父の友人の話
新シリーズ開始しました
今作もよろしくお願いします
四月。大学四年生の春というものは、本来であれば将来の不安と、学生生活最後の猶予期間という甘美な時間が混ざり合う、どこか浮ついた季節である。
悠は大学の友人たちから「物静かなやつ」だと思われている。実際、人との距離を測りかねて黙り込んでしまう癖があるから、あながち間違いでもない。けれど、心の中はいつも誰よりも騒がしい。目の前の相手が今どう感じているのか、何を求めているのかを、考えすぎて動けなくなることが多々あるのだ。
そんなこんなで特別親しい友人はいない。彼女なんてもってのほかだ。しかし悠も人並みに彼女がほしいと考えることがある。
食卓の向かい側で、父は珍しく酒を口に含み、何度もグラスを弄んでいる。何かずっと悩んでいるようだった。
「悠、少しだけ話がある」
父が俺の名前を呼んだ。その声は酷くかすれていた。母はキッチンで食器を洗う手を止め、不安げにこちらを伺っている。俺は手元のスマートフォンを閉じ、テーブルの上の水を一口飲んでから父の目を見た。
「……どうしたの、父さん」
「……佐伯のことだ」
佐伯という名を聞いても、俺にはピンとこなかった。父の学生時代の友人だと聞いたことはあるが、十数年以上も交流は途絶えていたはずだ。幼い頃、一度か二度、家族で遊びに行った記憶があるような気もするが、それはもう夢か現か分からないほど遠い昔のことだ。
「佐伯さんって……父さんの友達の佐伯さん?」
「ああ。……実は昨日、連絡があったんだ。突然だった。会いたいと言われて……病院に行ってきた」
父はグラスを置き、膝の上で強く拳を握りしめた。その手が微かに震えていることに気づき、俺は背筋を正した。
「やつは、もう長くはないそうだ。余命、1年と数ヶ月……来年の夏を越せるかどうかだと言われた」
リビングから音が消えた。壁掛け時計の秒針の音が、心臓の鼓動と重なるように規則正しく響く。母が「え……」と小さく声を漏らした。信じられない、というよりも、受け入れたくない事実が、空間をゆっくりと侵食していく。
「あいつには、妻がいない。家族は高校三年生の娘、七海だけだ。ずっと悩んでいたみたいなんだが、いよいよ最期が近づいて、ようやく連絡をよこしたんだ」
父の目は赤く充血していた。
「あいつは、病院のベッドで泣きながら俺に言った。娘を……七海を引き取ってくれないかと」
「……なんで、うちなんだ? 十数年も会っていなかったのに」
俺の問いかけに、父は視線を床に落としたまま、絞り出すように答えた。
「昔、お前たちがまだ小さかった頃、あいつと何度か会ったことがあるんだ。その時のうちの様子とか悠を見ていたんだ」
父は俺を真っ直ぐに見つめた。
「加藤の家族なら、間違いなくあの子を温かく受け入れてくれるはずだ、と……頼むって頭を下げられた」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の中で、戸惑いが渦巻く。唯一の家族である娘を他人に託さなければならない。佐伯さんも悩んだはずだ。想像もできないほど苦しく辛い思いをしてきたのだろう。俺なら大丈夫、という父の視線が突き刺さる。俺は深く考えた。この引き取りという行為は、佐伯さんの人生を預かるということになる。果たしてうちでいいのか。オレは上手くやれるのだろうか。
「……佐伯さんと話がしたい」
そう絞り出すしかなかった。
この場で決められるほど簡単な選択ではないと思ったからだ。
「真剣に考えてくれてありがとう。週末、病院へ行こう」
週末、家族で佐伯さんが入院する病院へ向かった。 病室のドアを開けると、父と同じくらいの歳の男性が、真っ白なベッドの上で静かに微笑んでいた。その瞳にはどこか穏やかな光が宿っている。
「……来てくれたか」
男性の視線が、父から母へ、そして俺へと移る。俺は思わず小さく頭を下げた。
「久しぶりだね、覚えていないかもしれないけどお父さんの友達の佐伯です」
「こんにちは、悠です。残念ながら小さい時のことはあまり覚えていないのですが父から話は伺っております。父がいつもお世話になってます」
そう挨拶する悠を見て佐伯さんは安心したように微笑む。
「立派に大きくなったね」
横には、制服姿の七海が静かに寄り添っている。彼女は俺たちを認識すると、丁寧にお辞儀をした。
「初めまして。佐伯七海です」
「七海」
佐伯さんが静かに名を呼ぶと、七海は父の顔を覗き込んだ。
「ごめんよ。少しだけ、加藤さんたちと話をさせてくれないか。席を外していてくれると助かるんだ」
七海は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに「分かった」と静かに頷き、音もなく病室を後にした。彼女が扉を閉めるまでの間、俺と彼女の視線がかすかに交差した。その瞳には、父親の命が削られているという現実を、必死に飲み込もうとしているような深い色が混じっていた。
扉が閉まると、部屋には重い静寂が降りた。 そこからは、大人の話し合いだった。これからの七海の生活、学校のこと、そして何より、佐伯さんが抱える絶望と希望について。父と母は、真摯に佐伯さんの言葉に耳を傾け、ひとつひとつ約束を交わしていく。
話し合いは長引いた。夕暮れが病室の白いカーテンをオレンジ色に染め始めた頃、ようやく会話の波が穏やかになった。
「……本当に、ありがとう。これでやっと、安心できるよ」
佐伯さんはそう言って、心からの安堵を口にした。しかし、彼の表情はまだどこか晴れ切っていない。彼はゆっくりと視線を動かし、俺の顔をじっと見つめた。
「加藤、すまないが……少しの間だけ、悠くんと二人で話をさせてもらえないか」
「わかった」
父は頷くと母と共に席を立った。 静かになった病室。俺はベッドの傍らにある椅子を引き、佐伯さんの正面に座った。 心臓が速いリズムを刻んでいる。これから、一体俺に何を告げるのか。俺は自分の膝の上で拳を握りしめた。
「……悠くん、いきなりすまない」
佐伯さんの声は、先ほどよりもさらに弱々しく、しかし不思議なほどまっすぐだった。
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