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離棠赴白之二

 幼い子の泣く声は、ひどく弱々しくなっていた。

 ()らわれてから、どうしてここにいるのか分からず、ずっと泣き通しでいる。

 慰める者も話しかける者もおらず、そもそも馬車に乗せられてからは、食べるもの、水さえも与えられていない。

 これでは、弱って行くのも当然だろう。

 けれど、攫った者たちは急がなければならず、攫った子の世話をする余裕などなかった。だから幼い少女のすすり泣く声が、外に洩れないよう小さくなって行く方が、都合が良かったのだ。

 か細い息が止まるか、目的の地に着くのが早いか――

 だが、小さな石が示す国境を越えた瞬間、濃い霧が行く手を阻んだ。

 乳白色の(とばり)を無視すればどうなるか、知らない彼らでもない。このまま進めば、自分たちの命をも、危うくしてしまう。

 遠く、微かに()もる城の灯りが見えるうちに、あそこへと、辿りつかなければならない。

 碧眼の男は苛立たしげに舌打ちをし、馬車を城に向けた。

 できるなら、あそこには行きたくはなかった。

 だが、その考えは、曲げねばならない。

 馬車の中では、もう眠る以外の(すべ)を持たない幼子が、(ほの)かな光にそっと抱き締められた。

 ささやきよりも微かな光が、幼子を撫でる。

 愛しい子(シーリーン)眠りなさい(ラーラー)

 ここからは、決して不安にはさせないよ、と。


***



 棠梨(トウリ)の官人が宮都を出るのは、領国の地に差遣(はけん)された時が多い。

 領国の才能ある者が貢挙(こうきょ)登科(ごうかく)し、地方官の位を得て故郷に戻ることもあるが、多くは、初めて都を出る。

 つまり、旅に慣れていない者が、ほとんどなのである。

 そのなかで王重明(オウ・チョウメイ)は、官吏にしては珍しく、几次(なんど)も旅をしていた。珍しい香料を求めてのことだが、そんな迷于香(香オタク)でも、白棠(ハクトウ)の都、白英(ハクエイ)まで来るのは、初めてだった。

「果てはまだ遠いけれど、ここでさえも心踊る! 嗚呼、クシの地に行けば、どんな香料が手に入るだろうか……!」

「なんで、こんなことに……」

「見つかっちまったんだから、どうにもならねえよ……」

 路を行くひとが、矩歩(あしどり)も軽やかな男と、その両の袖を握った少年たちを怪しむ目で見ていた。

 いずれも白棠の夏令(なつ)に合わない衣を着ており、醒目だっ(目を引い)た。なにより中央の官方(やくにん)らしき男が、草叢に手を突っ込んでいる様態(さま)は、奇怪である。

 しかし、迷于香がひとの目など、気にするはずもなく――(いと)風色(けはい)を感じ取るのは、付き添う少年たちの任となった。

「それで、どに行くのですか……みんなが見てますよ」

 永児(エイジ)低声(こごえ)で尋ねた。

「みな、とは誰だ。言ってみよ。おまえたちは、私の侍童なのだから、路人(通りすがり)たちを関心する(気遣う)より、私に従うのだッ。さあ、あちらへ行くぞ! 変わった黒沈香(きゃら香)を感じる!」

 袖にふたつも重物(おもし)をつけているのに、迷于香は力強く進む。

 幼い少年たちに、否応はない。罪人とならないためには、変態に従うしかないのである。

 忍び込んだ時は考えもしなかったが、皇帝の荷を入れた(にぐるま)に隠れたなら、盗んでいなかったとしても、罪を問われるのは必至。香試(調香師)の侍童という借口(こうじつ)がなければ、同行どころではなかったのだ。

