113.魔王グラン・ディアヴォルス①
・・・微かな音が、闇の奥で揺れていた。
それは旋律だった。
柔らかく、静かで、傷ついたものすべてを包み込むような・・・音。
ライナの意識が、ゆっくりと浮かび上がる。
(・・・あれ・・・俺・・・)
重たい瞼を押し上げる。
ぼやけた視界の中で、最初に見えたのは涙を流しながら、震える声で歌い竪琴を奏でるリリスの姿だった。
淡い光が彼女の周囲に広がり、その音がライナの身体へと染み込んでいく。
傷が、少しずつ塞がっていく感覚。
「・・・リリス・・・」
かすれた声。
その瞬間。
リリスの指が止まった。
「・・・っ!!」
顔を上げる。
目が合う。
次の瞬間——
「ライナぁぁぁ!!」
竪琴を放り出す勢いで飛びついた。
「ぶっ!?」
「よかったです・・・!!ほんとに・・・よかったです・・・!!」
ぎゅううううっ!!
全力で抱きしめる。
「ちょっ、まっ・・・!!リリス待っ——」
ズキィッ!!!
「いっっっっっっっだぁぁぁああああああ!!!」
戦場に似つかわしくない大声が響いた。
「ご、ごめん!!ごめん!!」
リリスが慌てて離れる。
「まだ治りきってないの忘れてたです・・・!」
ライナは地面に転がりながら悶絶する。
「当たり前だろ・・・!あれ食らってんだぞ俺・・・!!」
涙目で抗議するライナ。
そんな二人を——
「・・・何やってんのよ、ほんと」
白けた目で見ている人物がいた。
ルミナだった。
「「ルミナ!!」」
ボロボロではあるが見た目に反して元気そうな様子を見てライナとリリスは安堵した。
「ゾーク戦で一段階上げたみたいですねぇ」
リリスはルミナが纏ってる魔力を見ていた。
「ライナとリリスが氷葬竜の核を預けてくれたおかげでね」
「そうか。役に立って、氷葬竜も満足してるだろ」
「うん。イグナ=へヴァルも喜んでる」
再会を喜んでいたのも束の間、ルミナが杖を肩に乗せ、ため息をつきながら二人を見下ろす。
「いつまでくっついてるのかしら?まだ魔王が残ってるのよ?」
その一言で、空気が引き締まる。
ライナは顔をしかめながら起き上がる。
「・・・分かってるよ」
リリスも表情を引き締める。
だが。
三人とも、明らかに消耗していた。
ライナは傷だらけ。
リリスは魔力を使い果たしかけている。
ルミナも疲労が隠せない。
「三人揃ってるとはいえ・・・この状態で魔王は、正直キツいわね」
ルミナが淡々と言う。
沈黙が落ちる。
どうするか誰もすぐには答えを出せなかった。
その時だった。
「ルミナ!!」
遠くから声が飛ぶ。
振り向くと二つの影が駆けてくる。
「カイル!フェリア!」
ルミナの声が少しだけ明るくなる。
駆け寄ってきたのは、魔術師のカイルと魔剣士フェリア。
「無事か!?」
「かなりやられてるみたいね・・・」
二人は状況を見て顔をしかめる。
「街を襲ってた魔物の群れは?」
ルミナがすぐに聞く。
カイルが頷いた。
「あらかた退けた。あとは残った者でも対処できる未来が視えてここにきた」
その言葉に、ルミナは小さく息を吐いた。
「・・・そう。よかった」
そしてすぐに鋭い目に戻る。
「で、何でここに?」
フェリアが軽く肩をすくめる。
「見れば分かるでしょ?」
カイルが袋を掲げた。
「回復薬だ。疲弊しきってオロオロしてるお前達が視えたからな」
一瞬の沈黙のあと——
「神かよ!!」
ライナが即答した。
薬を飲み、魔力を流し込み、三人の状態が少しずつ戻っていく。
傷が塞がり、呼吸が整う。
「・・・いけるかも」
ライナが呟く。
リリスも頷く。
「うん・・・さっきよりは、全然・・・」
ルミナも目を細める。
「・・・最低限、戦える状態には戻ったわね」
空気が、少しだけ前向きになる。
その時だった。
端の方から、声がした。
「・・・その程度でおめでたい奴らだな」
全員の動きが止まる。
視線が一斉に向く。
そこにいたのは瓦礫に背を預け、座り込んでいるヴァルゼルだった。
全身はボロボロ。
血が滲み、呼吸も浅い。
それでも——
生きている。
ライナの目が見開かれる。
「・・・っ!!」
反射的に剣を掴み、構える。
だが
「待ってです!!」
リリスが前に出た。
両手を広げ、ライナの前に立つ。
「大丈夫・・・!」
「大丈夫なわけあるか!」
