誠実な二人
もう、うんざり。
私は王太子殿下のお話を聞きながら、隣の夫に気づかれないよう小さくため息をついた。
「先の魔獣討伐では、聖騎士たちが大いに活躍してくれた。その功績を称えて──」
王太子殿下による、軍人たちへの感謝の言葉が続いている。
皆が静かに聞いている中、私は向かい側に目を向けた。
王太子を挟んでちょうど真向かいに立っているのは若き公爵ジェアイス・レムとその奥方のイヴシェネア夫人。
レム公爵は妻の腰に手を回し、ぴったりと寄り添っているものの視線は斜め前の彫刻に向けられている。逆に夫人イヴシェネアさまの視線は、私の左隣に真っ直ぐ向けられていた。
おそらく、私の夫セドアレト・テアの視線もそちらに向けられているはずだ。
……あぁ、なんて馬鹿馬鹿しい。
私は歯噛みをこらえながら、ひたすら床を睨みつけていた。
◇
こちらの夫とあちらの夫人は、かつて恋人同士だった。
お二人は本当に仲睦まじくて、イヴシェネアさまが貴重な治癒魔法の使い手であったにもかかわらず、どの家も釣書を送ることはなかったらしい。
それでも申し込める格上の家もあったとは思うが、強引に横やりを入れるような真似をすると世間から叩かれる。もちろん我が家も、テア家はまったく眼中に入れていなかった。
けれどテア家は伯爵家で、イヴシェネアさまのご実家ウル侯爵家より格下になる。イヴシェネアさまのご両親は格上の家と縁を結ぶことを強く望まれたようで、結果二人は別れることになった。
そしてイヴシェネアさまはジェアイス・レム公爵に嫁ぎ、テア家と同格の伯爵家である私がセドアレトさまに嫁ぐことになったのである。
セドアレトさまは本当に誠実な方で、初夜のときもかなり気遣ってくださった。妻の私をとても大切にしてくださるし、誤解を招くような行動も一切なさらない。
あれだけ愛し合っていたお二人だから、私は彼らがいずれこっそり連絡を取って密会するだろう、と考えていた。それに対して目くじらを立てるつもりはなくて、ただそうなってくれれば堂々と離縁できていいな、と思っていた。
それなのに。
彼らはむしろこちらが心配になるほど、あっさりと距離を取っていた。セドアレトだけでなく、イヴシェネアさまも夫のレム公爵に尽くし、貞淑な妻としてますます名をあげている。
だから私も、セドアレトさまを心から愛そう、と決めた。以前の彼で判断するのではなく、今の夫を見て行こう、二人の未来を築いていこう。そうあらためて誓った。
それがいかに歪なことであったか。
気づかされたのは、ある日の舞踏会で高等学校時代の友人夫妻に遭遇したときだった。
彼らからこう言われた。
『メルネチェル、貴女は本当に誠実な方と結婚したわね』
そのときは単に夫を褒められたのだと思っていた。セドアレトさまは本当に誠実だったから。でも、そうではないことに気づいたのはそれから少し経ってのこと。また別の友人に会ったときだった。
『貴女は心の強い人ね。わたしだったら無理だわ、きっと大騒ぎして実家に恥をかかせてしまったでしょうね』
なんのことかわからず、さりげなく友人に訊いてみた。
すると、彼女の口から驚くべき言葉が放たれたのだ。
『夜会で出会ったとき、お二人はいつも見つめ合っているじゃない。お互い、なにもおっしゃるわけではないし触れ合ったりもなさらない。けれどずっと、熱く甘い視線を絡ませ合っていらっしゃるでしょう?』
──頭を殴られたような衝撃、とはこういうことを指すのだろうか。
それから私は、夜会のたびに二人の様子を観察するようになった。
すると、本当に二人は見つめ合っていた。あんなにあからさまに見つめ合っているのに、私は今までどうして気づかなかったのだろう。
さらに、社交界では彼らは“苦しい恋をしつつも決して一線を越えない、どうしようもなく誠実な二人”として評価されていることもわかった。
誠実? 妻以外の女を熱い眼差しで見つめているのに? そんなわけないじゃないの。
だから私は、セドアレトさまに直接抗議した。
『旦那さま。あなたは今、私の旦那さまです。他の女性を見つめるのはお止めになって!』
けれどセドアレトさまは私を優しく抱き締めながらも、首を縦に振ってはくださらなかった。
『メルネチェル、許してくれとは言わない。けれど僕は不実なことはしていないし、これからもするつもりはないよ。ただ、彼女の姿を見てしまったらどうしても気持ちが過去に戻ってしまうんだ。だけど心配しなくていい。絶対にキミを裏切ったりはしないから。僕の妻は、生涯キミだけだ』
『それは私を愛してくださっているからですか? それともあの方を恥知らずにしないため?』
私は泣きながら迫ったのに、セドアレトさまは困ったように笑うだけだった。
そのとき私は悟った。
夫がイヴシェネアさまとの接触を一切断っているのは、イヴシェネアさまを愛しているからだ、と。
