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離棠赴白之一

 皇帝が夏令(なつ)の行幸に赴けば、宮城は暇日(きゅうじつ)となったようなもの。万世(たみ)もまた、静かな刻を過ごすのが、往年(れいねん)のことであった。

 ただ、今年に限っては、静かとは言いがたい。

 宮城では、皇帝の一行が離宮より戻って来たかと思うと、勅命の下、馬上(さっそく)、クシへと使節が出門した。

 行幸の間は政をしない、という習いを破り、突如として使節を送ったことは、騒がれても良かった。

 しかし、顕官(かんりょう)たちの言は、宮都に伝わらなかった。庶人(しょみん)は、北方の妖が攻めてきたとの風聞で、誰もが心煩し(心なやませ)ていたのである。

 もっとも、万世(たみ)が妖怪大戦争を恐れたというのは、太早計(はやがてん)であろう。

 呪いや妖怪についての書籍が搶手(大売れ)する一面(いっぽう)、護符を求め、祖廟参りをする者も増えた。回家(きたく)するころには、買い込んだもので荷が満たされ、その様態(ようす)は遊山となんら変わりがない。怯えつつも、充分に楽しんでいたのである。

 棠梨(トウリ)において、平静であったのは、国へ戻るクシの使節だけ――

 だが、彼らもまた、通常の帰路とはならなかった。


***



 宮都甘棠(カントウ)紫陌(郊外)千古(センコ)の街の小さな灯りが現れ、射刃(セレウ)は青い目を細めた。

 水路を使った去路(来たみち)辿(たど)り、帰路につくはずだったものが、車輅(ばしゃ)で行くことになったので、ほぼ一天(いちにち)をかけて移動している。

 深夜も過ぎ、半ばの月亮(つき)が沈んだあとになって、やっと着くと思うと、忘れていた疲れが出てきてしまう。

 固然(もちろん)、武人である射刃(セレウ)にとって、二天(ふつか)くらい馬を走らせ続けたところで、疲れなど知れている。

 それが一天でこれほど疲れるのは、防身(ガード)と称して随行する黒衣の軍が、局促(気詰まり)だったからにほかならない。

 彼らは、全く急ぐ様態(ようす)を見せなかった。中途で皇帝の一行と別れたあとは、急ぐことができたにも(かかわ)らず、進みを変えなかったのである。

 あからさまな延滞に理由があることを、射刃(セレウ)は知っている。

 ただし知らない使節の者は、進みの遅さに焦れていた。()かすべきだと言う者も現れたが、黒衣の男たちに舌争をしかけようとはしなかった。

 語言(ことば)が分からなかった、というよりも、麻煩(めんどう)だったのだ。

 クシでは、武人は仕える者と考えられている。貴人たちは、黒衣の武人たちに、どうするかを尋ねられてからしか、答えを返すつもりはなかったのだ。

 愚かではあるが、封口(ちんもく)好在であ(つごう良か)ったともいえる。遅くなる理由は、射刃(セレウ)だけが知っていれば良い。

 黒衣の軍のひとりが、先頭を行くクシの下人(使用人)に、なにかをささやいた。

 一瞬、驚いた表情をした理由は、やがて射刃(セレウ)にも伝わる。

 深夜ゆえに、千古の門を開けるまで、時がかかるというのだ。

 これには射刃(セレウ)了了(とうとう)大息(ためいき)(こら)えきれなくなった。

 棠梨は北のクシより暑く、不快な湿りが多い。それでも、(きぬ)床単(シーツ)を広げた豪華な寝台は故郷を凌ぐ快さで、早く休みたいと思う心境(きもち)は、偽らざるものであったのだ。

 とはいえ、ここは棠梨。

 殊方(異国)の者は、まだ待たされるという事実を、受け入れるしかなかった。


***



 クシに遅れを強いた一面、韶華(ショウカ)たちは急がねばならなかった。

 香試人士(調香師たち)戎衣(ぶそうの)武人。そこに僅かな下人を従えた使節の一行は、平明(あけがた)に甘棠を出てのち、中午(ひるごろ)には千古に着いた。

 移動の速さだけを考えた編組(組み合わせ)ゆえに、為せたことかもしれない。

 高級官吏のわりに香試は頑強なようで、急ぐ安車(ほろばしゃ)がどれだけ荒れようとも、()を巻き直せとは言わなかった。常常(ときどき)、山野を通り過ぎるなかで、なにを嗅ぎ取ったのか、採取させろと騒ぐだけである。

