82. 或る夫婦の結末
藁葺きの屋根の下、男は隙間風に負けじと麻布をきつく身体に巻き付けた。
真白の布は、男をどこか懐かしい日干しの香りで包んでいた。
ぶるり、と男の身体が震えた。それは寒さのためではなく、男の脳裏によぎった世にも恐ろしい光景のためであった。
「……いやぁ、ひでぇ目に遭ったな。海の水が渦巻くたぁ、一体どうすりゃ起こるんだ」
「メニョン河の上流にはああいう場所があるらしいわよ。滝壺の近くで、飲み込まれたら絶対に助からないから山師も近づかないって噂」
男の隣で同じように白い麻布にくるまっている女が、独り言のような声量で答えた。彼らが並んで座る藁葺き屋根の物置はあまり広い場所ではなかったから、二人で会話をするのにはそれで十分だった。それに、必要以上に大きな声を出すことは、どこか躊躇われた。
「へぇ、あるとこにはあんだな。……にしたって、まさかあんな大渦にはならねえだろうよ。第一、そいつぁ川なんだろ? 径も深さも、何もかも違いやがる」
「……そうね。ほんと、船より大きな渦なんて信じられないわ。悪い夢でも見たみたい」
「夢なら今頃俺たちはこんな―――」
その後に続くはずだった言葉を辛うじて飲み込んだ男はため息をつき、頭を掻いた。
「その、奥ゆかしき古風な島じゃなくてよ。普通にルダミューの宿にしっぽりしけ込んでたはずだぜ」
「ほら、失礼なこと言わないのダレン。突然這々の体で海から這い上がってきた私たちを何も言わずに泊めてくれたんだから。それに、千年前の遺物に埋もれる暮らしってのも、考えようによっては良いものじゃない?」
ダレン、と呼ばれた男は、納得したようなしていないような曖昧な顔で肩をすくめた。
揃いの首飾りを巻くダレン、そしてシェーンは、中央海域で行商を営む夫婦であった。
ルーダラムにほど近い寂れた島に貧乏農家の次男坊として生を受けたダレンは、農作だけを学び農作だけを仕事として退屈な日々を過ごしていた。
転機が訪れたのは、十五の誕生日のことだった。
「君、どうやら風の魔導が使えるみたいだぞ」
偶然その日に島にやってきた行商船団の風魔導士に気まぐれに手ほどきを授けられ、ダレンは農作とは全く関係のない自分の能力を知ることになった。
さらに、
「初々しいのに髭が濃くって凜々しかったの」
と奉公人として商人の一人に随行していたシェーンが偶然にもダレンを見初め、ダレンはダレンで
「瞳がくりくりしてかわいいと思ったんだ」
と商人の後ろに控えていたシェーンに偶然にも目を奪われており、巡り巡って二人は小さな船を駆ってルーダラム周辺の島々を巡る行商人として独立したのだった。
かつての自分では信じられない満ち足りた生活を送り始めて早十年。
三人の子供にも恵まれたダレンとシェーンの二人は、未だ冷めない夫婦熱を周囲からちやほやされながらも、信頼できる商人としての評判を確たるものとしていた。
日々新たな資源や製品が現れては消えを繰り返す大迷宮のお膝元・ルーダラムの北港に拠点を構え、得意先の島で喜ばれそうなものを仕入れては良心的な価格で売り払う。二人とお手伝いの老女を合わせた三人で切り回す小回りの利く商売は、大きな店を構え多くの丁稚奉公を抱えるような豪商とはまた異なる需要に支えられて、二人に安定を与えていた。
今日も今日とてダレンが風魔導で船を動かし、シェーンと二人広い海の上を進んでいたところである。二人を乗せた船は突如出現した大渦に揉まれ、振り回され、まともな航行能力を失ってしまったのだった。
ダレンが全力で行使した風魔導によってなんとか危機は脱したものの、歪んだ船体は舵も利かず、積んでおいた飲み水は海に攫われ、仕方なく二人は近くにあった島に身を寄せる決断を下した。それからはダレンが魔素切れと戦いながら休み休み風を放ち、港も入り江もない船泣かせな島の側の浅瀬になんとか錨を下ろし、最後は根性だけで海を泳ぎきって助けを求めて、そして今に至る。
幸い、海岸でばったり遭遇した島民は非常に親身に話を聞いてくれ、ずぶ濡れで震える二人に「私の家でよければ」と屋根までも貸し与えてくれた。暖かい食事や乾いた布の提供も含め、既に返せないほどの恩を受け取っている。
それ以上を望むほど、ダレンは強欲ではないし、恥知らずでもない。
……のだが、ひとたび息を落ち着けてみれば、こうして流れ着いたこの島はあまりにも奇妙な姿をしていると思われて仕方がなかった。
