佳人之愁
女人だけの住む後宮、海棠宮は広大な苑林のなかにある。
多くの美しい花卉草木に彩られているが、もっとも華やかに存在を誇るのは、国の名の通り、棠梨だ。
花の盛りの令は、こぼれんばかりの白い花を飾り、ゆえに後宮は、桷苑とも呼ばれる。
けれど後宮は、華麗という言だけで、できていない。
後宮のあらゆる事項を志す、女史という官吏である者には、それがよく分かっていた。
もっとも、当代皇帝、陸豊隆については、元妃を亡くしてから後宮を空閨のままにしており、志するのは理家的部分ばかり。
松気といえば、松気だったのである。
新たな後宮の主を迎えることになるまでは。
今となっては、紅吹鳳は女史の任を一時安放して、杜鵑の内から来るものを待っている。
慣れても良いはずだが、騒ぎたつ心目は、いつまでたっても変わらなかった。
やがて皇帝の妃となる女人、杜朱蕣もまた、珍しくざわめく心境でそれらを迎えようとしていた。
「まだかしら」
「通常だと思いますよ……」
紅吹鳳にしてみれば、飾りをつけた結い髪の愛らしい幼子に、難はない。
焼いた栗に似た髪を持つ、才能あふるる少女にも難はない、はず
鮮やかな瑠璃色の目をした幼子と、機智において優る者のない少女は、女官たちが今はまだ杜娘君と呼ぶ者の妹たちだ。
難は、かの児女らに同行するもの――元は美貌であった枯れた姿が、棠梨に古くから伝わる、貧しさから子を捨てた女の情の凝り固まった怪、痩せ女にしか見えないもの、である。
「どうかしたの、紅女史」
なんの風色を感じたか、朱蕣がささやいた。
面貌には、咲き誇る花のような華やかさに満ちている。ただし一片の翳りもない明るさは、却って恐ろしい。
紅女史は、怪については不言不語を守り、ほかの話題を出した。
「聞いたところによりますと、一些の建議において、釆納があったとか……このまま進めば、多事の全てが処理されるのも、近いかと思われます」
「全てとは、張大かもしれないわね」
「それには同意致します……ですが、左丞相は女兵の補充を認めました。李尚書の管轄下で、武挙が行われるでしょう」
「行うのは、尚書省なのね」
後宮で仕える者、すなわち宮女や太監を照顧し、扱うのは内侍省である。
女兵たちが尚書省の決定によって選ばれるのならば、南衙軍と同じく正式な武官として扱われるだろう。
処境は良くなるが、従うのは後宮でなくても良い、と言い換えることもできる。
「鑑みて申し上げますれば、杜娘君の爪牙を見出すのは、這次が最適。令妹には、報考するならば、して頂かないと……」
「下次は、適してないというの? 武官になるのはいいんだけれど、あまり韶華を急かしたくないのよね。大学に上学し始めたばかりだし……」
「杜娘君の令妹が、武挙に加われるとは、限りませんから」
ああ、と朱蕣は小さく嘆息した。
女兵のための武挙は、群臣が後宮の再起を認めたという意思である。それは皇帝に仕える高位女人が、後宮に居るということ。
後宮で皇帝の寵愛を得る女人は、ひとりではない。
今はまだ朱蕣ひとりであっても、臣下は重重と妃嬪を送り込む理由を得たのだ。
新たな妃を守候する女兵は、送り込む者たちの良いように、選ばれることになるだろう。
「お母さまが判士の今だけが、好機というわけね」
「是……ですが、男子が後宮を掌握していると思うのは愚かだと、わたくしは思います。左丞相などは、破格に」
「紅女史は、左丞相に厳しいわね? わたくしだって、後宮にいなければ、分からないことはあると……知ったけれど」
くすりと笑う朱蕣の前で、紅女史は成心らしく背粱を伸ばし、淡白な表情を作ってみせた。
「厳しいなど、評判のうちに入りません。沈修容は単なる好色官。旁に控えている何鳳翼が、策を考えているだけ……それに李尚書が従っているのが、麻頻なところですが」
「左丞相に尚書……わたしを貶めたい一派は、顕官が揃っているのね。並べて飾ったら、さぞや気派な廟ができるでしょう」
朱色の花が笑みこぼす言には、なんびとも触れてはならぬ毒が塗られていた。
「杜娘君……! ここに令妹がいらっしゃれば、諌めて下さったのでしょうか」
「あら、韶華だったら、夾室で足りるんじゃないのって言うわよ?」
否定は難しく、紅女史の心里に、姉に負けず劣らず朗らかに言い放つ様態が、浮かび上がった。
「わたくしとしましては、杜娘君に後宮を掌権して頂けたら、単簡なのではと思います」
「認真地?」
朱蕣は、女史の不料な言に目を見張った。
「期望に応えられたら良いけれど……」
ふたりの視線が、遠く南宮の方角に向かう。
朱蕣が後宮に入った際、暗地に伝えられたのは、『杜氏は賢妃に封じられる』という話だった。
賢妃は三夫人、徳妃淑妃賢妃のうちのひとつであり、大婚に適うだけの位でもある。
それが今は、まるで無かったことのようになっている。前代皇帝の妃、李淑妃が健在であるゆえに、弟の李尚書が難を示したのでは、と言われている。
だが李淑妃は、正しくは太后であり、もう淑妃と呼ばれることはない。自身では紅扇夫人を名乗っているので、拘る者はいないはずなのだ。