 果然(はたして)景景(ケイケイ)と永児は、老早(あさっぱら)から旅舎(やど)を飛び出した香試に、引きずり回される情態(はめ)に陥ったわけである。

「困るよね……韶姉(ショウねえ)はどこにいるの。こんな心里に花が開いた(うっきうきな)ひと、旅舎から出したら不妙(マズ)いと思う……」

「韶姉は韶姉で、行くとこがあるんだってさ。それに大哥(にーちゃん)にも、頼まれたじゃん。この叔叔(おっさん)(ほう)っておくなって」

「そうだけど」

 (チョウ)家の哥兒(おぼっちゃま)である永児は、官品(かんぽん)のある気派(りっぱ)成人(オトナ)が、変態であるのが、信じられないようだった。

 涙眼の(なみだぐむ)玩伴(悪友)を慰めるため、景景は掴んでいた袖をひねった。

「痛ッ、なにをするかッ」

叔叔(おっさん)、香を採取したいんだろ。だったら山とか、そういう場に行くべきじゃ? どうしてこんな、大楼(でかい家)が並んでるとこに行くのさ」

「私が嗅ぎ取ったのは、黒沈香(きゃら)! しかも逸品! そこらの山に、あるものではないッ。採取だけが、香料集めではないのだぞッ。だから香商か、あるいは使っている大家(おかねもち)を探しているのだ」

 少年たちは、そのひと(おかねもち)を探し出してどうするのだろう、とは言わなかった。

 ただ、静影(セイエイ)が変態の動きを察していたことだけは、良く理解できた。これは、なにをするか分からない男である。

 けれど、彼を止めたところで、紛事(さわぎ)が収まるとも思えなかった。白英の都に放たれた香試は、重明ひとりではないのだ。誰もが重明に似た変態なら、あちこちで累贄し(トラブっ)ているに違いない。

「香料って集めるの、労苦(たいへん)なのは、分かるけどさ……」

 高雅な興趣(しゅみ)のない景景には黒沈香より、水晶の飾りをつけた酒楼から、流れ出てくる包子の匂いが気になった。

 郷愁と空腹、それが、遠い宮都で青い目の幼い少女とともに、包子を食べたことを思い出させる。

瑠璃(ルリ)、泣いてないかな……」

「うん……」

 永児も攫われた少女を思い出し、俯いた。

「どうした、少年。碧玉が泣くとは、詩人のような説法(いいかた)だな」

 驚く少年らの当前(めのまえ)に、雪をまぶしたような銀髪の男が立っていた。

 髪だけ見れば、景景の太父(祖父)のような年齢の男だが、声からすると、もっと若い。目の色も薄く、鹿の毛色のようだ。棠梨の者ではないと思って見てみれば、衣装も宮都の南市(いちば)で見た、北方のものに似ていた。

 方才(ちょうど)、酒楼から出て来たのか、持っている包みからは肉と葱の串焼きの、まだ()げる匂いがしていた。

「あの、別に、詩じゃない……あっ、いないっ」

 匂いに気を取られ、ふたりとも袖から手を離してしまったらしく、香試は消えていた。

「少年が捕まえていた冶郎(やさおとこ)……という説法(いいかた)でいいのかな、彼は、そこの酒楼に入っていったぞ」

 男が示したのは、出て来たばかりの酒楼だった。

「ええっ? 景景、あそこに香料ってあると思う?」

「あっても、調味品(スパイス)だよ……」

 ふたりが思い出したのは、かつて納女考試(お妃えらび)のために、香りのあるものといえば、葱までが宮都から消えた日のこと。一時(しばらく)は、味の不妙(ビミョー)(りょうり)ばかりが出された、まさに不味道だ(あじけなか)った刻である。