島の技術水準が現代のそれとはまるで比べものにならないことが、違和感の大きな部分を占めていた。魔導具ではなく火打ち石によって火を熾し、規格化された焼成煉瓦や寸法通りに切り出された岩を組み合わせるのではなくその辺で拾ってきたらしい石で壁を積み上げ、ガラスによって囲われたランタンと蝋燭ではなく風が吹けば消えてしまうような油灯で夜を照らす。まるで死霊の王が世界の半分を支配していた暗黒時代にでも放り込まれたかのような気分だった。
そんな無礼は何を間違っても口にはできない───とまともな頭を持つダレンは理解しているので、本音をしっかりと胸の内にしまい込んでシェーンに向き直る。
「……まぁ、ありがたくはあるぜ。金もないのに泊めてもらえるんだ、親切なんてもんじゃねえ。店に戻れたらしっかり礼をよこさねえとな」
シェーンは「そうね、何が良いかしら」と藁葺きの屋根を見上げた。
「まともな港もないし、島の外と商売してるのかもよくわからないわね。お金より、物の方が喜ばれそう。ほら、ルーダラムで最近流行りの黄鉄製の食器とか、どう?」
すらすらと考えを繋げるのはシェーンの得意分野だ。しっかり者である彼女の才覚に従うことでこれまで二人は上手くやってきたし、これからもそうであり続けるのだろうと二人は信じて疑っていない。
ダレンは頷き、同意を示した。
「そうだな、髪飾りやら小洒落た服やらよりはそういう実用的なものが良さそうだ。何せ」
家に泊めてやろう、という親切な島民に連れられて歩いた島の集落で見たものを思い出す。
「……どいつもこいつも同じ格好してるしな」
男も女も老いも若きも、誰一人の例外なく、島民たちは後ろに長い髪を束ね、白い一枚布で身をくるみ、黒い腰帯で止めていた。顔の作りすらも似通っているような気がしたのは気のせいだとしても、彼らがダレンとシェーンの二人を見て作る表情は完全に一種類、目を細める微笑みで統一されていた。
「不思議な風習よね。髪の色も染めないし、着飾ったりもしないし。そのくせ顔はいいのよねぇ。イイ男が沢山いるから自分を少しでも飾らなくちゃ、とか思わないのかしら」
シェーンはそう言って首をかしげた。
シェーンが他の男を褒めたからといって、別にダレンは怒りはしない。シェーンは何の悪気もなく、ただ純粋に思ったことを口にしているだけと分かっているからだ。
「逆だ、飾ったらつまはじきにされるんだ。こういう閉鎖的な島では仲間外れにされることの方が余っ程怖いんだよ」
故郷の島に漂う息苦しい一体感を思い出しながらダレンは言った。
「あら、よく知ってるわね。流石田舎者」
「伊達に十五年田舎で過ごしてた訳じゃねえからな」
ダレンとシェーンは笑い合った。
交わし慣れたやりとりを交わせば、不思議とこの知らない空間も我が家の居間であるかのように思われてくる。隙間風は相変わらず疲れた足に優しくないが。
「……考えれば考えるほど不思議な島よねぇ。ほら、広場にあった大きな石像、見たでしょ?」
シェーンが振ってきた石像のことも、ダレンにとっては不気味な雰囲気を感じさせる要因になっていた。
「ああ。まるで生きた人間が石の皮を被ってるみてえだった。あれを彫った彫刻師は出るとこに出りゃあ伝説になれると思ったね。そしたら何だ、隣の広場にも、店の中にも、何ならこの家の玄関にも、魚やら鮫やら犬やらしこたま置かれてやがる。この島は島民全部が凄腕の彫刻師なのか?」
「美男美女ばかりの古い風習を保つ島民たちは、外の世界には見向きもせずただひたすらに石に彫刻を彫り続ける。そこに船の難破で二人の旅人が訪れて……うーん、寝物語にぴったりね」
帰ったら子供たちに聞かせてあげなきゃ、と意気込むシェーンに向けてダレンは顔をしかめた。
「いたいけな子供達にロクでもないことを吹き込むのは止めてくれよ。どうせあれだろ、登場人物皆殺しの怪談だろ」
「正解」
丸い目を輝かせて笑うシェーンに対して、ダレンはどうもそういう気分にはなれなかった。
「……俺はもう寝るぜ。寝りゃあ魔素切れも治るってもんだ」
「あら、怖くなっちゃったの? 私が一緒におねんねしてあげましょうか?」
「うるせえ」
むくれて横になったダレンは、背中にシェーンのぬくもりを感じながら闇に意識を溶かしていった。
三人の子供を連れた老婆がルーダラムに数ある孤児院の内の一つを訪れたのは、シェーン商店に「臨時休業」の張り紙が貼られてから二ヶ月後のことだった。