「今は……待つしかありませんね」
「わたしは、待つのは不佳ではないわ」
「ですが、あれは……」
紅女史の大息まじりの声に、朱蕣も頷く。
あれは、待っていられない。
大学や武挙で悩んでいるであろう妹を、悄悄と呼び出したのは、この理由あってのことだ。
杜鵑の茂みが揺れて、なかから出て来た小さな手が、葉を払った。
「蕣姉!」
瑠璃、と幼い妹の名を呼んで、朱蕣が階を駆け下りる。幼子を抱き締めたところで、艶のある栗色の髪の少女も出て来た。
「お姉ちゃん、遅くなってごめん。大学で、ちょっとあってさ……」
「それは貴女の平常でしょうに。ところで今天は、あれを連れ」
紅女史は、絶不見えないのに背粱に感じるもので、やはり来ていると知り、言を切った。
韶華も心情は分かるので、短気する女史にかける言はない。
「あー……歉意を示すところでございます、紅女史……このために、稿を終えたんだからって言われると、まあ……」
「ええ、行が順利なのは、良いことです。が」
紅女史が、ぐっと韶華に近づいた。
「分かっていましょうが、ここから、この場から、この范囲から、この定界された部分から、いかなる事由においても出入させることは、まかりなりません! いいですね?」
「是……」
「応えはいりません、聞きなさい! 不久前より、宮城に地妖が現れたという風聞があります。小さな影を視線の隅に捉えると、にわかに身体に震えが来ると。そこでもし振り返れば、妖しき目光によって魂魄を一落させてしまう、と! 分かっていますええ一落してるのに誰が報告するのだと言いたいのでしょう? だから聞くだけでよろしい。貴女は、わたくしの言を守るだけです!」
低声は狼が唸るが如く、眼底に潜む害怕は詛に至るものなり。
紅女史の渾身の求に、韶華も頷かざるを得なかった。
(うう……お父さん、どこまで出歩いてるのよ……)
とりあえず、要因は瑠璃にあるはずなので、好奇に満ちた季児を後宮から出さない、という法子を取るしかない。
「真用心します……」
「韶華、武挙のことは聞いた?」
朱蕣の許に瑠璃はおらず、立即地解き放たれてしまっている。韶華が追おうとするが、それより早く紅女史が動いた。
「ま、いっか……ええと、武挙があるのは、知ってる。まだそれしか聞いてないけど」
「投考するの?」
「うん……するだけはしようかな、と。でも、貢挙もあるらしいと聞くと、迷うかなあって」
「あら、それも決まったの」
「急にね。まあ、貢挙の前の、大学の最終考試はまだだし、武挙に及第するとは限らないんで、報名だけでもやっとくか、って感じ」
韶華は、無事に幼子と手をつなげた紅女史を目にした。
「好……お姉ちゃんは、なんだかわたしに知らせたいことがありそうだね」
「やっぱり、分かる?」
「まあねえ……それも、不佳な品類の」
不佳という言を使ったのは、無意中だった。あるいは、姉妹のつながりが、預感させたのかもしれない。
朱蕣が淡い笑みを浮かべる。英英たる面貌に、翳りが差し込まれた。
「お姉ちゃん?」
「韶華も見たから、分かるでしょう。ここが空閨であるのは、真実だって。でも、海棠宮は、一人の妃嬪にのみ能う場ではない。皇上がああいったひとだから、漏眼してたのよ。紅女史でさえね」
かすかに下巴を動かし、朱蕣は太監を呼んだ。
文筥を掲げ、風も起こさず近づいてくる。如今、宣光殿に風波を立てるものはない。なのに、深みのある黒沈香が一点ずつ濃く漂い、韶華の内に吹き荒れる思いを呼び込む。
香試の作坊にも、かなり上等な香材があった。それでも、これほど鮮明に香るものはなかった。
太監が韶華の前で止まり、蓋を開けた。
玉蝶の文字と、蝶の形をした薄青い玉が見えた。
(これ、知ってる。見たことがある……!)
実地ではなく、紙上で、だが。
韶華ははっと顏を上げ、紅女史の旁臉を見た。
「紅女史、珠砂院で女官の倣法を学んでた時、見せてもらったものに、あったやつですよねっ」
「じゃあ、韶華には、分かっているのね」
それには否と答えなくてはならない。姉の問う内容が、書籍にあったわけではないのだ。
皇族について、どの言を使うべきか解説していた書籍に、当代に係わるひとを記した片書が挟んであっただけ。それから分かるのは、大約が亡くなっていること。几位の公主の別名が志されていたことだけだ。
「待ってよ……そりゃあ玉蝶公主って、あったけど」
生きているの、生きていたの、存在するの。どんな言を使っても、切合ではないような気がした。
「これって……見つかったとか、拾ったとかじゃなくて、届いた封信だよねっ?」
「ええ、昨天届けられたばかりよ」
「なんでまた、そんなものが」
見れば、姉の顏にも惑う気色が浮かんでいた。
「韶華も読むといいわ。その公主さまから……後宮の主として拝礼したいと……」
「後宮の、主ッ?」
なにを言ってるんだ、と叫べたら、どんなにか良かっただろう。
韶華は一経に、皇帝のいる沙棠宮に向かった。




