離棠赴白之二
幼い子の泣く声は、ひどく弱々しくなっていた。
捕らわれてから、どうしてここにいるのか分からず、ずっと泣き通しでいる。
慰める者も話しかける者もおらず、そもそも馬車に乗せられてからは、食べるもの、水さえも与えられていない。
これでは、弱って行くのも当然だろう。
けれど、攫った者たちは急がなければならず、攫った子の世話をする余裕などなかった。だから幼い少女のすすり泣く声が、外に洩れないよう小さくなって行く方が、都合が良かったのだ。
か細い息が止まるか、目的の地に着くのが早いか――
だが、小さな石が示す国境を越えた瞬間、濃い霧が行く手を阻んだ。
乳白色の帳を無視すればどうなるか、知らない彼らでもない。このまま進めば、自分たちの命をも、危うくしてしまう。
遠く、微かに点もる城の灯りが見えるうちに、あそこへと、辿りつかなければならない。
碧眼の男は苛立たしげに舌打ちをし、馬車を城に向けた。
できるなら、あそこには行きたくはなかった。
だが、その考えは、曲げねばならない。
馬車の中では、もう眠る以外の術を持たない幼子が、仄かな光にそっと抱き締められた。
ささやきよりも微かな光が、幼子を撫でる。
愛しい子、眠りなさい。
ここからは、決して不安にはさせないよ、と。
***
棠梨の官人が宮都を出るのは、領国の地に差遣された時が多い。
領国の才能ある者が貢挙に登科し、地方官の位を得て故郷に戻ることもあるが、多くは、初めて都を出る。
つまり、旅に慣れていない者が、ほとんどなのである。
そのなかで王重明は、官吏にしては珍しく、几次も旅をしていた。珍しい香料を求めてのことだが、そんな迷于香でも、白棠の都、白英まで来るのは、初めてだった。
「果てはまだ遠いけれど、ここでさえも心踊る! 嗚呼、クシの地に行けば、どんな香料が手に入るだろうか……!」
「なんで、こんなことに……」
「見つかっちまったんだから、どうにもならねえよ……」
路を行くひとが、矩歩も軽やかな男と、その両の袖を握った少年たちを怪しむ目で見ていた。
いずれも白棠の夏令に合わない衣を着ており、醒目だった。なにより中央の官方らしき男が、草叢に手を突っ込んでいる様態は、奇怪である。
しかし、迷于香がひとの目など、気にするはずもなく――厭う風色を感じ取るのは、付き添う少年たちの任となった。
「それで、どに行くのですか……みんなが見てますよ」
永児が低声で尋ねた。
「みな、とは誰だ。言ってみよ。おまえたちは、私の侍童なのだから、路人たちを関心するより、私に従うのだッ。さあ、あちらへ行くぞ! 変わった黒沈香を感じる!」
袖にふたつも重物をつけているのに、迷于香は力強く進む。
幼い少年たちに、否応はない。罪人とならないためには、変態に従うしかないのである。
忍び込んだ時は考えもしなかったが、皇帝の荷を入れた輜に隠れたなら、盗んでいなかったとしても、罪を問われるのは必至。香試の侍童という借口がなければ、同行どころではなかったのだ。
果然、景景と永児は、老早から旅舎を飛び出した香試に、引きずり回される情態に陥ったわけである。
「困るよね……韶姉はどこにいるの。こんな心里に花が開いたひと、旅舎から出したら不妙いと思う……」
「韶姉は韶姉で、行くとこがあるんだってさ。それに大哥にも、頼まれたじゃん。この叔叔を抛っておくなって」
「そうだけど」
張家の哥兒である永児は、官品のある気派な成人が、変態であるのが、信じられないようだった。
涙眼の玩伴を慰めるため、景景は掴んでいた袖をひねった。
「痛ッ、なにをするかッ」
「叔叔、香を採取したいんだろ。だったら山とか、そういう場に行くべきじゃ? どうしてこんな、大楼が並んでるとこに行くのさ」
「私が嗅ぎ取ったのは、黒沈香! しかも逸品! そこらの山に、あるものではないッ。採取だけが、香料集めではないのだぞッ。だから香商か、あるいは使っている大家を探しているのだ」