不妙だ(ヤバい)よ、あいつ、乱子(もめごと)を起こすって。止めないと……」

「でも、どうしたらいいの」

「香りの強いものが好きなのか、あの冶郎は」

「まあ……強いというか、そのもの……?」

「だったら、酒楼の後方(おく)の路を入ると、糧店(食料品店)がある。もっと進むと市もあるよ」

「あ、ありがとうございますっ」

「良い子だ」

 男がにこりと笑うと、笑窩(えくぼ)ができた。

 小児(こども)扱いは反駁(はんろん)したかったものの、景景は永児を肘でつつき、男に頭を下げた。

 まずは、急ぎ重明を捕まえなくてはならない。それから、糧店でも市にでも、連れて行けば良い。

 少年らに課された任は、肉串を気にすることではなく、香試について歩くことなのだ。


***



 香試らが都を騒がせていることも知らず、韶華(ショウカ)査牙(けわ)しい双眸を持った武人とともに、ある館第(やかた)を訪ねていた。

 白英という都に、宮都と似たところはない。

 しかし韶華は、片書を手に目的の地を探しつつ、来たこともない場であるのに、街に親しみが湧くのを、古怪(ふしぎ)に思った。

 やがて、そう感じる理由が分かる。

 目からではない。鼻先からだった。甘棠(カントウ)では、とうに散ってしまった花が、甘い香りを放ちながら、まだ咲き残っている。その香りが、韶華を白い花の咲いていた日に、引き戻していたのだ。

 小弱な(体の弱い)幼子が、姉たちの拾った花を手に乗せて喜んだ他日(いつか)、その時は納女考試(お妃試験)もクシも知らず、幼子は明天(あした)生きられるかだけを考えていた。

 今は――命運の弱さを気にしなくて良くなった今ならば、香り立つ花を、もっと楽しめるだろう。

 ここより北にあるクシならば、()だ咲き乱れる棠梨の白い花を、見られるかもしれない。

 ならば瑠璃は、少しは寂しくないだろうか。

 知らぬ遠い地で、知らぬひとの間にいても、よく知る花が、小さな手の側で咲いていてくれたなら。

 拳を握った韶華の(となり)で、静影(セイエイ)が大息まじりに呟いた。

(また)、この花に(まみ)えるとは思わなかったな。美観も極まれり、といった様態(さま)だ」

 峻宇(やしき)に向かう小さい路の両辺に、棠梨の木は植えられている。路は細長く続き、先を見ることはできない。馬銀花(マ・ギンカ)の生家は、かなりの寛度(ひろさ)があるらしい。

「銀花さんって、すごい大家(おかねもち)令媛(おじょうさま)なんだねえ……それが、後宮の女兵になろうとは。どういう心境なん……ええと、まあ」

 驚きの口気(くちょう)から一転、呑呑吐吐(しどろもどろ)になる韶華を見て、静影は苦笑した。

「おまえも似たようなものだろうが。一人(天子)の妃の妹になる者が、武挙(ぶきょ)を狙ってみたり、上学(つうがく)する大学で騒ぎを起こしたり……」

「あのですね、わたしのことではなくて……まあいいや」

 文官の名門である静影が、武人になったことを訊笑し(ひにくっ)たように聞こえるかと思ったのだが、そんなことはなかったようだ。

 と、前方に牌楼が見えた。守護獣や宝玉で飾り立てられ、馬家の昌盛(さかえ)を誇らしげに示している。

 牌楼の後方には、視線を遮るための影壁(えいへき)があったが、その(わき)をするりと抜けて、ひとが現れた。使丁(めしつかい)である。

令女(おじょうさま)、お待ちしておりました。こちらにどうぞ」

 使丁は牌楼の内には向導(あんない)せず、路の旁を示した。どうやら、潅木(にわき)をかき分けて行かねばならないらしい。

 銀花からの封信(てがみ)は届いているようだが、歓迎されていないのか、と驚く韶華に、使丁は慌てたように解説(せつめい)を加えた。

「こちらは、令媛(銀花さま)許婚者(夫候補)ジャイの房室(へや)です。令媛が、できるだけ機密にと願っておりますので、こちらが良いと」

 韶華はそういうことかと頷き、潅木の内に入った。

 続く静影からは、不審を含ませた気息(けはい)が発せられている。

 聞き慣れない男の名が、クシのものであると知らなければ、そしてクシの訂婚(こんやく)までの法子(ほうほう)を知らなければ、主房(おもや)から外れて住むのを古怪(へん)に思うに違いない。

 クシでは、男は妻を得るため、婚家に二から三年、下僕として仕える。

 (つと)めを終えて無事、丈夫(おっと)にすると(あるじ)に認められたなら、装送(嫁入したく)聘物(ゆいのう品)とを婚家より得て、ようやく家を構えることが許される。

