水族館③
「……あ! 悠くん、見て! イルカショーが始まるみたいだよ!」
ペンギン水槽を後にして、俺たちは少し開けた屋外スタジアムへと急いだ。すでに大勢の家族連れやカップルで観客席は埋め尽くされている。俺たちは幸運にも、前方の座席にちょうど二人分の空きを見つけることができた。
「本当だ。ギリギリ間に合ったな。結構いい席じゃないか?」
「うん! ……ねえ、あの席、すごく前の方だよ。これって……もしかして、水、かかっちゃう?」
七海が少し心配そうに、水面を指さした。周囲を見渡すと、前列の人たちは皆、売店で売られている透明なポンチョ型のカッパを身につけて、準備万端といった様子で楽しそうに笑っている。
「本当だな。みんなカッパ着てる。……よし、ちょっと待ってて。俺、すぐに買ってきてやるから」
「えっ、でも、今から行くとショーが始まっちゃうよ!」
「大丈夫、すぐ戻る。七海はそこで席をキープしててくれ!」
俺は七海に駆け足でポンチョを買いに走った。戻ってみると、七海は少しだけ顔を紅潮させて、そわそわと俺を待っていた。
「おかえり、悠くん! ……これ、意外と着ると面白いね」
「ああ、お揃いだな。……よし、これで完璧だ。心置きなく水を浴びよう」
カッパを着た俺たちは、まるでこれから何かの冒険に出るかのような高揚感に包まれていた。さっきまでの深い海のような青の世界から一転、頭上には夏の抜けるような青空が広がっている。周囲の期待に満ちた騒がしさが、俺たちの気持ちをさらに昂らせた。
「ねえ悠くん、イルカってさ、ジャンプするときどんな音がすると思う?」
「音か……やっぱり『バシャーン!』って、大迫力の水音がするんだろうな」
「ふふっ、それもそうだけど、空中で『キュイッ』って高く鳴くのがすごく可愛いんだよ。あ! ほら、音楽が始まった!」
軽快なファンファーレとともに、水面が大きく揺れる。次の瞬間、二頭のイルカがまるで青い弾丸のように、空へと射出された。そのあまりのスピードと高さに、会場中の空気が弾けるような歓声に包まれる。
「わあ……っ! すごい! 悠くん、今の見た!? 今のジャンプ、すごく高かったよね!」
「ああ、見たよ! 息ぴったりだね」
「すごいね、あんなに自由に空を飛べるなんて。ねえ、見て! 今度は三頭で同時にジャンプしたよ!」
イルカたちの躍動に合わせて、七海はカッパのフードを少し揺らしながら、全身でその興奮を表現している。彼女がここまで無邪気に、声を上げて笑っている姿を見るのは初めてだった。クラゲの時のような静寂もいいけれど、太陽の下で弾ける彼女の笑顔は、何倍もの眩しさを放っている。
そのとき、イルカたちがトレーナーの合図に合わせて、観客席の目の前を猛スピードで通り過ぎた。
「皆さん、もっと近くでイルカたちのパワーを感じてみませんか!?」
そんな司会の煽りとともに、イルカたちが力強く尾びれで水面を叩く。
「きゃっ!?」
「うわっ、すごい……!」
バシャァァァッ!という豪快な音とともに、大量の水しぶきが俺たちの目の前を覆い尽くした。カッパを通り越して、顔や腕に冷たい水滴が降りかかる。
「すごい! 顔がびしょびしょだよ!」
「あはは! 本当だ、すごい威力だね!」
七海はカッパのフードに付着した水滴を指で拭いながら、これ以上ないほど楽しそうにケラケラと笑い声を上げた。前髪が少し濡れて顔に張り付いているけれど、その表情には一片の曇りもない。
「カッパ着てるのにびっしょり!」
「……でも、楽しいな!」
「うん、楽しい! ……あ、見て! 今度はあっちのイルカが水柱を作ってるよ!」
彼女は指をさして、また声を上げる。水しぶきを被ったこともイベントの一部として、今の俺たちにとっては最高の思い出になった。
「あの子たち、本当に賢いんだね。指示を出す前から、期待に応えるみたいに動いてる」
「本当だな。あんなに息の合った演技ができるなんて、日頃からどれだけ練習してるんだろう」
次々と繰り出されるダイナミックな技の数々。空中で回転し、また水面へと吸い込まれるように飛び込む。そのたびに上がる歓声と水しぶきのシャワー。俺たちはカッパの下で繋いだ手を一度も離すことなく、ただひたすらにその光景を追い続けた。
「ねえ、悠くん! 今度はイルカがこっちに挨拶してくれてるよ!」
七海はカッパのフードが少しズレるのも構わず、水槽の縁に身を乗り出して、愛嬌たっぷりに鳴くイルカに一生懸命手を振り返している。弾けるような笑顔、濡れた前髪、そしてイルカに向ける純粋で優しい眼差し。その光景があまりに綺麗で、俺は水槽の中のイルカではなく、隣で無邪気に笑う七海から目が離せなくなっていた。
「本当に可愛い」
イルカのことだと言いかけた言葉だったが、つい七海の横顔に視線が吸い寄せられ、俺は思わず心の声をこぼしてしまった。
七海は「えっ?」と驚いたようにこちらを向き、水しぶきで少し火照った頬をさらに赤く染めた。彼女の瞳が揺れ、イルカの鳴き声よりも先に、俺の心拍数が耳元でうるさく鳴り始める。気恥ずかしさと、彼女にもっと自分を見ていてほしいという欲張りが入り混じり、俺はあえて誤魔化さず、今度は彼女の瞳をまっすぐに見つめ直して、もう一度、確信を込めて言った。
