尊貴的天生
「おらしゃべったらんかいッ!」
少女の口気は、一人の当面で使うものとしては、粗すぎた。
意然、どこであっても無状が過ぎる、と膠固な武人なら言うだろう。
幸いにして、聞いたのは目的の人物のみ。深思するを借口に、太監たちを下がらせ、恍惚と洲を眺めていた男の足許が、揺らいだだけだった。
らしからぬ声音が、面熟の少女のものと覚察して、棠梨の皇帝は己の奇人模倣をよそに、大息を吐いた。
「どこから現れるんだい、きみは……望舒党でも始めたのか」
「その送料は正しいッ、とか言ってる情況ではなくて!」
欄杵をひらりと飛び越えて、少女――韶華は堂に上がった。
そこは宮の呼び名は持たない小さな楼閣で、大きな池を臨み、せり出すようにして作られている。通称は臨波閣。皇帝の寝殿である喜佑殿にほど近く、御苑で水のせせらぎを愉しむのに合適な地だ。
今となっては、激発で波立つ場でしかないが。
「弄月大人が、平台に居てくれて良かった。探さなくちゃいけないようなら、お父さんを宮城に放とうかと思ってたんだ」
「あれをっ? 来てる、のか」
韶華の父親が来る事は、ひとつしかない。愛しい季児につき従い、後宮にいる、もうひとりの愛児、朱蕣に会うことだ。
このついてくるを文字で書くなら、憑くでしか表せない。棠梨に伝わる怪、死ししてなお、子への情に凝り固まった女妖、痩せ女に姿も質も似た男は、世の理を顧みることなく後宮に入り込み、愛児に害為さんとする者を呪う。
辺りを窺いつつ、弄月は楼閣に単身でいた偶然を祝いだ。
「なんというか……許してしまっているのは余だけど、つれて来ない、という考えはないのかい」
「言いたいことは分かるけど、振り向いたらついて来てた、よりは勝過でしょ?」
ふたりの脳里に、同じものが浮かぶ。痩せ女の跋扈する、如今の様態と全く変わらない宮城が。
「まあ……それはおいといてだね、弄月大人。提審!」
「な、なにを?」
「へえええ、やっぱり送料はしてたのねー? 提審されるのが自身だって」
「いやまあその香りがね……」
韶華は莫大理解と頷いた。
香好きというだけあって、漂う黒沈香が誰のものであるか、もう弄月は分かっているのだ。韶華がそれをまとわりつかせて投案という理由も、察している。
香り高き封信が、どこから出てどこに送られて、なにを引き起こしたのか、理解できているということだ。
到底不要留情。
「それなら訊きますけどね、どういうことなんですかっ、玉蝶公主って!」
「誰ではなくて、どういうことかと訊くのか、きみは」
「皇族の家譜なら見てますから。でも、後宮に居る……言は不妙ですけど、生きているなんて、誰も言わなかったじゃないですか!」
弄月は結舌して、なにも聞いてない模擬をした。
(うん、そういう情形なら、見たことある。最近……)
父親が、郷里の家人について見せた表情によく似ている。あれは、叔父に対するものだった。
近しい者について語り難い心情は、理解できなくもない。
ただ、韶華の見た家譜が真正なら、玉蝶公主は弄月の妹になる。
「弄月大人より年少となれば、そりゃ居たっていいけど……降嫁してるか、なんかで、後宮にはいないと思い込んでた。海棠宮では、風色もなかったし」
「うん……そこまで気息を滅しているとは思わなかった。そもそも梅麗公主とは、余も一次しか会ったことがないんだ」
「なんですと? っていうか、梅麗……梅麗長公主?」
弄月は頷いた。
前代皇帝が自身の子と正式に認めたのは、四皇子と一公主。しかし、公主については、真に正式とはいえなかったのである。
「梅麗長公主としての冊立が、後事になっているのさ。いや、決まってはいたんだよ? ただ、皇太子が薨去して、喪の間は延ばされて、そうこうしてるうちに前代が崩御……どうするか揉めていたところ、太皇太后の求みで、余が詔したのだよ」
「それきり、会ってない……?」
「余はね。月季……皇后は、会っていたと思う。月毎の拝礼があったからね。もっとも、それすらも小弱な皇后が臥床したりで、適わなかったことも多かっただろうが……」