少年たちは、そのひとを探し出してどうするのだろう、とは言わなかった。
ただ、静影が変態の動きを察していたことだけは、良く理解できた。これは、なにをするか分からない男である。
けれど、彼を止めたところで、紛事が収まるとも思えなかった。白英の都に放たれた香試は、重明ひとりではないのだ。誰もが重明に似た変態なら、あちこちで累贄しているに違いない。
「香料って集めるの、労苦なのは、分かるけどさ……」
高雅な興趣のない景景には黒沈香より、水晶の飾りをつけた酒楼から、流れ出てくる包子の匂いが気になった。
郷愁と空腹、それが、遠い宮都で青い目の幼い少女とともに、包子を食べたことを思い出させる。
「瑠璃、泣いてないかな……」
「うん……」
永児も攫われた少女を思い出し、俯いた。
「どうした、少年。碧玉が泣くとは、詩人のような説法だな」
驚く少年らの当前に、雪をまぶしたような銀髪の男が立っていた。
髪だけ見れば、景景の太父のような年齢の男だが、声からすると、もっと若い。目の色も薄く、鹿の毛色のようだ。棠梨の者ではないと思って見てみれば、衣装も宮都の南市で見た、北方のものに似ていた。
方才、酒楼から出て来たのか、持っている包みからは肉と葱の串焼きの、まだ焦げる匂いがしていた。
「あの、別に、詩じゃない……あっ、いないっ」
匂いに気を取られ、ふたりとも袖から手を離してしまったらしく、香試は消えていた。
「少年が捕まえていた冶郎……という説法でいいのかな、彼は、そこの酒楼に入っていったぞ」
男が示したのは、出て来たばかりの酒楼だった。
「ええっ? 景景、あそこに香料ってあると思う?」
「あっても、調味品だよ……」
ふたりが思い出したのは、かつて納女考試のために、香りのあるものといえば、葱までが宮都から消えた日のこと。一時は、味の不妙な菜ばかりが出された、まさに不味道だった刻である。
「不妙だよ、あいつ、乱子を起こすって。止めないと……」
「でも、どうしたらいいの」
「香りの強いものが好きなのか、あの冶郎は」
「まあ……強いというか、そのもの……?」
「だったら、酒楼の後方の路を入ると、糧店がある。もっと進むと市もあるよ」
「あ、ありがとうございますっ」
「良い子だ」
男がにこりと笑うと、笑窩ができた。
小児扱いは反駁したかったものの、景景は永児を肘でつつき、男に頭を下げた。
まずは、急ぎ重明を捕まえなくてはならない。それから、糧店でも市にでも、連れて行けば良い。
少年らに課された任は、肉串を気にすることではなく、香試について歩くことなのだ。
***
香試らが都を騒がせていることも知らず、韶華は査牙しい双眸を持った武人とともに、ある館第を訪ねていた。
白英という都に、宮都と似たところはない。
しかし韶華は、片書を手に目的の地を探しつつ、来たこともない場であるのに、街に親しみが湧くのを、古怪に思った。
やがて、そう感じる理由が分かる。
目からではない。鼻先からだった。甘棠では、とうに散ってしまった花が、甘い香りを放ちながら、まだ咲き残っている。その香りが、韶華を白い花の咲いていた日に、引き戻していたのだ。
小弱な幼子が、姉たちの拾った花を手に乗せて喜んだ他日、その時は納女考試もクシも知らず、幼子は明天生きられるかだけを考えていた。
今は――命運の弱さを気にしなくて良くなった今ならば、香り立つ花を、もっと楽しめるだろう。
ここより北にあるクシならば、未だ咲き乱れる棠梨の白い花を、見られるかもしれない。
ならば瑠璃は、少しは寂しくないだろうか。
知らぬ遠い地で、知らぬひとの間にいても、よく知る花が、小さな手の側で咲いていてくれたなら。
拳を握った韶華の旁で、静影が大息まじりに呟いた。
「再、この花に見えるとは思わなかったな。美観も極まれり、といった様態だ」