 だから半路(道中)で武人たちが関心し(気遣っ)たのは、韶華たちが乗る安車だけだった。

(関心(気に)してるというか、可怕し(こわがっ)ているというか……)

 (ようじ)があって韶華が降りた際に、車篷(ほろ)に護符が貼りつけてあるのか見えた。内にいる者を封じたかったらしい。

 内側の、灰色の影を。

 気息(けはい)はなくとも、ないものとして扱うには、その存在は大きすぎた。女官(じょかん)扮装(よそおい)が、無用に精彩な(似合った)――韶華の父親は、武人たちに、翠帳の閨女(深窓の令嬢)ではなく、子への情に凝り固まった女怪、痩せ女と思われたのである。

 分からないでもないが、護符を見ると、なんとも言えない心境になる。

 活力(いのち)を削げ落とした、元美貌の中年男子。季児(末っ子)への思いを眼底に(たぎ)らせ、唇に髪の束を噛みしめる姿は、どこからどう見ても痩せ女。

 女人ではないと露見させないために、(かお)を隠して安車に乗せたのが、悪かったのか、料想(そうぞう)を煽ってしまったのか。

 大息を吐いた韶華を、呼ぶ声があった。

「なにかあったの?」

「出門まで、安車で待って頂くはずでしたが……」

 下人(したばたらき)は、同じように待たされている車輅(ばしゃ)の向こうに視線を向けた。

「クシの使節人士(使者の方々)は、起床されたばかりのようで……すぐに上路(でかける)とはいかないそうです。ですので、湯薬をお出しせよと」

「もう中午(おひる)なのに、まだ寝てたの」

「千古にお着きになられたのは、老早(早朝)だそうです」

 そういうことかと韶華は頷いた。

 棠梨の香使節をクシの使節に追いつかせるため、クシは、故意に進みを遅くさせられている。

 韶華たちが間に合ったということは、彼らが眠りについたのは、日も昇りきってからに違いない。眠りが深くなったと思えば、叩き起こされるのだから、疲れも取れまい。

「じゃあ、湯薬を準備します……ところで呼ばれたのは、わたしだけですか」

 下人の眉が、僅かに下がる。

「香試人士(かたがた)は、薬師ではないからと申しまして、()副手を推挙なさいました」

「そうだろうと思った! では、一頓醒来(ガツンとキメる)配方(ちょうごう)しましょう! 我が師、王重明(オウ・チョウメイ)の名で!」

 薬名の不穏さを労心(しんぱい)するのは、下人の本分(しょくむ)ではないので、そのまま韶華は次舎(しゅくしゃ)向導(あんない)された。

 騒ぎを知って、香使節の防護である静影(セイエイ)が現れたのは、射刃(セレウ)が口許を押さえてからになった。

「韶華、なにを飲ませたッ」

睡醒(めざめ)にとても良く効く湯薬(せんじぐすり)でございます」

「薬? 向こうの室内でも、みな、口許を押さえて震えているぞ。(チン毒)だって、ここまで()くものか」

 震える白い手が、静影の肩を掴んだ。

不要担心(ドントウォリー)……没問題(ノープロブレム)……」

 淡い髪色を前額(ひたい)に乱し、昏い碧眼を苦しそうに瞬かせ、白浄(白い肌)を青ざめさせた美貌がささやく。

 北方に棲むという雪人(イエティ)か、男と見るや、凍える息を吹きかける雪精霊(ゆきおんな)を思わせる様態(さま)は、韶華と静影に、一門(いちぞく)の血というものは、不決(けっして)消えないのだと教えた。

 棠梨の女妖、痩せ女が、クシの王族の血を引いていることは不錯である(まちがいない)

(妖怪大戦争の評も、正当なのかもね……)

 遠いクシの地で、なにが起こるのかを考えつつ、韶華は射刃(セレウ)杯子(コップ)に、(ぬる)い水を注いだ。

「感謝する……」

 男は一口気(いっき)に呑み込み、大息を吐く。平静を取り戻してみると、睡眠不足の気息(けはい)は一片も残っていなかった。

「預定を遅れさせて、すまない。使節として来ているのは貴人で、軍の野営のようには動けない。着いたのなら、さっさと寝てしまえばいいものを、温泉はないのかと、騒ぎまでして……この(ざま)だ」

