必然相逢、偶然相逢
「開門!」
走り込んで来る鋭い叫びに合わせ、軋む音をたてて門が開く。
彼らを通さないという選択は、門番にはない。霧の中でも、馬車に掲げられた旗の色は見えている。
王族の青――しかも非常の時を示す、白い線が上下に入っている。
守兵のひとりは、誰が来たかを主に知らせるため、見張りの尖塔に向かって灯りを揺らめかせた。
了承の返事が届くと同時に、招かざる客たちは、中央の塔に入るための掛け橋を駆け抜けた。下馬を求められたことのない、王族らしい速さだった。
その間に、知らせを受けた女主は入城してきた者を客として迎えるため、広間に入った。
しかし、彼女が城に居たのは、偶然である。
三日ほど前、近隣の農林を見回っていたが、濃霧の広がりが思うより早く、最も近い砦に泊まることにしたのだ。
末端の王族として辺り一帯を治めているが、老いを感じる今は、平地にある館で過ごすことが多い。だから砦として使うこの城に居ることは、ほとんどない。
その仮の宿に、未だ居座っているのは、霧がすっきりと晴れず、出かける気にならなかったからで、それに乗じて従僕たちを、休ませるつもりでもあった。
ゆったりと時を過ごしていた砦に、王族の訪れがある。
見えるはずのない者たちが、顔を会わせる。
それはとても不吉なことのように思えた。
ためいきを呑み込み、女主は入ってきた一団を見つめた。
一騎が、なめらかな動きで前に来て、止まる。
「ごきげんよう、アイシラクトゥの王女。貴女の名誉の下に置かれることは、この上なき喜び。突然の来訪をお許し頂き、感謝致します」
微笑みもなく告げる男は、軍服を着ていたが、印はひとつもつけていなかった。
つまり、王からの命令はなにも受けていない。争いのために居るのではない、ということだ。
ソイラクタは老いた身ながら、王女らしい優美な一礼をした。
「お久しぶりにございます。ムングルクトゥの王の血に連なる王子ロホン。本当に驚きました。わたくし自身と見えたことを、お喜び頂けるとは」
女主の厭味にロホンは応じなかった。
それもまた珍しいことだと、ソイラクタは思う。なにかを隠しているのでなければ良いが、とロホンの青い目を、牽制するように睨んだ。
「隠し事はできませんね、ソイラクタ王女。とある客人を得ているのですが、かなり疲れているようで……食事と寝室を頼みたい。できるなら、貴女の手で」
「本当なら、わたくしには会わせたくない客なのでしょう? よろしいのですか」
ロホンは薄く笑った。
ソイラクタは己の愚かさに、頬が熱くなった。
なんという愚問。今、会わせたくなかったとしても、ロホンはいずれ、見せつけるつもりでいたのだ。そして避けられないことを、避けられることのように問いかける女を、嘲笑う余裕さえある。
王女の誇りをもってソイラクタは、それ以上の拘りを見せなかった。王太子の孫と、その一行に与える部屋について素早く指示を出す。
なにを見ても、なにを知ったとしても、驚きを表さないつもりでいた。
だがそれは、従僕からの報告で揺らぐ。
ソイラクタに世話を托されたのは、青い目の小さな女の子だった。
***
止まった車輅より、瑠璃は薄い毛毯に包まれ、降ろされた。
眠りからは醒めていたが、暴れる力はない。そのままじっとしていると、石窟の内を通るような情形のあとで、柔らかな台の上に置かれた。
どこだろう、と思う間もなく閂の掛かる音がして、室に閉じ込められたと知る。
そうなるともう、頭を上げて確かめるのも怖く、涙も渇れたはずなのに、瑠璃はまた小さく泣き出した。
「泣かないで……泣かなくていいんだよ。でも、泣けるだけの活力はあるってことだから、それはいいのかな」
半ば自言自語のような低声が、旁で響いた。
瑠璃は毛毯の内側で、目を見張った。
ひとりきりではなかった。
それに、怖いひとにも、思えない。毛毯の上から、瑠璃の頭を優しく、そっと撫でる手を感じる。
瑠璃は一次、ぎゅっと身躯に力を入れ、毛毯の端を掴んで、静かに貌を出した。
澄んだ光を持つ、黒炭のような眸が、目を丸くした幼い少女の姿を鮮やかに映し出していた。
「やあ、可愛い子だね……って言うと、ぼくはなんだか危ないひとみたいだ」
「叔叔……誰?」
呵呵大笑する男は、柔らかな褐色の髪を持つ、明らかに殊方の者だった。
「瑠璃の言、分かるの?」
「分かるよ。読書したからね。クシの語言も分かるから、少し教えてあげよう」
「クシ……って?」