峻宇に向かう小さい路の両辺に、棠梨の木は植えられている。路は細長く続き、先を見ることはできない。馬銀花の生家は、かなりの寛度があるらしい。
「銀花さんって、すごい大家の令媛なんだねえ……それが、後宮の女兵になろうとは。どういう心境なん……ええと、まあ」
驚きの口気から一転、呑呑吐吐になる韶華を見て、静影は苦笑した。
「おまえも似たようなものだろうが。一人の妃の妹になる者が、武挙を狙ってみたり、上学する大学で騒ぎを起こしたり……」
「あのですね、わたしのことではなくて……まあいいや」
文官の名門である静影が、武人になったことを訊笑したように聞こえるかと思ったのだが、そんなことはなかったようだ。
と、前方に牌楼が見えた。守護獣や宝玉で飾り立てられ、馬家の昌盛を誇らしげに示している。
牌楼の後方には、視線を遮るための影壁があったが、その旁をするりと抜けて、ひとが現れた。使丁である。
「令女、お待ちしておりました。こちらにどうぞ」
使丁は牌楼の内には向導せず、路の旁を示した。どうやら、潅木をかき分けて行かねばならないらしい。
銀花からの封信は届いているようだが、歓迎されていないのか、と驚く韶華に、使丁は慌てたように解説を加えた。
「こちらは、令媛の許婚者ジャイの房室です。令媛が、できるだけ機密にと願っておりますので、こちらが良いと」
韶華はそういうことかと頷き、潅木の内に入った。
続く静影からは、不審を含ませた気息が発せられている。
聞き慣れない男の名が、クシのものであると知らなければ、そしてクシの訂婚までの法子を知らなければ、主房から外れて住むのを古怪に思うに違いない。
クシでは、男は妻を得るため、婚家に二から三年、下僕として仕える。
努めを終えて無事、丈夫にすると主に認められたなら、装送と聘物とを婚家より得て、ようやく家を構えることが許される。
銀花の許婚者は、仕えている正中ということになるが、連天投げ飛ばされているという話からすると、先は長そうである。
「まあでも……うちの白屋よりは気派だよねえ?」
静影は応じなかった。厩かと思うような大きな棚子を見て、なにを言えば良いのか、分からなかったようだ。
「歓迎光臨、我が最愛の友ですね?」
朗らかな声調で、身高のある男が出て来た。
「私は、ジャイ。愛がために、難事を越えんと遥か北の地より参った者です」
ジャイを見て、韶華は父親が北方の者であると、改めて感じた。
白浄に、淡い輝きを放つ赤髪と褐色の眸。王族である射刃もまた、眩しいくらい色の薄い男だった。
父親の灰色に見える髪は、若い時であれば艶のある銀色だっだろうし、薄灰の目は、北の白天の柔らかな光でも、透き通って鮮やかだったはず。
北方の徴は、父親のなかに、正しく存在していたのだ。
黙り込んだ韶華になにを思ったか、ジャイは分かりますといった頷きを返した。
「気にしておられるのかもしれませんね。ええ、私にも家名はあります。ですが、我が最愛を得るまでは、使わないと決めているのですよ……貴兄は……徐将軍ですね。それから小妹が、韶華小姐……激烈高強師長の愛児! 我が最愛から聞いています。私の故里について、訊きたいことがあるとか」
「激烈高強師長……」
応じるべきは、クシについてなのだが、まずはそこが気になった。
「あの……ジャイ大人は、銀花さんが後宮でなにをしているのか、知っているのですか」
「美人を守ります」
その認識は正しいが、なにかが違う。
「そもそも、銀花さんが宮都で行を得ると、白英には、戻らないことになりますけど……?」
「ええ。訂婚が許されたら、甘棠に住む打算です。馬家は、亡き宗子の息子が継ぎますし、我が最愛も私も、ずっと宮都に憧れておりましたから」
ジャイの輝く目に郷里を厭う気息はないので、一心に、都へ行きたいだけなのだろう。
