不穏之根
香青路の白屋では、幼い少女がそわそわしていた。
友を待って狭い居室の内、抽泣きする父親の旁を右に左にと歩き回り、あまりにもせわしない。
心境は分かるので、韶華は来るはずの少年たちを迎えに出た。瑠璃のためというよりも、押し殺した泣き声と、側臉に恨む目光を受け続けるのが、疎ましくなっただけともいえる。
小路に出てすぐ、探す少年は見つかった。附近に住む悪童、景景だ。
「ああ、巧遇だったね。瑠璃、ずっと待ってるよ。学堂を見に行くんでしょう?」
「韶姉……永児がまだなんだよ」
と言いつつ、少年は少女が待っていると聞くと、置いていっちゃおうかなあ、と無情なことを呟き始めた。
「いやまあ……もう少し待ってやりなさいよ」
「だけど、あいつは普通、遅れたりしないんだよ。来ないってことは、来られなくなったのかも」
「そうかもしれないけど……」
永児は大家で知られる張家の宗子である。来られないなら、使丁に口信させるくらいはできるはず。
「ま、もう少し待ってやるか。そういやさあ……老公公、帰ったの? 韶姉の作坊にいないよね?」
「まだ甘棠には、いるんじゃないかなあ」
景景が言うのは、謝元宝のことだ。久留していた間、子どもらとはかなり親しくなっていたので、遊ぶ対手が減って、寂しいのだろう。
「オレさー、老公公に感謝しないといけないんだ」
「遊んでくれたし?」
「それもあるし、武術もいろいろ教えてもらったから。なのに、キュウ……クシから戻ったら、いないんだもん。まだ……ありがとうって、言ってないのに」
「へえ……瑠璃を追い払ったり欺負めたり、小鬼だったのに、変わったねえ?」
「もうそんな小子じゃないぞっ。学堂に行って、読書して、武人の……なんとかってのを受けるんだ」
韶華は結舌して頷いた。
庶人の景景に、武挙は投考できないかもしれないが、志望はまだ、捨てなくても良い。
将来、彼のなりたいものが、武人のままとは限らない。と、成人ぶって少年を見つめる韶華も、人家のことは言えない処境にいる。
(決めないといけないんだよねえ……武挙に、貢挙かあ……)
まだ姉の朱蕣への関心もあるので、とにかくも武挙、が正しいように思われるのだが。
「韶姉、なに唸ってるの。あ、永児が来……あれ?」
急ぐ矩歩の少年と、もうひとり、面熟の男子が来ていた。
「晨晨じゃんか! ……晨晨も最近、見てなかったね」
少年に応え、手を振り返す晨風の表情には、晨晨と呼ぶのだけは止めてくれ、という情形が現れていた。
一方、永児の頬には小さな口子がついている。
「どうしたんだよ、それ?」
「景景、遅れてごめん。狗……えっと、中途で晨晨と会ったから、一同に行こうって誘って、連れて来たんだ」
狗に追われていた永児を助け、連れて来たのが、晨風ということらしい。
疑う至交の視線を避けて、永児は韶華を見上げた。
「韶姉、瑠璃は居る?」
「居るよ。待ってるんだから、早く行って?」
韶華はびしり、と家に向かって指を差した。
少女のため、急ぐかに思われた少年たちは、なぜか動かず、乞う視線を韶華に向けて封口している。
彼らの居心は分かる。痩せ女が怖いから、ここまで瑠璃を呼んできて欲しい、だろう。
だが、あれを乗り越えなければ、下次はない。韶華としては、争気するを期望するところである。
うなだれて歩き出す少年らに、防護の男子も加油と告げた。
「で、晨晨。もとい、晨風」
「なっ、なんでしょう?」
「そこまで冷戦することないでしょ。元から事があって、来たんだろうし」
「そうなんですけど……」
まだ少年と呼ぶに相応な風色であっても、晨風は北衙禁軍の鋭士である。彼が言を迷わせるなら、あまり佳い報を持ってきていない。
「謝大人と会ってたはずだけど、なにかあったの?」
「いえ、そちらの話に難はないんです。まだ……話せないことも、多いのですが。それより、あの……武挙が始まるのは、知っていますよね」
「知ってる。ちょっと原委が、あれだったけど」
「その武挙が始まると、本来いるべきひとたち以外が、多く宮城に入ることになります。それで、より防護をと皇……ええと」
「弄月大人が言ったのね?」
「……ぼくらには、言ってません」
唔、の形に口を開いたまま、韶華は目を剥いた。
晨風属する禁軍は、皇帝だけが動かせる軍だ。もっと清楚に言えば、皇帝が直に意志の通り動かせるのは、彼らだけ。
宮城の士兵を増やすのに、朝議にかけていては遅い。だから弄月は、禁軍を使うことにした、わけではないのか。
「じゃあ、なに。南衙軍が守るの?」
「はい。左領左右府将軍が、右威衛将軍に宮掖の防身を求みました」
つまり静影が、誰ぞの任を増やしたということだ。
「会った時、そんなこと言ってなかったのに!」
「任せるのであれば、紅女史の知己に、との判断です」
「知ってるひとなんだ」
「令妹の許嫁者だそうです」
ここでいう妹は、紅女史の妹のことだ。あの紅女史が大姨子では、経心の労が忍ばれる。父親が痩せ女と、どちらが良いか考えてしまう。