「キュウのことだよ。棠梨の外では、そう言うよ。それにしても瑠璃か……とてもきみに合った名だね……」
大きな手が頭を撫でる。父親が見たら、猥眼だ離れろと割り込んできそうだが、泣き通しだった幼子は、厭う心境になれない。
男は眼角に小さなしわを寄せて笑うと、扉を視線を向けた。
「もう少ししたら、老太婆が膳食と、着るものを持って来るよ。坏心はないから、不要担心。しっかりお食べ」
「……うん」
瑠璃は僅かに間を置いて頷いた。坏心はないと言われても、怖いものは怖い。男には、ここにずっといて欲しくもあるが、着替えるなら少し困る。
男もそれが分かっているようで、瑠璃に毛毯をかけて、またねとささやいた。
不久、ひとの来る気息と、重い閂の外される音がした。
灯りのない室内に比べ、樓道は明るく、眩しさの内にある影が老女であるかなど瑠璃には分からない。
ただ、衣擦れと甘い匂いと、震える大息が女人のものであると、感じさせるだけである。
「ごきげんよう……」
細い声の表す意思は、知らない。ただ拝礼なのではと思い、瑠璃も応じた。
「晩上好……?」
影が震えたのが見える。灯りとともに、ゆっくりと姿を現す。
男が言った通り、古怪な衣装を着た優しそうな老女だった。
「嗚呼……なんということ。この子が、この子は……!」
「どうしたの、老太婆? 瑠璃、盤子を持とうか」
震える老女が苦しそうに見えて、瑠璃は駆け寄った。持っていた盤子は、女官らしき者が受け取ったので、幼い少女は老女の手をさする。
「ありがとう……優しい子ね。ああ、可哀想に……ずいぶんと汚れてしまっているわね」
老女は女官から布を受け取り、幼子に微笑みかけた。
「怖がらないでね、決してあなたを、傷つけたりしないから。顔を拭いて、それから着替えましょう……」
言っていることは全く分からないが、瑠璃は老女に従った。震える手の優しさと労心は感じられる。新しい、見たこともない衣装を着付けられるのは、少しだけ心が浮き立った。思ったより飾りがないので、睡衣かもしれないが。
着替えたなら、次はおそらく膳食――とはいっても、睡衣らしきものに包まれると、それだけで眠くなってしまう。
女官が膳食を持って来る前に、幼い少女は老女にもたれかけるようにして、眠っていた。
「どうしましょう、ソイラクタ様。食べないと弱ってしまいます」
「だけど起こすのも可哀想だわ。起きた時に、すぐ食べられるお菓子を、置いておきましょう。水差しも……」
「分かりました。すぐに持って参ります」
「それから、わたくしのコリを準備させておいて」
室外に向かう女官に、ソイラクタは低く告げた。
「それは……」
「この子の目を見たでしょう……あの方がなにを考えているにせよ、城は荒れるに違いないわ。キアシムに、知らせておかなくては」
女主を見返す女官の表情には、恐れと、惑いが顕れていた。だが、すぐに目を伏せ、承諾の礼をした。
青い目を持つ者が、クシで生きていられるその事実を、女官も知らないわけではない。そして髪をほどき、眠る幼子の貌に、女主の館に飾られた絵を思い浮かべるのも、容易だったのだ。
***
白棠は、かつて棠梨とは別の国だったが、併合された領国である。
他の領国と異なり、戦に負けたわけではないので、古い権威がより強く、残っている。
たとえば領国の主となるのは王であるが、白棠での王は、位だけがあって、ひとはいない。実地に治めるのは、領国内部の七州それぞれの長であり、彼らは棠梨の皇帝によって、任を得ている。
ただ、白棠の四州の長は、元はその地を治めていた貴族が、ほぼ無条件で任命される。
中央の権威は届きにくくなるかもしれないが、彼らは長く『キュウ』と国境を争い、戦いに慣れているので、任せるに好在だったのだ。
とはいえそれも、宮都から遠い地方のことであり、白棠の都、白英を含む苻州には、棠梨の達官が差遣された。
かつての都からは遠いものの、今は最も棠梨に近い街が、白棠の都となっているのである。
「送料より、クシのひとが多いんだね……」
韶華は並ぶ武人を見上げ、それから後方を振り返った。
剛剛、すれ違った金髪の女人の身高が、見上げるばかりのものだった。宮城では大きく見えた馬銀花が、小さく思えてしまう。
もっとも、金髪の女人をクシネーと呼ぶのは、正しくないかもしれない。衣装も容止も棠梨のものだ。見ただけで知れることは、古くから白棠に住む民というだけである。
「男子はあんまり……変わらないかな」
