9. 槍の女
頬を叩かれる衝撃で、テレミアは意識を取り戻した。
「がはっ、ぐっ」
モムルの手がすぐに伸びてきて、身体を起こそうとして咳き込んだテレミアの背中を支えた。
「おい、大丈夫か!?」
「っ、水を、飲ませ、て」
「水か!」
モムルは腰に提げた水筒をテレミアの口もとにあてがった。
「ゆっくり飲めよ、いいか、ゆっくりだからな」
モムルが水筒を傾けるのに任せて、テレミアは彼の指示通りゆっくりと水を飲んだ。
焼き付いた喉が十分冷えたと思った頃に、そっとモムルの手は引き下がっていった。
「ありがとう」
未だにクラクラする頭で、何か異常がないか確かめる。
つい先ほどまで身体を満たしていた熱は既に跡形もなく消え去っていた。
五体満足のままの身体は、今は思い通りに動かすことができる。
「……」
しかし、身体の中のどこかが、明らかな違和感を訴えていた。
熱が失われたとき、己を満たしていた何かも一緒に飛んでいったような、そこにあるべきものが欠けてしまったような、そんな感覚。
違和感というよりも、喪失感と呼ぶ方が正しいかもしれない。
テレミアは気を失う直前に感じていた温もりを思い出して、震えるように息を漏らした。
あれは一体、何だったのだろうか。
……分かるわけもない。
というより、わけの分からないことが起こりすぎている。
あの苦痛はなんだ。あの剣はなんだ。この少年は何者なんだ。
いくら考えても答えが出せる気がしない。
テレミアは頭を振って、こんがらがった思考を振り払った。
「……とりあえず、宿に戻ろう」
「……そうすっか」
土埃を払いながら立ち上がる。
未だに目を覚ます気配のない少年を一瞥して、テレミアは宿に向けて足を踏み出した。
テレミアの耳が風切り音を捉えたのと、背後のモムルがテレミアの前に飛び出したのは全くの同時だった。
大きな手によって後ろ向きに放り投げられたその直後に、ギィン! と金属同士がぶつかる音が響いた。身体を引き起こすと、懐の短剣を抜き放ったモムルが、テレミアの胸があった場所に突き出された槍を辛うじてそらしたところだった。
「おい、いきなり何だ!」
モムルの問いかけに対しての回答は槍のひと突きだった。
再び金属音が響きわたる。
「物騒だな、ええ!?」
モムルの手から放り出されたランタンの側に、質素な給仕服に外套を重ねた襲撃者の姿が浮かび上がった。
淡い茶色の長髪を後ろに束ねた、すらりとした立ち姿の美しい女。
短剣では捌ききれなかったか、左手で脇腹を押さえたモムルに、女は槍を突きつけた。
「貴様らッ……生きて帰れると思うな……!」
「おい、俺達が何をしたってんだ!」
「どの口で、それをッ!」
激昂した様子の槍使いは激情を隠そうともせずに突っ込んできた。
端麗な姿に似つかわしくない、使い込まれたものと一目でわかる槍を握った女は、怒りに身を侵されながらもその槍相応の技量を持ち合わせているように見えた。素早い身のこなしから繰り出される鋭く手数の多い攻撃を、モムルは防ぐことで手一杯のようだった。それどころか、打ち合う度にモムルの身体には傷が増えていく。
それを見たテレミアは反射的に剣を抜き、モムルの前に飛び出した。
「下がって、私がやる!」
「逃げろテレミア、倒れてただろう、が!」
「大丈夫、もう動ける!」
「相当な手練れだぞっ!」
「じゃあ尚更モムルは下がってて!」
モムルに拒絶されるのも構わず、テレミアは繰り出される槍の前に左腕から生み出した盾をねじ込んだ。
槍とぶつかり合い火花を散らしたテレミアの盾を見て、モムルが息を飲んだ。
「お前、その盾は誰にも見せないって決めただろ!」
「どっちみちこいつとは殺し合うんだから、温存する理由もないでしょ!? 見られた以上は絶対に殺さないといけないけどっ!」
「クソ、仕方ねえなぁ!」
悪態をついたモムルはようやく状況を受け入れたようで、携帯していた小さめのボウガンを構えつつテレミアから離れて行った。
テレミアはモムルが矢を打ち込む隙を生み出すための策を練りながら、気を失ったままの少年を背中に守るように槍を振るう女に正対した。
「いきなり襲ってくるなんて、酷いことをする、ねっ! 私たち、別にあんたを怒らせることはなんにもしてないと思うんだけど!?」
「黙れッ! イダ様を手にかけた、それだけで貴様らが死ぬには十分だ!」
「イダ様って、何のことさ!」
「ふざけたことを抜かすなッ!」
切り結びながら隙を探るべく会話を試みるも、怒りに顔を歪める女とは全く噛み合う気配がない。
それどころか更に攻撃の鋭さが増す始末で、テレミアは思わず唇を噛んだ。
背後からばしゅっ、と音がして、モムルの放った矢が闇夜を切り裂くように飛んでいった。しかし女は超人的な反応を見せ、身を捩りながら矢を槍で叩き落とし、進路を変えられた矢は地面に突き刺さった。
こんな暗闇の中でできる芸当とはとても思えない。闇を見通す目を持っているのか、何らかの魔導によるものなのか。
何にしても、モムルの狙撃はどうやらあてにできなさそうだ。怪我をしているのもあって、狙いが定まらないのかもしれない。
踊るような足捌きですぐさま体勢を整えた女は、再びテレミアに猛攻を加える。
一呼吸で三突きも飛んでくる攻撃に対し、左腕の盾で細かく角度を調整しながら逸らすように弾く。
女は突きでは埒があかないと判断したか、一歩下がって槍を振りかぶった。
