110.ライナVSヴァルゼル⑧
神竜グラウ=ネザルと完全同化を果たした、ライナがヴァルゼルの剣を片手で止めた、瞬間リリスの全身から力が抜けた。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたかのように。
「・・・よかったです・・・ほんとうに・・・」
その言葉は最後まで紡がれなかった。
安堵が限界を越え、意識が遠のいていく。
ライナはそれに気づき、振り返った。
「リリス!」
倒れかけた体を即座に抱き留める。
かつてないほど静かで、優しい動作だった。
リリスの呼吸は穏やか、生命の危険はない。
ライナは胸を撫で下ろし、彼女を両腕で抱え上げた。
そして、戦場の喧騒から少し距離を置いた場所へ歩み、
柔らかい地面にそっと下ろす。
まるで壊れ物を扱うように丁寧に。
彼女の髪を整え、わずかに微笑む。
「・・・ゆっくり休め。もう大丈夫だ」
ライナの背後――
そこに立つヴァルゼルは、この一部始終を一切邪魔せず見ていた。
手は剣に添えられたまま。
しかし一歩たりとも動かない。
戦い以外で背後から狙うのは自分の意に反するのもあるが・・・
“動けなかった”のだ。
完全同化したライナが纏う“圧”が、ほんのわずか残る余韻だけで空間を縛っていた。
ライナがリリスを安全に寝かせるその姿を、ヴァルゼルは無言のまま、ただ見守った。
彼は戦士であり、騎士であり、魔族であっても武を尊ぶ。
目の前のその行動は――
戦いの礼儀としても、見届けるに値した。
「・・・待たせたな」
ライナが立ち上がり、ゆっくりとヴァルゼルへ振り返る。
その“視線”が交わった瞬間――
空間が震えた。
目に見えない振動が床を駆け、瓦礫が微かに浮き、空気が撓んだ。
ヴァルゼルの体にも震えが走る。
「・・・っ・・・!」
それは恐怖でも怯懦でもない。
純粋すぎる“圧の奔流”が、彼の肉体に物理的な揺れを生んだのだ。
ライナは何もしていない。
ただ、視線を向けただけ。
だがその眼力は刃よりも鋭く、盾よりも重かった。
「いい。まずは・・・様子を見させてもらおう」
ヴァルゼルの剣が静かに構えられ、気配が鋭さを増す。
八割――
先ほどまでなら、ライナを容易に叩き伏せていた領域。
一瞬で距離を詰め、重い斬撃が振り下ろされる。
だが――
金属音すら発生せず、ライナの剣がそれを“意図も簡単に”弾き返した。
ヴァルゼルの瞳がわずかに見開かれる。
その反応を待つことなく、ライナが踏み込む。
ドッ――!!
腹部に、鋭い蹴りが突き刺さった。
剣ではない。
魔力でもない。
ただの蹴り。
ただ、それだけ。
しかしその一撃で、ヴァルゼルの巨体が大きく揺れ、後退し、堪えきれず片膝をついた。
この戦いで初めて。
「・・・は・・・」
呼吸が乱れ、肺の奥が灼けるように熱い。
腹部の内部が軋み、血の味が喉に広がる。
だが、笑いがこみ上げた。
「・・・ハ・・・ハハ・・・ハハハハハハッ!!」
ヴァルゼルの肩が震える。
唇から漏れる笑いは止まらなかった。
「まさか・・・この私が・・・“蹴り一発”で、膝をつく日が来るとは・・・!」
痛みでも屈辱でもない。
それは、歓喜。
「素晴らしい・・・ッ!素晴らしいぞ、ライナ・・・!!」
震えは止まらない。
武の求道者として、生涯で味わったことのない感情。
「全力で・・・本気で殺し合っても・・・壊れぬ相手・・・!」
ライナを見上げるその瞳は狂気ではなく、純粋な歓びに満ちていた。
「こんな戦い・・・“初めて”だ・・・!!」
ヴァルゼルは、腹に受けたただの一撃で片膝をついたまま、地面に指を食い込ませるようにして笑っていた。
その笑いは、狂気というより歓喜に近い震えを帯びていた。
「・・・たまらんな。ここまで身体が喜んでいる、相手に出会えるとは」
地面を踏みしめて立ち上がると、ヴァルゼルの周囲の空気が、音を立てて歪んだ。
ただ空気が揺れるのではない。
まるで“世界の皮膚”が薄くひび割れ、そこから熱と重圧が漏れ出してくるような感覚。
ライナは僅かに眉を寄せる。
同化後の鋭い感覚が告げていたヴァルゼルにはまだまだ”上”があると
ヴァルゼルの身体がゆっくりと弓なりに反り、次の瞬間、筋肉が一斉に震え爆ぜたような衝撃が走る。
――ドンッ!