 銀花の許婚者は、仕えている正中(さなか)ということになるが、連天(まいにち)投げ飛ばされているという話からすると、先は長そうである。

「まあでも……うちの白屋(あばらや)よりは気派(りっぱ)だよねえ?」

 静影は応じなかった。(うまや)かと思うような大きな棚子(こや)を見て、なにを言えば良いのか、分からなかったようだ。

歓迎光臨(いらっしゃい)我が最愛(マイハニー)の友ですね?」

 朗らかな声調(こえ)で、身高(せたけ)のある男が出て来た。

「私は、ジャイ。愛がために、難事(しれん)を越えんと遥か北の地より参った者です」

 ジャイを見て、韶華は父親が北方の者であると、改めて感じた。

 白浄(白い肌)に、淡い輝きを放つ赤髪(ちゃぱつ)と褐色の(ひとみ)。王族である射刃(セレウ)もまた、眩しいくらい色の薄い男だった。

 父親の灰色に見える髪は、若い時であれば艶のある銀色だっだろうし、薄灰の目は、北の白天(ひるま)の柔らかな光でも、透き通って鮮やかだったはず。

 北方の(しるし)は、父親のなかに、正しく存在していたのだ。

 黙り込んだ韶華になにを思ったか、ジャイは分かりますといった頷きを返した。

「気にしておられるのかもしれませんね。ええ、私にも家名はあります。ですが、我が最愛を得るまでは、使わないと決めているのですよ……貴兄は……(ジョ)将軍ですね。それから小妹(あなた)が、韶華小姐(さん)……激烈高強師長(スーパータフクィーン)愛児(むすめさん)! 我が最愛から聞いています。私の故里について、訊きたいことがあるとか」

「激烈高強師長……」

 応じるべきは、クシについてなのだが、まずはそこが気になった。

「あの……ジャイ大人(さん)は、銀花さんが後宮でなにをしているのか、知っているのですか」

「美人を守ります」

 その認識は正しいが、なにかが違う。

「そもそも、銀花さんが宮都で(しごと)を得ると、白英(ハクエイ)には、戻らないことになりますけど……?」

「ええ。訂婚が許されたら、甘棠に住む打算(よてい)です。()家は、亡き宗子(あとつぎ)の息子が継ぎますし、我が最愛も私も、ずっと宮都に憧れておりましたから」

 ジャイの輝く目に郷里(じっか)を厭う気息(けはい)はないので、一心(じゅんすい)に、都へ行きたいだけなのだろう。

 ということにして、韶華は話題をクシの王族へと向けた。

 棠梨の宮城に入って来る話はともかく、クシの者(クシネー)の認識が、どういうものであるかが、知りたかった。

下次(つぎ)(ボアナイ)になるのは、今の王太子(ナーアガー)ではないだろう……と言われているけど」

「そうですね……フジュニ様はピアグダン王の実弟で、お年を召していらっしゃいますから、王となったとしても、すぐに次を考えなければなりません。ですが」

「そのひとの次となるべき王太子が、決まりそうもない……って聞いた。それってクシでは、知られていることなのかな」

 ジャイは隠すことなく頷いた。

「みな、知っています。元より、フジュニ様が王太子となることさえ、暫旦(かりそめ)の施行でしたから。彼は、王となる質を持った御子を……持てなかったので」

 低声(こごえ)になるのを見ると、王となる質、つまり碧眼について、クシの民は、神聖さを認めているということだ。

 そして王太子フジュニの息子を、碧眼を持たなかっただけで王族と認めなかったのは、王族だけではないということでもある。

「分かりやすい質に(こだわ)るのは良いけど、そんなの瞬息(あっという間)に、碧眼の王子が生まれなくなって、僵す(行き詰まる)るでしょうに。よく続いたねえ」

「そのために、(ククウェ)がいたのですが……千古(おおむかし)は、碧眼でさえあれば、王位に就けたと聞きます……」

「今は異なるってことね」

 同意からくる大息を吐いたのは、ジャイだけではなく、静影もだった。

「なんで静影まで」

「どこの国も同じだ。自身(じぶん)を伏せた男に仕えることは認めても、その子どもには、なんらかの意思(いみ)を見出せなければ、(あるじ)にしたくはないものだ。それはやがて、開首(はじめ)の掟を歪めてしまう。棠梨は、皇后だけが正妻だから、嬪妾から生まれた皇子は、年齢だけが次序(じょれつ)となるはずだった。だが……」

