貴人之愁
棠梨の宮都が皇族を迎えるという情形は、あまりない。
そもそも進京は、都の外に居る者に対してしか、成り立たない話だ。
しかし皇族が都の外に居るということは、なんらかの責を果たすためであり、よほどの事がない限り、回京も登城も求められない。
宮城に住む者は、限られているのだ。
そして皇族と呼ばれる者は、もっと限られている。
「棠梨では、と言わなくてはいけないが……沙棠宮にある廟に祀ると詔した者だけが、皇族だ」
静影の言は、韶華にはあまり容易に呑み込めなかった。包子をぱくついているから、思考が疎かになっている部分もある。
「それじゃあまだ死んでないひとを皇族とは呼ばないってことになっちゃうんじゃないの」
と告げるも、ふひふひもひへひという音声だけが兵営に響いた。
「食べてから言え」
そうする、と黙って頷く。
中橋のあたりで食べる、攤子の饅頭も良いが、北洛の肆の包子は破格である。
それは臨波閣から辞して、理由あって後宮には戻らなかった韶華に、姉が準備してくれたもの。
太監から渡された時には、冷めてしまっていたので、兵営に来て、温め直してもらったのだ。
が、滋味は充分。
「あー……好吃!」
宮城の外の肆のものが、どうして後宮から出られない姉の手のうちにあるのかを考えなければ、もっと楽しめたであろう。
「なんだ、妙趣なものを食べてるな」
「天帥!」
ひとの話を聞かない、没常識な男が、包子を見つめていた。
「静影が食べて、もうひとつ小妹が食べても、まだ余るな。分けるに吝かではないと思うぞ」
「自身で言うんですか、それ」
もひもひと口を動かしつつも、韶華は包まれた包子をひとつ、差し出した。迷わず手に取り、張天帥がかぶりつく。
いい齢の成人が、包子を客気なくぱくつく情形は珍奇なものだ。さらにそれが、文件の錯誤を確かめるが如き認真さなのが、とくに。
「好! どこの包子だ。ああ、オレの知らない肆だ」
包みにある文字を読み、大きく頷く。
「よく探したな、こんなところ。この礼として、皇族がどうのと言っていたが、教えてやってもいい」
「いつから見てたんですか!」
多半、温め直してもらっている時からだろう。
(なんか珍味を出したら、秘事でもなんでも喋りかねないな!)
「そこまでひどくない。オレとて、話していいことの曲直は知っている」
「わたし、声に出してましたか?」
「顏を見れば分かる。それで皇族だが、静影の言は、太早計だ」
言われて、静影が苦みを入れて笑うのは、自身も分かっていたことらしい。
「宮城の廟に祀られるのは、皇帝と皇后……静影の解説では、それだけしか皇族がいないことになる」
「そうか、そうだね。皇太子は、いずれ皇帝になるんだしね。王として冊立された皇子たちは、その地の宮廟で祀られるんだ」
「そう。しかし、幼くして亡くなった皇子や公主は、だいたい夾室される。だからその母も、稀に夾室の扱いになることもある。だが……」
太早計という意思が少し分かる。皇子や公主は、皇帝の血を引いているから皇族で間違いない。領国の宮廟で祀られても、皇族なのである。
けれど、その母は、皇后の位になければ皇族ではない。彼女らを皇族として遇するのは、太后という号を与えられた時だけだ。
「ということは、嗣王と郡王も、皇族ではあるんだ」
「聡くて助かる。で、もし、どこぞの庶人が王になったなら、それは皇族となるんだな」
「なんか不佳なこと言ってません?」
「さてね。まあ、もっと不佳なことを言うと、太后を賜わってないうちは、王族を名乗る妃嬪もいる。さらには、その兄弟だから王族、と言う者も……な」
「天帥、それは……」
「おまえは言わないだろうから、オレが言ってやったんだ」
にやりと笑う男は、友である金石人が困るのが、楽しみのようだ。静影のものとなるはずの包子を手にして、
「じゃあな」
と去っていった。
「尖子なんだろうけど、古怪なひとだねえ……」
「あれを古怪で済ませるのは、おまえだけかもな」
「かもねー。あのひと、ものすごく言いにくいことは、静影に任せちゃったみたいだし」
支吾せなくなったと覚察して、静影は嘆息をもらした。
「禁軍のことか……」
「だって、皇族の進京が大事なのは分かったよ。でも、静影の南衙軍ばかりが忙しいわけでしょう。通常の本分に、後宮と大婚と皇族の防身とが増えて。じゃあ禁軍はなにをしてるのって……話だよ」
皇帝の侍衛としての行をしている、という表白は無用だ。
「まさか暇だから、武挙の偽の篇子をばらまいたってことは、ないだろうけど……そんなの、弄月大人の表明したものじゃないって、すぐ分かっちゃうのに」
「言うな。まだ禁軍がやったという証はない……」
「でも、晨晨が来たんだよ」
「晨風が?」
彼は禁軍の規に反してまで、なにかあると韶華に伝えに来たのである。
「もう充分に待ったと思う。だから、聞きたいんだ。静影が関心しているあのひとと、宮城の秘事について」
そろそろ静影には、横心して欲しい。
(と思うのは、わたしに秘事がないから……かな)
片刻、考えてみる。
もし韶華に、父親のような出走の事由があったなら、それを介意なく話せるかどうか。
(できる、と思う……)
話す対手が真卒で膠固な、慧心を持つ紫石の武人にならば。
(いや? 等等、不成でしょ、不成。莫大不成! 今ここで、わたしが瑞頌老師ですなんて言えないよ? 秘事は秘事のままにしておくでしょ!)