ということにして、韶華は話題をクシの王族へと向けた。
棠梨の宮城に入って来る話はともかく、クシの者の認識が、どういうものであるかが、知りたかった。
「下次の王になるのは、今の王太子ではないだろう……と言われているけど」
「そうですね……フジュニ様はピアグダン王の実弟で、お年を召していらっしゃいますから、王となったとしても、すぐに次を考えなければなりません。ですが」
「そのひとの次となるべき王太子が、決まりそうもない……って聞いた。それってクシでは、知られていることなのかな」
ジャイは隠すことなく頷いた。
「みな、知っています。元より、フジュニ様が王太子となることさえ、暫旦の施行でしたから。彼は、王となる質を持った御子を……持てなかったので」
低声になるのを見ると、王となる質、つまり碧眼について、クシの民は、神聖さを認めているということだ。
そして王太子フジュニの息子を、碧眼を持たなかっただけで王族と認めなかったのは、王族だけではないということでもある。
「分かりやすい質に拘るのは良いけど、そんなの瞬息に、碧眼の王子が生まれなくなって、僵するでしょうに。よく続いたねえ」
「そのために、妾がいたのですが……千古は、碧眼でさえあれば、王位に就けたと聞きます……」
「今は異なるってことね」
同意からくる大息を吐いたのは、ジャイだけではなく、静影もだった。
「なんで静影まで」
「どこの国も同じだ。自身を伏せた男に仕えることは認めても、その子どもには、なんらかの意思を見出せなければ、主にしたくはないものだ。それはやがて、開首の掟を歪めてしまう。棠梨は、皇后だけが正妻だから、嬪妾から生まれた皇子は、年齢だけが次序となるはずだった。だが……」
静影の言いたいことが、韶華に伝わる。
大約では、長輩から次序の通りに、皇子たちは歴代の皇帝になっている。ただしそれは、母親の位が高い者が、低い者を押し退けて為した後果である。皇子のなかには、刺行という紛事で消えた者や、醜聞で位に就くことを辞した者も多い。
後台の力によって、次序が変わるのは、珍しいことではない。
おそらく、静影が真に言いたいのは、その後台による歪みの部分だ。
「小妹……クシの庶人でも、母親の料を重んじるものです。王たる質が、より高貴な血によって生まれることを条件としても、古怪ではありません。ただ、それこそが今の……セレウ、ロホンの両王子の、どちらを王太子とするかの障りとなっているのですが」
「ふたりともお母さんが妾なの? そういえば、あのひとたちの母親の名って、なかったなあ?」
「ないのは、当然であろうと思います。私……クシの民も知りません」
「ええー……もしかして、神聖さをつけようとして、川から流れてきた果子から、生まれたことにしてる?」
「不成ですよ、そんなのその場で食べてしまいますって。ではなくて、王子たちの母が誰か、知らされていないのです。でも……私たちも、知りたいという気にはなれなかったのは、真です。正妃であるという風聞だけで充分だった。フジュニ様の息子、それから前王の王子の生母の扱いが……聞くに耐えないものであったので」
ジャイは瞬刻、遠いものを見る目をした。
「これは、褒められた話では、ありません。前王は……正妃を廃し、別の正妃を得ました。棠梨でいえば、退婚でしょうか。ですがクシには、得た妻を廃する、などという掟はありません。前王は、ナサルニ・ニョンジャンを得るためだけに、クシの天地の、どこを探しても不在な規定をつくり出したのです」
那紗流尼娘江。そんな字があったなあ、と、韶華も遠い目をした。
「ありもしない規定を作った、その理由は?」
静影が問う。支配者の横逸とはいえ、妃の位から下ろしただけで済ませたのは、留情である。つまりは、そうしなければならない理由が、あったのだ。
ジャイは少し迷ってから、話を続けた。
