水族館④
「……悠くん」
七海がふいに、俺の方を向いた。いつもの柔らかな表情とは違う、どこか覚悟を決めたような、真っ直ぐで力強い瞳がそこにあった。彼女が口を開こうとする。その瞬間、俺の背筋に、ある種の予感のようなものが走った。
「っ、ちょっと待って」
俺は彼女の言葉を遮るように、少しだけ強引に指先を立てて唇の前に持っていった。
「……今は、ダメだ」
七海の目が大きく見開かれる。彼女が何を言おうとしているのか、分からなかったわけじゃない。むしろ、あまりに深く、あまりに真剣なその想いが、今のこの水しぶきと喧騒の中ではなく、もっと静かで、もっと二人だけの場所で受け止めるべきものだと直感した。
「ごめん、これは俺のわがままなんだけど、もう少しだけ待ってくれないか」
俺がそう言っうと、彼女は呆気にとられたような顔をした後、小さく「……うん」と頷いてくれた。その横顔には、少しの戸惑いと、それ以上に、俺への深い信頼が滲んでいた。
「よし、行こう。カッパを返して、温かい飲み物でも買おう。少し冷えちゃったしな」
俺は繋いだ手を引き、スタジアムの出口へと向かう。濡れたカッパが歩くたびにシャカシャカと音を立てるのが、まるで二人の新しい呼吸を刻んでいるようだった。
売店へと向かう道中、俺たちは少し落ち着きを取り戻した。先ほどまで濡れていた身体も、日が照り始めた園内を歩いているうちに、心地よい熱を帯びてくる。売店の前にはすでに長い列ができていたが、俺たちは並んでいる間も、ショーの話や、イルカたちの動きの凄さについて他愛のない会話を続けた。
「あったかいミルクティー、すごく美味しいね」
「ああ、冷えた身体に染みるよ」
ベンチに座り、湯気の立つ紙コップを両手で包み込む。七海の指先が、少しだけ温まっているのを見て、俺は安堵の息をついた。
「……ねえ、七海」
俺が声をかけると、彼女はコップから顔を上げ、不思議そうにこちらを見た。まだ少しだけ赤い頬が、ミルクティーの湯気でさらに火照っているように見える。
「今日ね、この後、どうしても七海と行きたいところがあるんだ」
俺がそう告げると、七海は少し驚いたように目を瞬かせた。
「行きたいところ? ……どこなの?」
七海はミルクティーのコップを両手で包んだまま、きょとんとした表情で俺を見上げた。その瞳が、街の灯りを反射してキラキラと揺れている。俺は自分の心臓が、さっきのイルカショーの時よりもずっと激しく脈打っているのを感じた。
「少し、歩くけどいいか? ……静かな場所で、ちゃんと話したいことがあるんだ」
そう言って俺が立ち上がると、七海もつられるようにしてコップをゴミ箱へ運び、俺の隣に並んだ。俺たちは水族館の喧騒を背にして、緩やかな坂道を登り始めた。
目指すのは、丘の上にある小さな公園だ。そこなら、二人きりで言葉を交わせる。俺たちの靴音が、静かな道に響く。七海は時折、隣を歩く俺の様子を伺うように視線を投げてくるが、俺はわざと前を向いて歩き続けた。
「ねえ、悠くん。さっき言いかけたことなんだけど」
七海の小さな呟きを、夜風がさらっていく。彼女は何かを察しているのかもしれない。だけど、今はまだ、その言葉を最後まで言わせたくなかった。
「……着いたよ」
坂道を登りきると、視界が一気に開けた。街の明かりが眼下に広がり、冷たい夜風が火照った肌を優しく撫でる。誰もいない公園の、一番見晴らしのいい場所。俺はそこで足を止め、ゆっくりと七海の方を向いた。
「悠くん?」
七海が不安げに俺を見つめる。その表情は、少しだけこわばっていて、けれど俺のことを真っ直ぐに信じきっている。俺は深く息を吸い込み、繋いでいた手を、もう一度しっかりと握り直した。
「七海。最近ずっと考えてたんだ」
俺は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「君と過ごすようになってから……気づいたら、俺の中で君が占める割合がどんどん大きくなっていたんだ。何をしていても、どこにいても、ふとした瞬間に君の顔が浮かんで……。ああ、俺、本当に君のことが好きなんだなって、自分でも驚くくらいに自覚し始めていた」
俺は一度言葉を切る。七海俺の手を握ったまま、静かに呼吸を整えている。
「でも、その気持ちを認めるのが、どうしても怖かった。今の関係が、すごく大切で……壊してしまうのが嫌だったんだ。それに、今の君は……心が弱っていて、繊細な時期から」
「君が弱っている時に、自分の想いを押し付けるのは、君の心を利用することになるんじゃないか……君を支える役目でありたいと願いながら、俺自身の欲求を伝えることは、卑怯なんじゃないかって、ずっと悩んでたんだ」
七海がゆっくりと顔を上げ、俺の目を見つめる。涙で濡れたその瞳には、俺の迷いを見抜くような純粋な光があった。俺は彼女の頬に触れ、そのまま真っ直ぐに見つめ返した。
「でも、君とこうして向き合って、君が笑ってくれるのを見るたびに、その気持ちは抑えきれなくなって……。どうしようもないくらい君のことが好きなんだ」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「君を守りたい、支えたい。一人の男として、君に隣にいてほしい。君のことが、大好きです。……俺と、付き合ってください」