テレミアはそれを隙とみて、距離を詰める。
がら空きの胴に剣を突き出す。しかし、突き出した剣は服を貫くことすらなく空を切った。
壁を蹴って宙に舞った女が既に槍を振り下ろし始めているのを、テレミアはここでようやく認識した。
剣を突き出した後の無理な体勢で盾を構えるも、間に合わない。
力で押し切られ、いなしきれなかった槍先が肩を裂く。
「っ!」
テレミアはたまらず後退した。
女はそれに着いては来ず、未だ起き上がらない少年を背に油断なく槍を構えた。
さっきのは辛うじて浅い傷で済んだが、少しずれていれば首か頭を切られていた。
このまま戦い続けたなら、この女の言葉通り、生きては帰れないかもしれない。
己と女との間にある技量差を理解したテレミアは心の中で大きく舌打ちをした。
認めなくてはいけないだろう。始めから、尻尾を巻いて逃げ出すべきだったのだ。
モムルにこの女のことを任せて、自分の命を守る判断をしなくてはならなかった。きっとヘステスに「非合理的だ」とこっぴどく叱られるだろう。
もし、生きて帰れたならば。
実力差を埋めるための策を必死に考える。
本気で走れば、一応は身内である海賊たちの大勢たむろする港まで逃げられるだろうか。それとも後始末はヘステスの治癒魔導に任せて、捨て身で挑むべきだろうか。
どちらも、弱い。あのすさまじい槍捌きに身体能力が、そんな単純な解決策を押し通させてくれるとは思えない。
何か、あの怒りに滾る女の裏をかけるような方策は───
ばしゅっ。
考えを巡らせていたそのとき、動けないでいたテレミアのそばを風切り音を唸らせながら矢が飛んでいった。
「!」
女はさっきと同じように、矢を槍で叩き落とした。
ただ、どうしてか、少しその顔には焦りが見えたような気がした。
「だろうな」
背後からモムルの声が響く。
やけに含みがあった。
女の「まさか」という呟きが聞こえた。
「今の矢は動かなくとも姉ちゃんには当たらなかったはずだ」
女はギリギリと歯を食いしばり、燃えるような目つきでモムルを見つめる。
「姉ちゃんの大事な人なんだろ、その坊っちゃまは。じゃあ俺がそいつを狙う限り、お前はそいつの側を離れられねぇってこった。さもなくば大事な坊っちゃまが大事な大事な臓物を吹き出しちまうからな」
話しながら装填を終えたモムルが三たび矢を放つ。女からは離れた位置で、槍が矢と衝突した。
穂先の震えを隠そうともせず、女が口を開いた。
「イダ様を、どれだけ愚弄すれば気が済むのですか……?」
「愚弄するも何も先に襲ってきたのはお前だろうがよ。ま、そもそも今持ってる弓がもっと引きの強い奴だったらこんなまだるっこしいこともしねぇんだが、こればっかりは仕方ねぇ」
「この、下衆野郎……ッ!」
女がモムルに意識をとられた隙を見逃さず、テレミアは攻勢に転じた。
「その程度!」
頭、胸、腹。
正中線に的確に加えられた三連撃を完璧に迎撃し、女はテレミアに向けて槍を突き出そうとする。
「ほらよ」
「っ!」
しかし、致命の一撃がテレミアに届く前に、モムルの矢が少年に向けて放たれる。女は即座に槍を引き矢を叩き落とす。
テレミアは一瞬の意識の狭間を縫って、女の側に滑り込み、盾を消した左手でがら空きの脇腹に触れた。
「『雷よ』」
暗い路地裏に小さな稲光が走る。これで終わりだ―――
「『雷よ』」
「!?」
テレミアは背筋に走った悪寒に従い、その場から飛びすさった。
魔導を行使したまま伸びていた左腕に強い力が加わり、鋭い痛みがそれに続く。
反射的に右手で左腕を押さえる。ぬるりと生ぬるい感触がするのは、考えるまでもなく血だろう。
「嘘、でしょ」
テレミアの目の前には、雷の魔導をその身に食らって尚健在の女が、血に濡れた槍を突き出した格好で立っていた。
「……雷には、私も多少の覚えがあります」
ヘステスがテレミアに施した訓練の中に、魔導に対する抵抗を鍛えるためのものがあった。放たれる魔導と同じ属性の魔導を行使し、周辺魔素に相手の魔導とは反対の指向性を持たせ勢いを相殺する。理屈はそれだけ。しかし、意図の読めない他人の魔導に干渉するには、途方もないほどの集中と技量が求められる。雷の魔導の初歩をようやく修めたにすぎない今のテレミアには、到底使えない技である。
それを目の前の槍使いは、近接戦闘中にこなしてみせたのだ。
槍のみならず、魔導士としても相当の技量を有している。
「テレミア、まだやれるか?」
「……大丈夫、いけるよ」
モムルの問いに答えながら、左腕に再び盾を呼び戻す。
健を傷つけられたか、肘を曲げようとするだけで堪えがたい痛みが走る。
「いいえ、その腕の傷では最早攻撃を防ぐことは難しいでしょう」
嘲るような女の声が響く。
「うるさい」
剣だけでも構えながら言い返す。
ここでその通りだと弱音を吐いてやる理由もない。
「でしたら、確かめて差し上げましょうか」
女が猛然と踏み出した。モムルが放った矢をいとも簡単に叩き落とす。
二人に割いていた意識をモムル一人に集中させているのだろう。
盾を構えようとしても、腕が言うことをきかない。
どんどんと距離が縮まっていく。
女が槍を振りかぶる。
まずい、このままだと、ほんとうに、死―――
「『出でよ氷壁』」
路地裏に響いたのは、テレミアにとっては聞き慣れた老人の声だった。