元妃の名を口にした際と、兄妹や父親に対する弄月の説法は、あまりに異なっていた。
謝元宝や静影の話を聞いたところでは、弄月は第四の皇子として認められても、宮城には行かなかったという。宮城に入ったのは、皇帝として即位するために呼ばれた、まさにその時だったらしい。
知るのは名だけの兄、存在だけ教えられた妹、そして、一時でも会おうともしなかった父親である先代皇帝。皇族のつながりは、韶華の思う以上に薄く、遠い。
弄月が徐家で宮中の話を聞かされても、それは、小説を読むようなものだったに違いない。人家を語るような説法が、弄月の思いを明らかにしている。
高位にある者ゆえの悲しみを、韶華も感じる。
「けど、それで騙されはしないからッ。要は超越完全破格至上膨大にッ、長公主のことを忘れてたんですねっ?」
「是……その通りです……」
「忘却新鮮!」
韶華は優美な香りを漂わせた封信を取り出し、弄月の鼻先に広げた。
「見て下さい、読んで下さい? 玉蝶公主サマはですね、自身を後宮の主とみなしておられるのですよ。まあ皇后どころか、妃嬪もいない空閨ですし、前代の妃嬪は宮城の外に住まわれておりますから、皇族の児女が最も高位というのは、正しいわけです。そこに後妃が来れば、どうなるかッ。さあ、答えてごらんなさい!」
攤子で南方甘蕉でも売るかの如く、勢い良く床板を手で叩く少女。その正面に座して、うなだれる男。
少女の口気は先より深切になっているが、形跡は悪化している。
止められる者はいるのか、というと、いた。より正確には、来た。
紫石の双眸に、陽九払わんとの意志を込め、敢死で駆けて来る陛衛の将が。動く口許からは、韶華停と言っているように見えるが、声にはなっていなかった。
静影の焦慮の大きさからして、後宮から韶華を止めてくれという口信があったのだろう。
韶華は武人の到着を待ち、改めて封信を示した。
「いろいろと解説を要する案件なので、静影が来てくれて良かった」
「韶……」
「これは、後宮の主と称する人物から、我が姉を召呼せんとするものです。ええ、後宮の主! 後宮には誰もいないって言われたら、皇族だって、いないものと思うのが当然でしょう。弄月大人は忘れてた、で済ませようとしてるけど、それなら、まだまだ忘れてるひとたちが居るんじゃないの?」
居る、らしい。
弄月と静影の視線が、瞬刻、交わった。
(そう……やっぱりね!)
韶華は記得していた家譜から、それらしい名を心目に書き出した。
前代皇帝の兄弟は、弟と妹がひとりづつ。
ほかにもいたはずだが、おそらく、譜を作った時には、亡くなっていたと思われる。そして、家譜には書かれていたけれど、弟も亡くなっているはずだ。でなければ皇位に就くのは弄月ではなく、皇弟であったろう。
前代皇帝の四皇子は、第三まで死亡していたとはいえ、忘れ去られていた第四の弄月を、皇弟より重んじる者が多かったとは思えない。
亡き兄皇子たちの母親は、それぞれ謝才人、李淑妃、王皇后――皇太子に冊立されていたのは、謝才人の子である、陸天藍だった。
弄月よりかなり長輩だった兄皇子たちには、それぞれ子がいた。ただし、当時はかなり幼かったのだと送料される。
家譜は、彼らの名を示していなかった。
隅に添えられた皇帝の児女にも、通称らしき玉蝶公主しか書かれてないので、まさに片書だったのかもしれない。
(李淑妃のとこの第二の皇子が親王……その子が嗣王。って、それは分かってるんだって。皇太子の児女のとこには梨雪公主……うん、別名だな)
誰が作ったのか知らないが、皇族の女人の別名に拘る人物である。
皇太子の児女は、正しくは郡主。いずれかの化粧領の地名をもらって、なんとか郡主と呼ばれるものだ。なのに、梨の如き美しさを誉める美称しか書いていない。
前代皇帝の妹のところも、玉屑公主と書き込んであるだけだった。
(雪みたいに清くて奇麗だったんだろうなあ……てか、作者は南方の出身か?)