冷汗の向こうで、晨風がそれと比べるのと一落しているのが見えた気がした。
「あーあー、まあ言いたくなければ……」
「なんだいきなり。いいよ、もう話しておかないとならない刻なんだろう……」
静影は歩きながら話す、と言い、先を行った。
「歩くことに意思あるの?」
「話が聞かれ難くなる。あとをつけて来る者を、俺が発覚し易くもなるし」
武人の耳は、神奇である。
「先に訊いておくが、長公主と会うのか」
「会うよ、そりゃあ? それとも、会わなくてもいいわけ?」
「迅即に応じる必要はないと思っているよ。少なくとも、大婚の過ぎるまでは問題ないだろうと」
「そういう考えもあるか……でも、故意に小姑子を動気させることはないよね」
「……動気するものなのか」
はっ、と韶華は嘆気で返した。これだから男子は。
「女人の争いには中用ならないから、もう住口してて。それより!」
見上げると、紫石の双眸は昏く沈んでいた。争う打算か、と呟くのまでは放過した。
「……おまえは前代皇帝に、弟がいるのを知っているか」
「いたね。弄月大人が……ここに来る前に、亡くなってたはず」
「そう、亡くなった。表面ではな。だが雪君の死は、粛清の後果だ」
根由はどこから始まったのか、と静影は独言した。
前代皇帝の母が、皇后でなかったところか。それとも、雪君と称されて慕われた皇弟が、禁軍の将の児女を母にしていたところか。
「料は高くなかったが、かのひとの令堂は、禁軍のなかでも力量を認められていた将軍の児女だった。のちに徳妃に封じられたが、早くに亡くなってしまったので、照料は太父がしていたと……考えてくれ」
「前代の当時は、わりと戦とか多かったよね。まだ烏鬼国が降ってなかったし、それに、北方の大国とだって」
「そう。だから今よりずっと、禁軍は器重されていた。そして彼らの表明が、誰に向いているかは、明らかだった。兄が思うことは……分かるよな?」
頷いたものの、韶華の知る限り、前代で皇位継承争いがあったという話は残っていない。
隠された竹帛というわけでもあるまい。
静影の口気からすると、雪君という人物は明智があり、思慮深いひとだったのだろう。だから皇弟、陸透徹が簒奪を謀った真実はなかったのだと信じられる。
「前代の第一皇子が亡くなって、雪君を沙棠王にと推す者が出た。第二については……李家を外戚とするのを疎んじられて、まだ健在であった常主が認めなかったと聞く。ただ雪君は、行第三、王皇后の皇子が正統であると言って、固辞した」
沙棠王は、皇太子となる者が賜わる、第一の封だ。もしくは、幼すぎる皇太子に代わって、皇帝の弟や叔父が戴くこともある。
前代の皇子たちは、伯仲の齢は近いが、叔は離れていた。季となる弄月は、もっと幼かっただろうから、皇弟を沙棠王にと考えるのは、不適ではない。
しかし、外戚が避けられたように、禁軍に近い男を重んじることも、不快に思った者がいるはずだ。
「殊に第二としては、該死だったろうね。第三の側は……どうなんだろう。歓迎はしたのかなあ。果然として、沙棠王を受けなかったわけだし」
「韶華、その口気……」
「はいはい。繁冗なあ、もう。こんなの聞かれたって穏当だよ。わたしが数落されてるようににしか、聞こえないから。で? 雪君が引いて、なにが問題だったの」
静影の視線に、郁葱とした風色が混じる。話題の昏さより、韶華に因があるに違いない。とりあえず、話は聞いているので不顧する。
「大約の様態は、おまえの送料する通りだ。沙棠王となるのが、ほぼ決まった第三皇子に言うことはない。第二はあからさまに不快を表した。そして第一の閥は……生まれたばかりの子のために、彼が固辞したのだと思っていた。どころか、禁軍のほとんどが、そう考えていた。まさか真に、第三に渡すためとは思わなかった。だから、第三皇子の子が亡くなった際」
粛清されたのか。
それを言にするのは、やはり、ためらわれる。真実は誰にも、静影にも分からない。