「なにが変わらない?」
紫石が、神奇そうに韶華を見下ろす。
解説するのは麻煩なので、韶華は静影に大息だけを返した。並んでいると、韶華の旋しか見えないのではと思う武人に、個兒の話を振るものではない。
そもそも皇帝の侍衛に選ばれる男が、壮実でないはずがなく、路人が細長く、頼りなく見えるのも、当然である。
「射刃王子は、すごく武人らしい感じだったね……ああでもクシって、武具に弓の品類が多いから、大きさで圧倒しなくても良いのか」
「韶華……あまり不妙なことは言うな。棠梨の民が、クシを争う者と考えていると思われては困る。それに、おまえが武具について口にすると、賊心が透けて見えるようだ。だいたい、おまえを女兵と思う者などいないだろうから、冒失すると賊徒か偵人に認錯されるぞ」
「分かった、分かりました、言いません……もう、説法が繁冗っ」
どうしてこうも、常常、数落されなければならないのか。
韶華は灰心と肩を落とし、封口した。
「俺は……怒ったわけじゃないぞ。言に、関心が必要だというだけ……で韶華」
「なんでしょう」
「ええと……包子でも買うか?」
思わず貌を上げると、静影は大路の酒楼を指さしていた。
「わたしは小児っ? 包子で情心がよくなるとでもっ?」
「そういう打算ではないが……いや、それもあるのか。あまり、おまえに灰心されると……」
真卒で膠固な紫石の双眸を見上げ、韶華は続く言を待つ。
長い間があった。
長すぎる間だった。
長すぎて、韶華は諦めざるを得なかった。聞きたい言がなんであったのか、韶華自身も分からなかったためでもあるが。
「もういい。包子、買って」
「あの酒楼でいいか」
「好。あ、お父さんのも」
分かったと言って、静影は水晶の飾りのついた酒楼に入った。
古怪なことに、店には扁額がなく、名は分からない。代わりに、水晶の飾りが驚くほど、醒目である。壁も柱も土紅の色をしており、元は、特別な意思を持つ楼閣だったのだろう。
人気は有るらしく、ひとの流れは絶えなかった。少し待つことになるだろうか、と考えたところで、店頭から静影が貌を覗かせ、手招いた。
「どうかした? 銭が足りなかったとか……」
「いや、どの包子がいいか、訊けと言われたんだ」
「どのって、言われても」
品類が多くなければ、そのような言は出てこない。少し疑いつつも、韶華は中に入った。
ずらりと並ぶ蒸篭と、忙しそうに動きまわる使丁たち。肉案子では太ましい包丁が、豪爽に豚を刻んでいる。卓子を囲んだ客人も、鮮美な菜を口に運び、嬉しそうだ。
押し合いつつあれこれ選ぶ客人の間から、韶華は蒸篭の牌子を見た。
「うわー……迷うねえ」
「俺が素のものを買おうとしたら、考え直せと言われて」
「当然だよ」
これだけあれば、いかにも客籍、といった風色の者に、自尊したくもなる。西街で見る豊さとは異なる、希奇な品類の包子ばかりだ。
直截が基本の韶華でさえも、迷う間が必要だった。
「これはもう、いろいろ選ばないと相当短小でしょう……どれにしようかなあ」
「小妹、いくつ買うつもりなんだい?」
後方から、楽しそうな声がかかった。
「胡椒の効いているものが、好と思うよ。きっと懐かしくなる」
振り向くと、微笑む男が韶華を見ていた。
男の言う懐かしいとは、おそらく韶華の焼栗色の髪を見て、西方の者と考えたからに違いない。それは半ば正しく、半ば差錯――ただ、返す言は出なかった。
男は、西方の袍と馬袴に革履で整えていた。白英でも、よく見る殊方の男の扮装で、清楚な眉眼からも、明らかに棠梨の者ではないと分かる。
弄月と同じくらいの年齢か、少し長輩だろう。韶華からすれば、成人であることの証のような、温和な質が見える。
なのに一瞬、韶華は男の淡雅な風色の内に、不自然を感じた。それは、眸の青さから、感じたものだけではなかった。
「驚かせて悪かった。西方の者は、白棠では珍しいからね。小妹の髪の色で、古い友人を思い出したんだ」
「そのひとは、胡椒がお好きだったんですか?」
「調味品の効いたものなら、なんでも、かな。中央に置かれた蒸篭のような、姜黄と小茴香で煮込んだものは、よくひとりで作っていたよ。鍋を焦がすばかりだったけど」
菜の能手ではなさそうだが、鍋を犠に食の道を極めんとする幹気だけは、汲み取ることにする。
「じゃあ、素と胡椒と、姜黄のを買おう」
話は聞いた、とばかりに包丁が包子を寄越す。銭は固然、静影に求めた。