「前王には、碧眼ではありませんが、正妃との間に息子がいました。王子の位は、認められましたが……位を与える儀は、行われませんでした。それでも、王子には違いありません。王子の母を、草率に扱うわけには、いかなかったのですよ。それなりの名門の出でありましたし」
「その家からの抗拒だって、あったでしょうに。そんなに青い目が、良いの」
「王となる証ですから……ただ、前王には、拘る理由があったんですよ。弟であるオクトワ様に、ウルドゥル様がお生まれになって、全て奪われることになりかねなかった。だから新たに迎えた正妃がムドゥール様をお生みになって……危ない賭けに勝ったわけです」
「賭け?」
「前王は、オクトワ様より位の低い妃を母親としていますから、碧眼の息子がいなければ、王太子の位は望むべくもない……ムドゥール様を得て……しばらくして、王や王太子が重重と身罷り、前王が位に就いたので、多くのクシの民は諷刺を込めて、賭けと呼んでいます」
「あれ、待って。そのお妃さま変えって、まだ王子だった時にやったんだ?」
「そうですね……まだアズムーン王は健在で、ムングルクトゥの王太子と、それにフミエクトゥの元王太子も、壮健だったはずです」
王族の部分を表す長い言は、韶華の父親の片書に、当先に出てきた。
王妃から生まれた正統な血を持つ者を、アイシラクトゥ。
第几次でも、妃から生まれた血を、ムングルクトゥ。
妾妃から引き継がれる血を、フミエクトゥ。
家門の名ではないが、生まれを表す古怪な言葉をクシは使う。
「元王太子と、王太子と分けて言うのか……王太子の位とは、そこまで譲位し易いものなのか」
「それは、お父さんの片書の隅に書いてあった。妾妃の長男より、第二夫人の二男が良いんだってね。王太子の位は、わりと軽易に動くから、宮中の争いにつながり易いとか」
「片書ッ? 等等、韶華。おまえ、あれを読んだ……あれは、おまえに読ませたのか、まさか!」
武人の紫石の双眸が狼狽える様態を、初めて見たような気がした。
(あ、違うか……わたしが川に落ちた時だとか……あああええっとお)
あらぬ疑いをかけた時も、似たような貌をしていた。
韶華と静影、僅かに噛み合わない反応の間で、さらに合わない喜びをジャイが見せた。
「ああ、徐将軍もお読みになられたんですね! 陰羽先生の愛の秘事! 私も……愛好家なんですよ。今ではそうでもないのですが、かつては、棠梨の書籍をクシで手に入れるのは難しくて……それに、翻訳されるまで待つのも辛くて、私は棠梨の語言を学び始めたんです。熱心にやったので、下拙ながらも、翻訳を任されるようにまで、なりました。その稿料で白英に来て、我が最愛に出会ったのですから……私にとって陰羽先生は、月下氷人のようなものです。いつか甘棠に行ったら、簽名を頂きたい……」
ジャイの熱く語る内容の、ほとんどが韶華には意思不明瞭。静影の読む読まないの反応から、どこかに、妾妃の長男と第二夫人の二男が、愛を争う小説があるのだろう、と思う。が。
「静影は、どうしてわたしのお父さんの片書が、小説だと思うの。まるで読んではいけないような貌をするし。まあ、お父さんは作家……あれっ?」
「停、もう考えるな……」
昏く沈んだ紫石の双眸は、韶華の辿りついた答えを、正しいと表している。
静影が、韶華の父親をクシの者と考えたのは、クシの王族の知られてはいけない秘事を、棠梨で小説にしていたからである。
「ねえ……今のジャイさんの言からすると、お父さんの小説……クシに思いっきり出回ってる……ようだけど」
「ああ。方才、俺も聞いて発抖してるよ……」
「お父さん……ってあの、もしや太君が、陰羽先生……なのですか? 暢銷書作家にして、大手筆の?」
「売れてたら、杜家が貧窮っていうのも古怪だけど。それに、わたしは筆名を知らないんだ……そうなの、静影?」