韶華は不意に、黒衣の男の苛烈な目を思い出した。
「もしかして、あの……窮鬼は、雪君の報仇をしたい……?」
禁軍のほとんど、と静影は言った。ならば、雪君に従うわずかな者が、いたはずである。
「あいつは、雪君に育てられた。禁軍の介士の子だが、事由あって捨てられるところを……助けられたんだ。今では、鋭士として知名になった風の名だが、当初は、雪君が選んだ者だけに授けていた」
静影が誇らしげなのは、黒風に対してか、雪君という人物か。
「会ったことないはずだよね、静影は」
「俺は、な。雪君の話をしてくれたのは、櫨国公夫人……俺の太父の兄の令正だ。おまえの知る名では……陸玉荷、それとも玉屑公主か」
「玉……玉屑って、ええ? 前代の妹妹ではないですかっ」
つまり、徐家は皇妹が嫁する家世で、皇后を出すような一門である、と。
忘れがちだが、猥眼しくできるような、随分ではないのだった。
(いつも忘れてるけど!)
これでは、弄月の忘却を責められない。
「忘れてるのは、おまえもだ。皇上の小姨が」
「うう……ともかく、禁軍が不料にも割れているらしいのは、分かったよ。窮鬼の狙いは、ちょっと分からないけど……」
「あれは多半、自身でも分かっていないのだと思う。固然、雪君が第三皇子の子を弑したとは、信じていないだろうが」
「そう、だね……でも」
雪君がやっていないのなら、誰がそれを謀ったのだろう。
けれど、誰の心計だとしても、失算に終わってしまった。どの皇子も、亡くなっているのだから。
(ああ、それで黒風は、弄月大人に冷たいんだな……)
帝の位という利を得た者を、疑った。ただ、信じるものの少ない苛烈な目は、見抜いてもいる。
那時の弄月は徐家に居て、宮城の内側にできることは、なかったのだと。
「古板だよね。疑ってた対手が違うと分かっても、情態が変えられないって……」
「あいつにとって雪君の死は、それだけ受け入れられなかったんだろう」
「にしたって、やってることが許許多多的でない? 禁軍らしく、弄月大人を守ってみたり、かと思えば表明してないことをしてみたり……誰のために、なにをしているのか、分からないよ?」
「あれも分かっていないんだろう……いや、見えているけれど、見たくない……禁軍のしていることに、覚察したくないんだ。そしてなにか借口になるものを探している」
大息がふたりの口から漏れた。
「言ってくれれば、配合できるのに。あの封信……沈家に、禁軍を管束させるのを止めようとしてたね」
「封……? ってあれは……読むなって言っただろうが!」
「その話してるんだから、いいじゃん。ちゃんと今、記得してたのを読んだんだから」
韶華は口を尖らせた。
黒風に奪われた、左丞相の家でみつけた封信には、禁軍への執り成しが書かれていた。禁軍が皇弟に、幼い子の死を押し付けたことを怒らないでくれ、と。
「当時は左丞相じゃなかっただろうけど、少なくとも、あのひとは、雪君を嵌めてないってことになる」
「そうだな。だが、禁軍の誰が、とは書いてなかった……」
「読むひとが、もう知っているからだよ」
静影の面色が変わった。
「あれ、ものすごく慣れた文だった。几次も書信往来してるんだよ。だから、前の話題を書く必要はなかったんだ」
さらに言えば、韶華には、情書のような親密な句子に感じられた。解説しにくいので、黙っているが。
「あいつもそれに覚察しただろうか」
「そうでなくても、封信は探すでしょう。もっと、なんかあるかなぁって」
「そんな、包子を選ぶみたいに……」
「見機だから、わたしも探そうか?」
ぎょっとする静影に、韶華はにやりと笑ってみせた。
膨大な令令の情書を読まされてきたから、分かる。あの封信を出してきたのは、女人だ。
左丞相に係わり、禁軍に係わった女人が、どこかにいるのだ。
「静影、忘れてないよね。武挙の篇子のこと」
「まさか」
禁軍が武挙に係わろうとした理由は、きっとそこにある。




