理解しておりますとも。弓の一種でございますね」
「なら良い。命が惜しけりゃ、石にされた身体を元に戻す道具を出せ。今すぐに」
「それは私にはできません」
「そうか」
ばづん、と弦が跳ねる音が夜の闇を割った。
崩れ落ちた男の死体を次の矢を装填しながら跨ぎ、モムルはまた近くにいた女にボウガンを向けた。
「次。お前。石から元に戻す道具を出せ。ああなりたくなけりゃな」
「いいえ、それはできません」
「ふん」
ばづん。
「出せよ」
「いいえ、それは不可能です」
ばづん。
「出せ」
「いいえ、申し訳ありませんが───」
ばづん。
「出せ」
「モムル様」
モムルの意図するところを理解したファンエーマは、静かに彼の名を呼んだ。
このまま放っておいたなら、狂気に飲まれたモムルは何の成果もなくただ島民を皆殺しにしかねない。
「あ?」
「彼らは命を失うことを全く恐れません。質問を変えましょう」
「指図すんな」
「テレミア様を元に戻したいのでしょう。なら、冷静でいなければなりません」
モムルはようやく考える素振りを見せた。
「いくら殺しても出てこないのですから、次は「道具を持っている人間は誰なのか教えろ」が正しい問いです。それと、いちいち殺してしまっては次の質問相手を探すのが面倒でしょう。殺したければ後でまとめて殺せば良いのです」
「ちっ……ほら、聞いてただろ。どいつが道具を持ってんだ、吐け」
「答えることはできません」
引き金を触る指に力がこもったものの、弓が放たれることはなかった。
どうやら、モムルはここにきて”槍女”の助言を聞き入れることにしたらしい。
土壇場で生まれた奇妙な連携を、ファンエーマは妙に心地よく思った。
「で? 次は?」
「そうですね、私もこういった尋問は不慣れなのですが……「最も立場が高いのは誰だ」、あたりでしょうか?」
「ほら。答えろよ」
「あそこにいらっしゃる、チェリ様になります」
「あん?」
男が口にした名前は、二人もよく知る女のものだった。
「行きましょう」
「……ああ」
迷わぬ足取りで二人は泥地を進み、沖合をじっと見つめるチェリの前に立った。
「おや、いらしたのですね。皆様の〈遇者〉ではなくなってしまいましたので、ご要望は今代の〈遇者〉に」
「───欲しいものがある。話をさせろ。お前が一番偉いんだろ」
モムルがチェリの言葉を遮った。
「はて、何でございましょう?」
「石になった人間を元に戻す道具だ。持ってんなら今すぐ出せ」
「ああ、【白の杖】でございますね」
軽く頷いたチェリは、「残念ながら」と続けた。
「皆様にお渡しすることは叶いません」
「何故だ」
「この島には一本も存在しないからです」
モムルは押し黙った。おそらく、嘘をつかれている可能性を踏まえつつ、どうすれば有益な情報を引き出せるのかを考えている。ただ、すぐには方策を思いつけないようだった。
そして、それはファンエーマにしても同じであった。
あっさりと突き返されないために何を問えば良いのかなど、普段こうした交渉ごとには触れてこなかったファンエーマにはとても分からなかった。
「こちらをご覧下さい」
二人よりも先にチェリが沈黙を破った。
彼女が取り出したのは、白い小さな木の棒の破片だった。
「つい先程まで私が持っていた【白の杖】となります。破壊済みであり、効果を持ちません」
黙ったままの二人に向けて、チェリは淡々と説明を続けた。
「先程、ヘステス様がこの【白の杖】が欲しい、と仰せになりました。大いなる海は、封海の民以外の者の手に【白の杖】【黒の杖】が渡るのをお許しになりません。そのため、黒島に存在する【白の杖】および【黒の杖】は全て破壊が済んでおります。知らせを送りましたので、じき白島でも」
ばづん。
「がっ」
ばづん。
「 」
ばづん、ばづん。
「……それ以上は矢の無駄です」
ばづん、ばづん、ばづん、ばづん。
「モムル様」
「うるせぇよ」
ファンエーマはそれ以上声をかけないことにした。
モムルがいなければ同じことをしただろうという自覚があった。
昨日の老女と同じように、チェリの身体は見るも無惨な肉塊へと成り果てていった。
昨日も感じたどす黒い充実感はあっという間に消え去って、後にはただ空しさと絶望だけが、昨日にも増して重たく、克明に、刻み込まれていた。
矢を全て使い果たし、状態の良い矢を肉塊から引き抜いてはまた撃ち込み───という不毛な作業を繰り返したモムルは、あるときふっと気が抜けたように動きを止めた。黙々と矢を引き抜き、体液と肉片に汚れたそれらを海水で洗い、矢筒に詰める。
主君を失い、主君を救うための手立ても失った役立たずの護衛たちは、言葉一つないまま藪をかき分けて進んだ。
消えかかった焚き火の前に戻ってから、ファンエーマとモムルは食事の支度に移った。
状態の良い茸を適当な枝に刺して炙り、鳥を槍で無理矢理捌いて同じように炙る。
四人分を想定して集めてきた食材は、二人程度の胃袋など簡単に満たしてしまった。
素材のえぐみと煤の香りが強く残る口を洗い流そうとしたファンエーマは、飲み水がないことに思い至った。
ヘステスが水を魔導で出すことに慣れてしまっていた二人に、「水を用意する」という発想は浮かんでいなかった。
近くに湧き水があったような記憶はない。
村にいる水魔導士を頼るほかに、飲み水を手に入れる方法はなさそうだった。
ファンエーマは唾を何度も口の中に溜めては飲み込んだ。
村に向かうことはできない。
この野営地を離れられない理由があった。
ファンエーマは焚き火を挟んで向かいに座るモムルの様子を盗み見た。
先程まで黙々と口を動かして食事を身体に詰め込んでいたモムルは、今はただ揺らめく火を見つめて動かないでいる。
内心でため息をつく。
どうやら、考えていることは同じなのだろう。
それから長い時間が過ぎ、いつしか日が昇った。
二人はその間、村に行くことも、用を足しに近くの藪に隠れることも、眠ることも、全く何もせず、ただ火の前で向かい合って座ったままでいた。
ファンエーマは、このままでは埒が明かないと判断した。
護衛としての訓練と過酷な逃避行を乗り越えてきたファンエーマにとって、一日二日飲まず食わずで動かないでいることなど造作も無い。それがモムルも同じだとすれば、この戦いは二人の気力が尽き果てるまで終わらないことになってしまう。
主君たちの元へと繋がる穴が開いている時間に限りがある以上は、どこかで区切りをつけなければならないのだ。
「モムル様」
「何だ」
ずっと動かないでいたのに、モムルの反応は一瞬だった。
「少し、話をしませんか」