大気が爆発するような音。
その場にいたはずの小石が跳ね飛び、離れた巨石でさえ表面が砕ける。
「“抑えていた枷”を外すだけで、ここまで世界が軋むとはな」
ヴァルゼルの足元から蜘蛛の巣状に大地が割れ、裂け目の奥から熱風がふき上がった。
彼がまとっていた黒いマントは裂け、破片が渦に巻かれて消えていく。
だが、それはまだ始まりにすぎなかった。
ヴァルゼルの瞳がぎらりと光り、それと同時に、背中を中心にして赤黒い“圧”が噴き上がる。
ただの魔力ではない。
あまりに濃縮されているせいで、空間を通った瞬間に閃光のような“擦れ”が走る圧力の塊。
「さあ、ライナ。“本当の戦い”に入ろうか」
一歩、踏み出すたびに地面が沈み、岩盤そのものがまるで粘土のように押しつぶされていく。
遠くで倒れているリリスの髪が、風に煽られるようにふわりと舞ったほどだ。
もはや、存在しているだけで災害じみた圧力。
ヴァルゼル自身の“純粋な肉体と精神”だけを開放しただけでこのプレッシャー。
「ここからだ。”俺”はまだ、楽しめる」
その声を合図に、周囲の世界が軋むように、戦いは次の段階へと進んでいく。
リリスは、かすかな地鳴りと熱風で意識を引き戻された。
ゆっくりと瞼を開けると、視界が揺れ、耳鳴りが残っている。
「・・・ライナ・・・?」
体を起こした瞬間、目に飛び込んできたのは、高速すぎる二つの光跡が、空を裂き、大地を粉砕し合う光景だった。
光の線が描かれては消え、別の場所で閃光がぶつかり合う。
爆音は途中から連続しすぎて音として認識できず、むしろ空気が震えっぱなしだ。
「な・・・何が・・・起こってるですか・・・?」
ライナとヴァルゼルがどこにいるのか、視線で追うことは一切できない。
見えるのはぶつかった瞬間に生まれる衝撃の閃光だけ。
それほどの速度と暴力が互いに解き放たれていた。
閃光の中心で、ライナはヴァルゼルの拳を受け止めていた。
「ぐっ……!」
剣同士がぶつかるたびに、空気が破裂し、岩盤が波紋のように砕ける。
完全同化——
身体能力も反応速度も精神も跳ね上がった。
それでも。
それでも——
押されている。
ほんの数センチ、剣が押し込まれる。
ほんの少し、足が後ろへ滑る。
「は・・・っ、は・・・っ・・・嘘だろ・・・完全同化だぞ・・・!?なんで・・・まだ・・・押してくるんだよ・・・!」
ライナは内心で叫んだ。
——こいつ、本気で言ってんのか。
——人間の枠どころか、理屈を噛み砕いてるだろ。
しかしヴァルゼルは、そんな理性などどこかへ捨て去っていた。
「ライナァァアア!!まだだッ!!まだ沈むなッ!!もっと来いッッ!!」
叫びながら剣を連打する。
斬るというより、重力と怒涛が混ざった質量そのものが叩き込まれるようだった。
肩が焼けるように痛む。
腕が痺れる。
完全同化したはずの身体が軋む。
ライナは歯を食いしばり、“死なぬためではなく、負けぬため”の動きへと切り替える。
(こいつ・・・!本気で俺を壊しにきてる・・・!でも・・・それ以上に楽しんでやがる!!)
ヴァルゼルの表情は、怒りと歓喜が混ざった獣のようだった。
ライナの剣が弾かれ、頬をかすめたヴァルゼルの一撃が爆風を巻き起こす。
血が一筋飛ぶ。
衝撃で視界が乱れる。
だが、ライナは踏ん張った。
「ぐぅ・・・ッ・・・まだだ・・・まだ負けねぇ・・・!」
脚へ力を込め、全身のバネを逆らうように反発させて反撃する。
剣がぶつかるたびに光が生まれ、雷のように大地を引き裂いた。
リリスは、ただ呆然とその光景を見ていた。
ライナが押されているのか、拮抗しているのかすら分からない。
ただ——彼が“必死に食らいついている”ことだけは、理解できた。
「ライナ・・・負けないで・・・!」
彼女の声が届く距離ではなかった。
だが、戦場全体を震わせるほどの衝突は、誰が見てもこの二人が更に上の段階へ進む寸前であるということだけを示していた。