 静影の言いたいことが、韶華に伝わる。

 大約(おおよそ)では、長輩(としうえ)から次序の通りに、皇子たちは歴代の皇帝になっている。ただしそれは、母親の位が高い者が、低い者を押し退けて為した後果(けっか)である。皇子のなかには、刺行(あんさつ)という紛事(じけん)で消えた者や、醜聞で位に就くことを辞した者も多い。

 後台(うしろだて)の力によって、次序が変わるのは、珍しいことではない。

 おそらく、静影が真に言いたいのは、その後台による歪みの部分だ。

「小妹……クシの庶人(しょみん)でも、母親の(みぶん)を重んじるものです。王たる質が、より高貴な血によって生まれることを条件としても、古怪(へん)ではありません。ただ、それこそが今の……セレウ、ロホンの両王子の、どちらを王太子とするかの障りとなっているのですが」

「ふたりともお母さんが(ククウェ)なの? そういえば、あのひとたちの母親の名って、なかったなあ?」

「ないのは、当然であろうと思います。私……クシの民も知りません」

「ええー……もしかして、神聖さをつけようとして、川から流れてきた果子(くだもの)から、生まれたことにしてる?」

不成(だめ)ですよ、そんなのその場で食べてしまいますって。ではなくて、王子たちの母が誰か、知らされていないのです。でも……私たちも、知りたいという気にはなれなかったのは、(ほんとう)です。正妃(バイエクトゥ)であるという風聞だけで充分だった。フジュニ様の息子、それから前王の王子の生母の扱いが……聞くに耐えないものであったので」

 ジャイは瞬刻、遠いものを見る目をした。

「これは、褒められた話では、ありません。前王は……正妃(バイエクトゥ)を廃し、別の正妃を得ました。棠梨でいえば、退婚(こんやくかいしょう)でしょうか。ですがクシには、得た妻を廃する、などという掟はありません。前王は、ナサルニ・ニョンジャンを得るためだけに、クシの天地の、どこを探しても不在な(ありえない)規定をつくり出したのです」

 那紗流尼(ナサルニ)娘江(ニャンジィアン)。そんな字があったなあ、と、韶華も遠い目をした。

「ありもしない規定を作った、その理由は?」

 静影が問う。支配者の横逸(わがまま)とはいえ、妃の位から下ろしただけで済ませたのは、留情(かんだい)である。つまりは、そうしなければならない理由が、あったのだ。

 ジャイは少し迷ってから、話を続けた。

「前王には、碧眼ではありませんが、正妃との間に息子がいました。王子の位は、認められましたが……位を与える儀は、行われませんでした。それでも、王子には違いありません。王子の母を、草率(ざつ)に扱うわけには、いかなかったのですよ。それなりの名門の出でありましたし」

「その家からの抗拒(はんぱつ)だって、あったでしょうに。そんなに青い目が、良いの」

「王となる証ですから……ただ、前王には、(こだわ)る理由があったんですよ。弟であるオクトワ様に、ウルドゥル様がお生まれになって、全て奪われることになりかねなかった。だから新たに迎えた正妃(バイエクトゥ)がムドゥール様をお生みになって……危ない賭けに勝ったわけです」

「賭け?」

「前王は、オクトワ様より位の低い妃を母親としていますから、碧眼の息子がいなければ、王太子の位は望むべくもない……ムドゥール様を得て……しばらくして、王や王太子が重重(つぎつぎ)と身罷り、前王が位に就いたので、多くのクシの民(クシネー)諷刺(ひにく)を込めて、賭けと呼んでいます」