互いの評判を落とさないために、あえて距離を取りただ視線を交わすだけ。
それにしても、理解できない。ここまでするほど深く思い合っているのなら、なぜ結婚できるように上手く立ち回らなかったのだろう。
夫も夫人も、決して頭は悪くない。二人で真面目に考えれば、家同士の力関係だのなんだのある程度の妥協を挟みつつ、絶対になんとかできたはずなのに。
◇
視線を感じ、顔を上げるとレム公爵と目が合った。
公爵もうんざりとした顔をなさっている。
二人をちら、と見ると、相変わらずお互いから視線を離そうとしない。この集中力にはむしろ感心する。長時間ずっと一点だけを見つめ続けるなんて、私には難しい。飽きるし目も疲れるし、なにより思わず笑ってしまいそうだもの。
そんなことを考えていると、かつて公爵と交わした会話がふと蘇って来た。
──お互い、面倒な相手と結婚したものですわね。
──本当にな。
──いっそのこと、浮気をしていただきたいのですけれど。
──こちらも煽ってはいるのだが、なかなか上手くいかなくてすまない。
以前ダンスのコンテストがあったとき、王太子妃殿下に指名された私とレム公爵がお手本として貴族子女の前で踊ったことがある。
選ばれた理由は、我が家とレム公爵家のダンスの流派がたまたま同じだったから。
踊り始めてすぐ、私は唇を動かさないよう注意しながらセドアレトの所業について謝罪した。『なんのことだ?』と言われることも覚悟していたけれど、レム公爵も私と同じということがわかった。
そこからどうにかお互いの配偶者同士をくっつけようとそれぞれ画策をしているのに、どうにも上手くいかない。
腹が立つほどに、彼らは“誠実”だからだ。
それにしても身体の関係がなければ誠実、と見なされるのはなぜだろう。見つめ合う彼らの間に流れる空気は、じゅうぶんに不誠実だと思うけれど。
それでも、ここで仮にレム公爵と私が“相談”と称して二人で会ったりしたら、悪者になるのは確実に私たちのほうになる。
だから私も公爵も、身動き一つ取ることができない。
離縁も意趣返しの浮気もできないまま、愛し合う二人の視線に熱い視線に挟まれ愛のない夫婦生活を一生過ごす。諦めるしかないのはわかっているけれど、なぜ私や公爵だけが苦しまなければならないのか。
嫉妬で苦しいわけじゃない。そんな時期はとうに過ぎている。
ただ、悔しいのだ。
心から愛する相手。文句ひとつ言わない結婚相手。誠実だと評価される立場。安定した人生。
彼らだけが、すべてを手にしている。
私たちは、なにも手にしていないのに。
「セドアレト。ご夫人」
私たちの前に、王太子夫妻がやってきた。私は淑女の礼をしたあと、ほんの少しうつむき夫から半歩ほど後ろに下がる。
「すまなかったな、夫人。さぞ心配だったろう」
「いいえ、殿下。国のためですわ」
そういえば夫は聖騎士団の第三部隊を率いていたような気がする。興味がないから、すっかり忘れてしまっていた。
「セドアレトのおかげで二つの村が救われた。本当に感謝している」
「ともに戦っていた従兄弟たちも助かった、と申しておりましたわ」
王太子妃殿下は、武勇に優れた辺境伯家ご出身の方。そのお身内に褒められるということは、とんでもない名誉なのだろう。
私は微笑みながらやり過ごした。実際に働いたのは夫だから、私が感謝を受け取る筋合いはない。それに夫が活躍したからといって、誇らしく思うことも特にない。
けれどイヴシェネアさまは愛する男が王太子夫妻の賞賛を受け、誇らしさで胸がいっぱいになっていることだろう。
良かったですわね。おめでとうございます、イヴシェネアさま。
「もったいないお言葉でございます、殿下。妻の祈りが、私の力になっていました」
夫の薄っぺらい言葉に吹き出しそうになるのを必死で堪えながら、“おっとりとした笑顔”を演出するために全力を注いだ。
「そうか。夫人がずっと祈ってくれていたのか」
「……はい。毎日、ひたすら祈り続けておりました」
「テア伯爵、貴方はもっと奥さまに感謝すべきですわ」
「承知しております、妃殿下」
夫は殊勝な顔で頷いている。
王太子夫妻はそれぞれ、夫に二言三言、なにやら言葉を与えたあとで去って行った。
言われなくても、夫は私に感謝してくれている。言葉でも、態度でも示してくれる。
だって彼は、とても誠実な人なのだもの。
「メル、心配をかけたお詫びに宝石を贈るよ。明日にでも買いに行こう」
「まぁ、旦那さま。夫の無事を願うのは妻として当然のことですもの。私、これからも毎日祈り続けますわ」
そう。
私は、私のために全身全霊で祈り続ける。
『旦那さまが、あの男が生きて帰ってきませんように』
──宝石はいらないわ。
その代わり、未亡人の座を贈ってくださらないかしら?