俺の言葉が夜空に溶け、静寂が二人の間を満たした。七海は震える息を吐き出し、俺の胸に強くしがみついた。
「……っ、ずるいよ、悠くん」
彼女のくぐもった声が、夜の静寂の中に溶けていく。俺の胸元に顔を押し付けたまま、彼女の肩が小さく震えていた。その体温が、俺の心臓を、今度は熱い感情で満たしていく。
「……っ、せっかく私、勇気を出して言おうとしてたのに……」
彼女はそう言いながら、俺のシャツを握る手にぐっと力を込めた。悔しそうでもあり、けれどそれ以上に、溢れ出すような喜びがその言葉から伝わってくる。
俺は彼女の背中を、ゆっくりと、慈しむように撫でた。スタジアムで彼女の言葉を遮った時、どれほどの決意を彼女が固めていたのかは痛いほど分かっていた。自分から伝えるという勇気を持っていた彼女に、あえて「待った」をかけたのは俺だ。
「……ごめん。どうしても、君の気持ちを聞く前に、俺自身の言葉として伝えたかったんだ」
俺は彼女の肩を抱き、少しだけ身体を離して、その涙で濡れた瞳を真っ直ぐに見つめた。七海は少し呆れたような、でも幸せそうな笑みを浮かべた。
「……本当、悠くんってば頑固なんだから。……でも、そんなところも、大好き」
彼女は涙を拭うこともせず、潤んだ瞳で俺の顔をじっと見つめ返す。その表情は、どんな夜景よりも鮮やかに、俺の心を突き刺した。
「……うん。悠くん、付き合ってください。私も大好き。……悠くんのことが大好きです」
彼女が最後にそう言って、もう一度俺の胸に飛び込んできた。
静かな丘の上で、街の明かりが遠くで静かに瞬いている。
すると、不意に視界の端で光が弾けた。
「え……?」
七海が驚いて顔を上げ、俺の腕の中で身を固くする。俺たちがいる公園のすぐ下、水族館の向こう側に広がる海辺で、まさに今、夜空を切り裂くようにして最初の一発が打ち上がったのだ。
「ドンッ」という腹に響くような重低音と共に、大輪の黄金色の花火が夜空を埋め尽くす。
「うわぁ……!」
七海が思わず声を上げて夜空を見上げた。光の粒子が、さっきまで涙で濡れていた彼女の瞳の中に映り込み、きらきらと星屑のように輝いている。
「花火……! 悠くん、見て、花火が上がってる!」
興奮気味に俺の顔を見上げた彼女に、俺は少しだけ照れながら笑って答えた。
「よかった、間に合った」
俺の言葉に、七海はキョトンと目を丸くした。
「……知ってたの?」
「ああ。今日は土曜日だから、ここで花火が上がるのは知ってたんだ。だから、ここなら綺麗に見えるかなって思って」
俺がそう打ち明けると、七海は一瞬呆然とした後、とろけるような笑顔で俺の手を握りしめた。
「だからここまで連れてきてくれたの?」
「うん。……彼女と、一緒に見たかったから」
俺がまっすぐにそう伝えると、七海は嬉しさを隠すように、また俺の胸元に顔を埋めた。けれど、俺の背中に回された彼女の腕には、確かな力が込められている。
次々と打ち上がる色とりどりの花火が、夜の帳を鮮やかに塗り替えていく。赤、青、緑と、光が弾けるたびに彼女の頬が色を変え、その美しさが二人の夜をより一層特別なものにしていた。
「ねえ、悠くん」
轟音と光の余韻の中で、彼女が俺の名を呼ぶ。
俺が「ん?」と返事をする間もなかった。
七海は俺の首にそっと腕を回すと、背伸びをするようにして、そのまま俺の唇を自分の唇で塞いだ。
不意打ちだった。心臓が跳ね上がり、呼吸が一瞬止まる。けれど、すぐに彼女の柔らかい感触と、少しだけ震えている吐息に気づき、俺は思考を止めて彼女を抱き寄せた。
花火の「ドンッ」という音が、まるで二人の鼓動を加速させる合図みたいに何度も響く。光のシャワーが降り注ぐ中、彼女の長い睫毛が俺の頬をかすめ、微かな香水の香りが鼻をくすぐった。
やがて、花火が一段落し、夜空に一瞬の静寂が訪れる。七海は名残惜しそうに唇を離すと、真っ赤に火照った顔を俺の胸元に隠した。
「こんなの……我慢できるわけないじゃん」
俺は彼女の背中を抱きしめる手にぐっと力を込め、俺の胸に顔を埋めた。彼女の柔らかい感触と、今の高揚で早鐘を打っている心音が、薄いシャツ越しにダイレクトに伝わってくる。抱きしめることで、彼女という存在を、今日という奇跡を、この腕の中にしっかりと閉じ込めておきたかった。
七海は俺の胸元で小さく息を呑み、さらに俺の服を握りしめる。背中に回した俺の腕の中で、彼女が幸福そうに微かに震えているのがわかった。
「悠くん……」
彼女が名前を呼ぶ声は、夜風に溶けそうなほど甘く、それでいて切ないほど真っ直ぐだった。俺は抱きしめる力を緩めることなく、その髪にそっと額を寄せた。
「離さないでね」
花火の煙が夜空に薄く尾を引き、星空が静かに見守っている。俺たちはしばらくの間、ただそうして互いの体温を確かめ合うように、強く、強く抱きしめ合っていた。
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