「あれ、待って。そのお妃さま変えって、まだ王子(ナーニー)だった時にやったんだ?」

「そうですね……まだアズムーン王は健在で、ムングルクトゥの王太子(ナーアガー)と、それにフミエクトゥの元王太子(アーグ)も、壮健だったはずです」

 王族の部分を表す長い(ことば)は、韶華の父親の片書(メモ)に、当先(まっさき)に出てきた。

 王妃から生まれた正統な血を持つ者を、アイシラクトゥ。

 第几次(なんばんめ)でも、妃から生まれた血を、ムングルクトゥ。

 妾妃から引き継がれる血を、フミエクトゥ。

 家門の名ではないが、生まれを表す古怪(きみょう)な言葉をクシは使う。

元王太子(アーグ)と、王太子と分けて言うのか……王太子の位とは、そこまで譲位し易いものなのか」

「それは、お父さんの片書の隅に書いてあった。妾妃(ボアククウェ)の長男より、第二夫人(ウルゥエクトゥ)の二男が良いんだってね。王太子の位は、わりと軽易(かんたん)に動くから、宮中の争いにつながり易いとか」

「片書ッ? 等等(まて)、韶華。おまえ、あれを読んだ……あれは、おまえに読ませたのか、まさか!」

 武人の紫石の双眸が狼狽える様態(さま)を、初めて見たような気がした。

(あ、違うか……わたしが川に落ちた時だとか……あああええっとお)

 あらぬ疑いをかけた時も、似たような(かお)をしていた。

 韶華と静影、僅かに噛み合わない反応の間で、さらに合わない喜びをジャイが見せた。

「ああ、徐将軍もお読みになられたんですね! 陰羽(インウ)先生の愛の秘事! 私も……愛好家(ファン)なんですよ。今ではそうでもないのですが、かつては、棠梨の書籍をクシで手に入れるのは難しくて……それに、翻訳されるまで待つのも辛くて、私は棠梨の語言(げんご)を学び始めたんです。熱心にやったので、下拙(へた)ながらも、翻訳を任されるようにまで、なりました。その稿料で白英に来て、我が最愛に出会ったのですから……私にとって陰羽先生は、月下氷人のようなものです。いつか甘棠に行ったら、簽名(サイン)を頂きたい……」

 ジャイの熱く語る内容の、ほとんどが韶華には意思不明瞭(ワケ分からん)。静影の読む読まないの反応から、どこかに、妾妃の長男と第二夫人の二男が、愛を争う小説があるのだろう、と思う。が。

「静影は、どうしてわたしのお父さんの片書が、小説だと思うの。まるで読んではいけないような貌をするし。まあ、お父さんは作家……あれっ?」

(よせ)、もう考えるな……」

 昏く沈んだ紫石の(するどい)双眸は、韶華の辿(たど)りついた答えを、正しいと表している。

 静影が、韶華の父親をクシの者と考えたのは、クシの王族の知られてはいけない秘事を、棠梨で小説にしていたからである。

「ねえ……今のジャイさんの言からすると、お父さんの小説……クシに思いっきり出回ってる……ようだけど」

「ああ。方才(たった今)、俺も聞いて発抖し(おののい)てるよ……」

「お父さん……ってあの、もしや太君(ちちぎみ)が、陰羽先生……なのですか? 暢銷書(ベストセラー)作家にして、大手筆(名文家)の?」

「売れてたら、杜家(うち)貧窮(びんぼう)っていうのも古怪(ヘン)だけど。それに、わたしは筆名を知らないんだ……そうなの、静影?」

「そうなのですかっ? 母親の家門(いえがら)がために、司命を分かたれた兄弟と、花の仙女が房中術を競う愛の秘事、禁じられた王族の愛を、濃密に描ききった艶熟女喰記、妖冶なる少女の一想(おもいつき)が、宮中を淫らに染めおぐッ」

 ジャイの口が、静影の手で塞がれた。すでに遅くはあったけれど。

 短い結舌(ちんもく)の後、伏せられていた少女の目が、武人を捉えた。

「静影、どうして錆青(まっさお)になってるの……?」

「いや、別に……」

「気にすることは、ないんじゃない? 官能小説を愛好してたって……わたしも、白果(ハクカ)舎に通ってるからね、そこまで書名を言われたら、分かるよ。棠梨の成人男子で、知らない者はいないと言われる官能小説家、陰羽。古い書籍は、希覯書として扱われるから、持ち込みがあったら、老板(てんしゅ)を呼んでって言われてるんだ」