「やあ、嬉しいな。助言して良かった。小妹は、旅游かな」
「旅游だったらいいんですけどね……どちらかというと、監督とお迎え? 令令はどこに行く預定ですか?」
韶華が問い返すと、男は鮮やかな笑みを浮かべた。碧眼であることの意思は、分かっているらしい。
「どこへ行くとも決めていない、流れ者だよ私は。ずっと西に居ついていたんだけれど、棠梨の一人の大婚があると聞いて、甘棠に行ってみようかと思ってね」
と言って、男はちらりと対面の席を見た。今は空だが、連れの存在を示す動きである。
「小妹、良い上路になるよう、祈っているよ」
「ありがとう。令令もね」
男の微笑みに、韶華も笑みを返す。もう少し話していたい気もするが、後面に立つ武人の圧が、それを許さなかった。
「静影、怒ってる? もしかして、包子が高かったとか?」
酒楼を出てすぐ、封口している静影を韶華は見た。
しかし紫石の双眸は、少女の持つ包子の包みにはなかった。なにかを見ているのだろうが、判然としない。字のない烏紙を当前にして、行をしていますという貌をする作家のようだった。
「そういう時は、考えても無用なんだよねえ」
「韶華……考えではなくて、俺にはあの男が、クシの民に見えた」
気にしたのはそこか、と韶華は肩を竦めた。
「わたしも思った。でも、碧眼なんだから、クシネーではないことになるよね。あの国では王族以外、青い目を持つ者は……いないんだから。瑠璃を攫った若紅王子とは、年齢が合わないし」
「ならばやはり、西方の者ということか。髪の色も、北の者にしては濃かったが」
深褐色をクシで珍しいと思えるかは、難しいところである。
「ああ、そうか。だから……」
「どうした、韶華」
「うん……なんでもない。考えすぎだと思う。ところで静影は、どの……」
包子を選ぶか尋ねようとしたのだが、できなかった。酒楼の旁の小路から、知った声が響いてきたからである。
「もう諦めようよ、叔叔!」
「いいや、まだだ。まだ諦めるものかッ。荷が重いのなら、先に戻るが良いッ」
「そんなこと、できるわけないよ。怒られるのに……」
動かない韶華の上からかかる大息が、結い髪を揺らした。
静影の心境は、察してあまりある。韶華も立即、隠れたい。幼い少年たちの労苦を思うと、できないけれど。
「あああ韶姉! 助けて!」
大路に這い出してくる男にすがりつつ、景景と永児が韶華を見て叫んだ。
「静影大兄? あれが、皇帝の信を得た偉い官吏のすることなんでしょうか」
「いや、まあ……重明は香のこととなると……」
言を濁す、としかいいようのない説法をして、静影が封口する。
大路には酒楼などが並んでいる。旁に入ると、糧店などが並ぶ路になるのかもしれない。
重明も韶華らに気づいたが、小路で、よほど値心のあるものが見つかったのか、ふたりの藐視くらいでは、行いを改めそうもなかった。
「これは、この香りは……甘露……幼女……!」
震える男が視線を天に向け、手を差し出す。過ぎ行くひとが、みな、見なかった模倣で歩き去った。
「嗚呼、甘露がこぼれている! なんということだ……可憐な、小生が拭って差し上げたい……ッ」
到底是不成幼女。拭い魔再来を恐れ、静影は朋友に駆け寄った。
「景景、永児、もういいぞ。俺が照料するから」
「いいの? この叔叔、店のひとに、やたらに絡むんだよ」
「うん? 絡むとは無状なッ。解説が足りぬのだ。貨の質を知らずして売るなど、許せるものではないだろう」
「重明、そろそろ結舌しないと、鼻をつまむぞ」
静影が告げると、香試は悔しそうに呟いた。
「私の言こそ、正当であるのに……」
「それはそうだが、まず結舌」
そして迷于香は封口する。実に精彩な做法である。
「あっ、包子!」
「いい匂い……」
「うむ、胡椒だな。逸品の姜……」
静影に睨まれ、香試だけが再結舌した。幼い少年たちは、輝く視線で小さな袋を見つめ、いいなあと呟く。
長輩としての誇りは、韶華にもある。だから。
「両半にするからっ……素と胡椒と姜黄ッ、どれがいいっ?」
喚声を上げる少年たちに、分けてやるしかなかった。
「では、私は胡椒を」
「うわ盗った! 王先生ッ、あなたにまるまるひとつ分ける理由はないんですけども!」
「おいえあわあわあ……おお、胡椒も逸品!」
食べるもので、そこまで怒りたくはないのだが、満たされた貌を見ると、許せなくなる。
少女が男の耳を引っ張り、通りを行く姿は、長く白英の風聞となった。