「……かわいいよ」
言った瞬間、自分の顔が熱くなるのが分かった。水族館の開放的な空気と、イルカショーの賑やかな歓声に紛れて、今のは少しだけ勇気を出した告白のようなものだった。
七海は瞬きを数回繰り返し、まるで心臓の音を聞こうとするかのように、少しだけ俺に体を寄せてきた。カッパ越しに伝わる彼女の心音は、俺と同じように少しだけ早鐘を打っている。
「……もう、悠くん今日なんかずるい」
七海は照れ隠しに小さく唇を尖らせたが、その瞳には溢れんばかりの喜びが浮かんでいた。真っ赤になった顔を隠すように、彼女はカッパのフードを深めにかぶる。それでも、俺に向けられた視線が隠しきれないほど潤んでいるのは、ショーの照明や水しぶきのせいだけではないはずだ。
「ずるいって……褒めただけだよ」
俺はわざとらしく肩をすくめて見せたが、繋いだ手には自然と力がこもる。カッパ越しに触れ合う掌の熱が、今の俺たちの高揚を証明していた。
スタジアムでは、さらに大きな水柱が上がり、観客席から「わぁっ!」と地鳴りのような歓声が響く。だが、俺たちの耳にはその喧騒が遠い世界の出来事のように聞こえた。目の前のイルカたちは空中で華麗に回転し、まるで今の俺たちのやり取りを冷やかすかのように、勢いよく尾びれで水面を叩く。
「……だって、急にそんなこと言うんだもん。心の準備ができてないよ」
彼女は小さく呟くと、再びイルカたちのジャンプに向けていた視線を泳がせ、今度は俺の腕に体重を預けてきた。肩に伝わる彼女の体温が、カッパのひんやりとした感触を追い越していく。
「準備って……そんなこと言ったら、俺だって同じだよ」
俺は彼女の横顔をじっと見つめたまま、飾らずに伝えた。
「七海とこうして笑い合って、同じものを見て、同じように驚いて。……そのどれもが、今の俺にとっては不意打ちみたいなものだから」
「……うう、悠くん」
彼女は恥ずかしそうに肩を震わせ、さらに俺に寄り添う。その仕草の可愛さに、もう言葉なんていらないと思った。イルカたちのショーはクライマックスを迎え、二頭が並んで高く跳ねる。水面から飛び散る飛沫が、まるで祝福のシャワーのように俺たちの上に降り注いだ。
俺は咄嗟にカッパのフードを深く被り直したが、それでも隙間から入り込んだ飛沫が首筋を伝い、背筋をゾクリと震わせた。七海も「きゃーっ! つめたい!」と声を上げ、俺の胸元に顔を隠すようにして身を丸めている。
「すごい勢い……! まるでバケツで水をぶっかけられたみたいだね」
彼女はカッパの襟元から覗く少し濡れた顔で、ケラケラと笑いながら俺を見上げた。先ほどの羞恥心なんてどこへやら、今はただ、この容赦ない水の洗礼が面白くて仕方がないという表情だ。その無邪気な様子が眩しくて、俺は思わず彼女の濡れた髪を軽く払ってやった。
「本当にな。これぞ最前列の特権ってやつか。……七海、大丈夫か? 風邪ひかないように拭こうか」
「ううん、大丈夫! このくらいのほうが、ショーに来たって感じがして楽しいよ。ねえ、見て! あの水しぶき、虹になってる!」
彼女が指差した先では、イルカたちが作り出した霧のような飛沫に、午後の太陽が差し込んで鮮やかな虹のアーチを描いていた。スタジアム中に響き渡る観客の拍手と歓声、そして水しぶきの中で輝く彼女の横顔。その光景があまりに綺麗で、俺はまたしても、この時間を永遠に閉じ込めておきたいという強欲な願いに駆られた。
「本当にすごいな……」
俺が呆然と呟くと、七海は俺の服の端をぎゅっと掴みながら、さらに一歩俺に近づいた。カッパ越しに伝わる彼女の体温が、冷たい飛沫とは対照的に、今の俺をどこまでも熱くさせる。
「ねえ、悠くん」
ショーがフィナーレへ向かい、すべてのイルカたちが一斉に空高く飛び上がる。その圧倒的な水飛沫が再び俺たちを襲い、視界が真っ白になるほどの冷たさに包まれた。けれど、カッパの下で繋いだ彼女の手は、驚くほど温かかった。
「……すっごくいい思い出になったよ」
彼女はびしょ濡れのフードを脱ぎ捨て、濡れた髪をかき上げながら、濡れそぼったまつげ越しに俺をまっすぐに見つめた。その瞳に映る俺の姿は、きっと自分でも見たことがないほど、幸せそうな顔をしているはずだ。
「ああ。……一生、忘れないと思う」
イルカたちの最後のジャンプが終わり、スタジアムに終了のアナウンスが流れる。拍手の音が波のように広がる中、俺たちはカッパから滴る水を気にしながらも、その場に留まり、余韻に浸っていた。
「……悠くん」
七海がふいに、俺の方を向いた。いつもの柔らかな表情とは違う、どこか覚悟を決めたような、真っ直ぐで力強い瞳がそこにあった。彼女が口を開こうとする。その瞬間、俺の背筋に、ある種の予感のようなものが走った。
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