「違うんです!」
リリスはヴァルゼルを見る。
その目には、もう戦意はなかった。
静かで、どこか穏やかな眼差し。
リリスははっきりと言った。
「・・・ヴァルゼルは、もう戦う気はないです」
ライナの手が止まる。
「・・・本気で言ってんのか?」
リリスは頷く。
「しぶとく生きてたのは、ものすっごく驚いたですが」
少し間を置いてから、続ける。
「もう敵対する意思はないです」
その言葉をヴァルゼルは否定しなかった。
ただ静かに、目を閉じたまま呟く。
「・・・その通りだ。勝負はついた」
空気が張り詰めたまま、止まる。
ライナはヴァルゼルに近づいた。
「さっきのおめでたい奴らだなとはどう言う意味だ?」
「そのままの意味だが?」
戦う気はないがヴァルゼルの目は鋭く、それだけでも充分脅威を感じるほどだった。
「魔王に勝つことか?」
ヴァルゼルはフッと笑う。
その目は、先ほどとは違いどこか冷めている。
「・・・逆に聞くが」
かすれた声。
だが、その一言には妙な重みがあった。
「何故お前達は・・・」
一拍、置く。
「今、“平然としていられる”?」
「・・・は?」
ライナの思考が、一瞬止まる。
意味が分からない。
だが——
次の瞬間。
脳の奥で、何かが引っかかった。
(・・・平然・・・?)
(何が・・・?)
(何に対して・・・?)
そして。
思い出す。
——あの時。
混沌竜との戦いの最中。
突如現れた、あの存在。
魔王グラン・ディアヴォルス。
その瞬間、空気が“壊れた”。
息ができなかった。
足が動かなかった。
ただ立っていることすら困難な、圧倒的な“圧”。
存在しているだけで、世界の方が拒絶しているような感覚。
(・・・なのに)
ライナの背筋に、冷たいものが走る。
(今・・・)
ゆっくりと、周囲を見る。
誰も何も感じていない。
静かだ。
あまりにも、静かすぎる。
(・・・おかしい)
(あの化け物が・・・)
(“いる”はずなのに・・・)
その瞬間。
ゾワッ
全身の毛が総立ちになる。
理解してしまった。
「・・・っ!!」
ライナの目が見開かれる。
ヴァルゼルが、フッと笑った。
「・・・気づいたか」
その笑みは、どこか楽しげですらあった。
だが同時に底知れない恐怖を孕んでいる。
「・・・あの“圧”がない」
ライナの声が、かすれる。
「・・・どういうことだ」
ヴァルゼルは淡々と答える。
「そのままの意味だ」
「魔王様は、この先にいる」
「・・・ふざけるな」
即座に否定するライナ。
「いるなら分かるはずだろ!!」
「この前みたいに・・・いや、それ以上に・・・!!」
声が荒くなる。
「本当のことを言え!!」
ヴァルゼルは、同じ言葉を繰り返した。
「・・・この先にいる」
それ以上は何も言わない。
沈黙。
空気が、じわじわと重くなる。
ライナの中で、苛立ちと焦燥が膨れ上がる。
「・・・舐めてんのか」
一歩、踏み出す。
「そんな状態でまだハッタリか——」
そのままヴァルゼルの胸倉を掴もうとした、その時。
——来た。
ドンッ
空気が、潰れた。
「・・・っ」
誰も、息ができなかった。
視界が、歪む。
地面が、沈む。
いや——
“押し潰されている”。
見えない何かに。
圧。
あの時の——
いや、それ以上。
「・・・あ・・・」
リリスの喉から、かすれた声が漏れる。
膝が、勝手に折れる。
ルミナが杖を落とす。
カイルも、フェリアも、言葉を失う。
全員の身体が、動かない。
逃げることすら許されない。
ただ“存在すること”を許されているだけ。
ライナの手が、ヴァルゼルの目前で止まる。
掴めない。
動かない。
指一本、動かせない。
その状態で。
ヴァルゼルだけが、わずかに笑った。
「・・・これだ」
その声すら、遠い。
「さっきまで“垂れ流し”だったものを」
ゆっくりと目を細める。
「完全に抑え込んでいた」
絶望が、理解に変わる。
「だから、お前達は“平然としていられた”」
「そして——」
ヴァルゼルの視線が、前方へ向く。
その瞬間。
さらに重くなる。
空気が悲鳴を上げる。
「今、解放された」
誰も顔を上げられない。
だが——
“いる”。
分かる。
見えなくても、分かる。
そこに。
“いる”。
世界の理から外れた存在が。
静かに。
確実に。
こちらを見ている。