 その作家は、韶華が回家(きたく)すれば、書院(しょさい)に居たわけだが。

 惑うジャイに少女の熱のない視線が向く。

「静影が言うには……お父さんの小説って、クシの王族を書いてるってことなんだけど、ここでは、それって話題になってないの?」

固然(もちろん)、なってますよ?」

 棠梨の武人の目が、驚きに見開かれた。

「艶熟女喰記の公主(プリンセス)王子(プリンス)が、誰を元にしているかなど、双親(りょうしん)からしか話を聞いていない私だって、すぐに分かりました。とても感動しました! 女体化してますがこれが……私たち、庶人(しょみん)には語られなかった真実なのだと……!」

「女……体?」

「ジャイ殿、それについて俺も知ったばかりなのだが、二十年ほど前のクシの乱子(さわぎ)は、庶人にどう伝わっているのだろうか」

「ジャイとお呼び下さい、徐将軍。あれを乱子(さわぎ)というのは難しいです。庶人には、ただ、王太子ウルドゥル様と堂弟(いとこ)ムドゥール様が亡くなったとしか教えられていません。のちに王宮が流したらしい風聞で、叛逆者として処死(刑死)したというものがありましたが、誰も信じなかったそうです」

 ウルドゥルが、天空神の降臨とまで言われ、民に慕われていたと知らなくても、王太子(ナーアガー)が叛逆する意思(いみ)は、あまりない。

 位を奪われそうになったなら、あり得なくもないが、ムドゥール――前王が妃を変えてまで得たかった碧眼の息子まで、同じく処死では条理(すじ)が通らない。

 前王が亡くなった時、すでにムドゥールは二十才。王太子になろうと思うなら、そうと言うだけで願いは叶っただろう。それをしなかったからこそ、ウルドゥルが王太子のままだったのだ。

「あれを読んで、みな、理解したのです。彼らの間に、愛があったのなら、密かに死を選ばされたのも分かります……」

「あの、ジャイさん……わたし、ひとつ訊いておこうかなって、思うのですが……神異(ウルドゥル)様も、天龍(ムドゥール)様も、男子ですよね? それって、クシでは……」

「許されなくても、愛に違いはありません! 艶熟女喰記の(なか)で、公主は言うのです。男であれば逃ぐうぐ」

「内容は解説しなくて良い」

 静影の眼晴(めもと)焦慮(あせり)があるのは、珍しい情態(もの)だった。

 否、瑠璃(ルリ)といると、よくそんな貌をしている。禁泄漏(言ったらダメ)と厳しく言いつけながら。

「って、まさか瑠璃、お父さんが官能小説家って、知ってるっ?」

「それはその……」

 紫石の(ちゅう)に揺れる様態を見れば、答えは決まりだ。

「お父さん……! 不成(だめ)だって叱らないと! ジャイさん、わたし戻りますけど、口訳(つうやく)のお願いは、また改めて」

「ここに! ここにいらしてるのですかっ、陰羽先生は! 会いたい……! お願いです、会わせて下さい! 会わせて頂けたら、口訳でも深間(スパイ)でも、なんでも致します!」

「官能小説家に会うだけで、百年《いっしょう》を不成(ムダ)にしないで下さいよ! 下次(こんど)、会わせますから!」

 好好(やったあ)好好(やっほう)と踊るジャイ。

 浮かれた人物に見えても、信用は、できるはずである。銀花のために、そう思いたい。

「韶華……いいのか?」

「いいもなにも、どう隠せと……」

 大息を吐く韶華に、静影も大息(ためいき)で同意してみせた。

 ふと視線を感じ、(わき)を見ると、零食(おやつ)を持って来た使丁が、怪しげな踊りに興じるジャイに怯え、立ち(すく)んでいた。


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