冷えた美に関して誉める言ばかりである。
玉蝶の旁にも、氷艶公主の文字があって、二重の線が引かれていた。なにやら思い直したらしい。
「男子の名には、興趣のないひとなのかね……」
「韶華、なにを言っている……?」
「あ、商定はついたのね」
弄月と静影の解説の押し付けあいは、武人に任されていた。弄月は、暮気しつつも安堵した顏で、静影の後方に座っている。
韶華が友好的とはいえない睇視で、封信を指し示した。
「脳筋の小節まで使って、投案しなさい」
「投案と言われても……納女考試に際して、皇上は皇族と約を交わしたんだ。大婚に係わらないというものをな。だから今まで話さなかっただけで、忘れていたわけじゃない」
「長公主さま以外は」
「ああ、まあ……とにかく、大婚の条理も進んだので、彼らも皇上との会見に臨むべく、進京すると報せがあった」
つまり、弄月の兄の子どもたちが、宮都甘棠にやってくるということだ。
「預定では謝太后と權郡王、清楚に言明されてはいないが、おそらく芳梨郡主も。そして、李太后と黎嗣王……俺が後宮を守る任につけないのは、皇族の防身を為さなければならないからだ」
「えー……太后も来ちゃうんだ……」
係わらないと知っていても、太君が揃ってやって来て、新人と麻煩が起こらないはずもなく。
とりあえず、最高位である太皇太后は、亡くなっているから考えなくても良いのが救いといえる。生きていたら、後宮に居たわけだが。
「長公主については……この玉蝶公主の思うところは分からない。そもそも見面が適わなくてな。海棠宮の女官さえも、追い返されるらしい」
「ああ、そっか。長公主さまは、桷苑のどこかにある宮殿に居るんだもんね。封信には、寒玉殿とあったけど……」
宮掖の地図は、脳里にある。寒玉殿の文字は、後宮の西側、かつ、東宮の後宮の北側にある宮の内に書かれていた。
「花塊宮だったっけ。東宮後宮も空っぽだから……実地で後宮に住んでたのって、そのひとだけなのか。主っていうか精霊みたい? 海棠宮に入れない因由があったり?」
「どうしてそうなる」
「寒玉殿に閉じこもって、姿も見せないんでしょ。海棠宮から、お姉ちゃんを呼び出そうとするし、出たくないって心境が強すぎない? 宮殿の外に出たら、夢幻の如く消えてしまうとか。蝶だけに」
静影は紫石の査牙さをわずかに緩め、首を横に振った。
「俺は玉蝶公主という女人を知らないから、なんとも言えないが……皇后の不在が長く、朝見の習いも廃れて久しい。家常のまま、出たくないだけかもな」
「けど、いくつなの、そのひと。冬栄先生……ではなくて、東宮さまより長輩だよね。東宮さまだって、光棍が過ぎるって言われて――」
回神して、韶華は口を閉じた。
膠固で知られる当面の武人も、光棍を分心されている。
不穏な流れを弄月が戻した。
「梅麗は確かに、とうに降嫁してても良い齢なんだが……内侍も、几次も訂婚はどうかと探听していた。だが、母代わりだった太皇太后が、対手に難を示して、まとまらなかったのだよ。その辺りの牢騒は、どちら側からも聞かされたなあ」
「でも忘れてたんですね」
「まあ、その」
「とりあえず、長公主については、皇上は中用にないようなので、こちらで処理しますね。静影」
「お、おう?」
惑う武人を連れて、韶華は辞した。
しかし、嵐の過ぎた臨波閣に静けさが戻ったわけではない。荒波は、少女とともに移ろい、あちこちにぶつかっているだけであった。