「まあ……そんなに不好な主意じゃないよね。どうしたって後宮の内側には、女兵以外入れないんだから……で、晨晨は、なにに困ってるのかな?」
うつむく晨風の目は、韶華の目の高さにある。昏い目光は、ずっと正面から見えていた。
「晨晨たちは、後宮の武挙には係わらない。でしょ?」
「是……」
「要するに、武挙でなにかが起こる……と。係わっていると、本体が危うくなるって感じ?」
晨風は泣きそうになっている。禁軍の兵だからこそ、なにも知らされず、ただ係わるなと言われるだけで、送料は容易にできてしまう。晨風が韶華のため、皇帝のために動けば、それは逆らうことになるのだ。
(誰に……ってのが、問題だよね)
晨風も明白には、知らないのだろう。
「うーん、機密文件でもあったら、見せてもらうとこだけど、ひとが手にとれる物を、残すとも思えない……」
「あ……」
晨風が動きを止める。それは鬼神に踏まれ、動きを封じられた邪鬼に似ていた。
「あるの?」
「ぼくらは……なにも書きません。勅命は符で充分ですから。でも……ごく希に、封信が残されます」
神奇に引っかかる口気をしていた。まるで、勅命ではないものだけ、封信があるかの如く。
(じゃなくて……そういうこと、なの……かも)
ふと見ると、晨風はなにか言いたそうに、口を開けたり閉めたりしていた。
(うん? 後方がなにか?)
急ぐ脚歩音が、近づいて来ていた。
「もうひとつ、伝えておくことが。多半、あのひとの持っているのは、真正です」
「はあ?」
「小妹、陰羽先生はいらっしゃいますかねッ?」
声に応じて、振り返ろうとするのと同時に、晨風が消える。いつもながら、どうやって消えているのか、古怪に思う。
韶華だけを見ていた編纂人には、晨風の不審な動きは見えなかったらしい。ただ冊子を握りしめ、息を切らせていた。
「父がいつも照料になっております。どうしたんです? 期日は、まだだと思うんですけど……それに、持ってるのは」
「ひどいじゃないですか! 簽名会見は嫌だって言ってたのに!」
顔面に突き出されたそれは、忘れもしない、北方の大国で静影が父親に代わって簽名した官能小説だった。
「日来、北方から買いたいって商量が多くなって、古怪に思ってたんです。だから吾も路子を使って、向こうで売られてるのを買ってみたんです。そりゃ、吾には読めませんけどね。でも、そうしたら……これ! ですよ!」
「ええっと……もしかしたら、愛好家が書いてみただけかもしれないですしー真正とはー限らないかもーなんてー……」
「ええ、確かに、吾が手稿で見る陰羽先生の筆迹とは、不一致な気もするんです」
長い付き合いだけに、よく分かっている。晨風によれば、真正の、あの書籍なのだから、支吾は難しくて当然なのだが。
「ですけど……簽名になれば、より嘉手になることもありますよねえ。この陰羽の文字……流れるように清逸で……」
男は丸い身体を揺らし、熱のこもった大息を吐いた。出版に係わる者の、文字に対する愛は、はかり知れないものがある。
「陰羽先生は、文藻に長けているだけでなく……このような字画も、為せるのですねえ」
「あのっ! この簽名が、洒脱な文字なのは認めますけど、こういう佳い字画は、肖似に書くの単簡なんですよ? やってみせましょうか? ほらっ」
韶華は小筒から筆を取り出すと、冊子の隅に、同じ陰羽の文字を書いてみせた。
おお、と唸る男は、韶華の小技を知らない。ただ、元より言に偽りはなく、より正しいものほど、做法しやすいのだ。
(あんまり簽名には、係わって欲しくないんだよね……諦めてくれるかな)
書いた文字をじっと見つめる男のために、韶華は署名を繰り返した。
手にした冊子についているのは、誰と知れぬ者が書いた偽の簽名。ある部分では間違っていないが、そう思ってもらわないと、
(簽名会見が! 簽名会見が行われてしまう!)
そして、査牙しい紫石の双眸を、暗黒に落としていた棠梨の名望高き将が、また替身を課せられる。かもしれない。
「小妹……」
「な、なんでしょう?」
「陰羽先生、簽名会見がお嫌いだとしても……それならそれで、良い気がしてきました!」
そうですね良かったですね、と上下文を不顧して言おうとした韶華に、男は冊子を差し出してきた。
艷熟女喰記。
北方の語言では、カッコいいのに王位争いから脱落させられた俺が美姫といいことできた件、と書いてあるのが、韶華には読めた。
桃夭に読ませて良い標題ではない。読ませられる内容でもない、はず。というか改編が激しすぎないか。
「……なんでしょう?」
「みな、陰羽先生が書いてなくても、書いていると信じてるんですよね?」
「まあ……そうでしょうね」
「なら! 下次の新作に、小妹が簽名入れて売りませんか! 売れますよ、いえ、断然売ります!」
「できるか!」
男の閃閃した笑みの前では、韶華の叫びは、不清楚にしか響かなかった。