「そうなのですかっ? 母親の家門がために、司命を分かたれた兄弟と、花の仙女が房中術を競う愛の秘事、禁じられた王族の愛を、濃密に描ききった艶熟女喰記、妖冶なる少女の一想が、宮中を淫らに染めおぐッ」
ジャイの口が、静影の手で塞がれた。すでに遅くはあったけれど。
短い結舌の後、伏せられていた少女の目が、武人を捉えた。
「静影、どうして錆青になってるの……?」
「いや、別に……」
「気にすることは、ないんじゃない? 官能小説を愛好してたって……わたしも、白果舎に通ってるからね、そこまで書名を言われたら、分かるよ。棠梨の成人男子で、知らない者はいないと言われる官能小説家、陰羽。古い書籍は、希覯書として扱われるから、持ち込みがあったら、老板を呼んでって言われてるんだ」
その作家は、韶華が回家すれば、書院に居たわけだが。
惑うジャイに少女の熱のない視線が向く。
「静影が言うには……お父さんの小説って、クシの王族を書いてるってことなんだけど、ここでは、それって話題になってないの?」
「固然、なってますよ?」
棠梨の武人の目が、驚きに見開かれた。
「艶熟女喰記の公主と王子が、誰を元にしているかなど、双親からしか話を聞いていない私だって、すぐに分かりました。とても感動しました! 女体化してますがこれが……私たち、庶人には語られなかった真実なのだと……!」
「女……体?」
「ジャイ殿、それについて俺も知ったばかりなのだが、二十年ほど前のクシの乱子は、庶人にどう伝わっているのだろうか」
「ジャイとお呼び下さい、徐将軍。あれを乱子というのは難しいです。庶人には、ただ、王太子ウルドゥル様と堂弟ムドゥール様が亡くなったとしか教えられていません。のちに王宮が流したらしい風聞で、叛逆者として処死したというものがありましたが、誰も信じなかったそうです」
ウルドゥルが、天空神の降臨とまで言われ、民に慕われていたと知らなくても、王太子が叛逆する意思は、あまりない。
位を奪われそうになったなら、あり得なくもないが、ムドゥール――前王が妃を変えてまで得たかった碧眼の息子まで、同じく処死では条理が通らない。
前王が亡くなった時、すでにムドゥールは二十才。王太子になろうと思うなら、そうと言うだけで願いは叶っただろう。それをしなかったからこそ、ウルドゥルが王太子のままだったのだ。
「あれを読んで、みな、理解したのです。彼らの間に、愛があったのなら、密かに死を選ばされたのも分かります……」
「あの、ジャイさん……わたし、ひとつ訊いておこうかなって、思うのですが……神異様も、天龍様も、男子ですよね? それって、クシでは……」
「許されなくても、愛に違いはありません! 艶熟女喰記の内で、公主は言うのです。男であれば逃ぐうぐ」
「内容は解説しなくて良い」
静影の眼晴に焦慮があるのは、珍しい情態だった。
否、瑠璃といると、よくそんな貌をしている。禁泄漏と厳しく言いつけながら。
「って、まさか瑠璃、お父さんが官能小説家って、知ってるっ?」
「それはその……」
紫石の宙に揺れる様態を見れば、答えは決まりだ。
「お父さん……! 不成だって叱らないと! ジャイさん、わたし戻りますけど、口訳のお願いは、また改めて」
「ここに! ここにいらしてるのですかっ、陰羽先生は! 会いたい……! お願いです、会わせて下さい! 会わせて頂けたら、口訳でも深間でも、なんでも致します!」
「官能小説家に会うだけで、百年《いっしょう》を不成にしないで下さいよ! 下次、会わせますから!」
好好、好好と踊るジャイ。
浮かれた人物に見えても、信用は、できるはずである。銀花のために、そう思いたい。
「韶華……いいのか?」
「いいもなにも、どう隠せと……」
大息を吐く韶華に、静影も大息で同意してみせた。
ふと視線を感じ、旁を見ると、零食を持って来た使丁が、怪しげな踊りに興じるジャイに怯え、立ち竦んでいた。