「遅到も狙いではあったので、謝られると困ります。温泉は、どこにでもあるわけではありませんが、中意し(気にいっ)て頂けたようで、光栄です」

「あの者たちも、王族のように振るまえるのは今だけだから、放縦(わがまま)なのだろう」

 射刃(セレウ)訊笑(ひにく)の含まれた言に、静影は結舌(ちんもく)(こた)えた。

(ジョ)将軍、車輅の準備は終わりました。使節人士に、お乗り頂ければ、出門が可能です」

 樓道(ろうか)から介士(へいし)の声がかかる。静影は知道了(わかった)と返し、射刃(セレウ)拱手(あいさつ)をした。

「千古をこれより出ますと、白棠(ハクトウ)の都白英(ハクエイ)に着くのは、深夜になると思われます。以前より急ぎますゆえ、路面の荒れが不快となるやもしれません。労苦をかけることを、お許し頂きたい」

「そうか」

「白英は、すでに通った街とお聞きしましたが、去路(来たみち)と異なり、都中(まちなか)次舎(やど)を準備致しました。澡堂(ふろ)には温泉を備えてありますから、休むに難はないかと」

 分かった、と射刃(セレウ)が答えるのを、静影は待った。

 しかし言が返ってこない。貌を上げると、クシの男の碧眼は呆れたように、少女と武人の上を往来し(行き交っ)ていた。

射刃(セレウ)王子?」

「ああ、いや解説が長……正確だと思って。平素からこうなのか?」

清楚に(はっきり)言っていいんですよ? 話が長いって。静影は武官ですが、徐家は文官の家世(いえがら)なもので、煩苛な(こうるさい)までに、冗繁な(くどい)んです」

 韶華が呟くと、射刃(セレウ)は軽く笑った。

「変わった男だな。権威を後台(うしろだて)にする位を選ばないとは」

 瞬刻、男がなにを言っているのか、韶華には分からなかった。武官も充分に権威を後面(うしろ)にしている。

 韶華の古怪(ふしぎ)そうな表情を見て、クシの王族は(また)、笑った。

「知らないか……クシでは、武人の位は低く見られる。(ボアナイ)の手足となり、使われるだけの者だからだ。だが、クシの武人がいなければ、王は権威を使えない……と、いうことでもある」

 だから射刃(セレウ)は、武人となったのだろう。

 王子(ナーニー)の位は得ていても、王太子(ナーアガー)とは認められにくい彼の処境(たちば)は、彼を考えさせたに違いない。すなわち、王となれないのなら、権威に最も近い位を選ぶべきだと。

 韶華は、クシの王位の情形(ありさま)の難しさを思った。棠梨とて、容易とは言えないけれど、文武は皇帝を支える縦横として等しく認められている。

(もうひとりの王子、若紅(ロホン)は、どう考えてるのかなあ……)

 王族の名冊(めいぼ)には、執務官と書かれていた。

 それがどんな位であろうと、幼い子を攫う法子(ほうほう)を選ぶ者に、正しい道を取ることは難しいように思えた。

 静影の主見(考え)も、紫石(するどい目)の強い輝きから韶華と同じだと告げていた。

「早く瑠璃(ルリ)を迎えに行かないとね」

「ああ、きっと待ってる」

 千古という、古さを表す名の街のひとびとは、香使節が着いて一刻もたたないうちに、一行の出門を見送ることとなった。

 ただし、随行していたはずの黒衣の軍が、消えたことに気づいた者は、あまりいなかった。


***



 白英までの半路(とちゅう)第几次(なんどめ)かの休みに入り、王重明が韶華の安車(ほろばしゃ)まで来て尋ねた。

「クシの貴人が静かになっているのだが……」

「静かと言われましても、わたしの安車からは離れてますし、うるさかったことも知らないんですけど」

 事由(りゆう)送料(よそう)できるものの、韶華は知らない模倣(ふり)で首を傾げた。

 さらに、安車の中にまで聞こえるよう、故意に声を大きくする。重明の到来を、父親に伝えるためだ。

「おまえまで、騒ぐことはないだろう。私も、うるさかったと伝え聞いただけだ。我が車輅からは近いので、耐えなくてはと思っていたのに、静かで驚いたのだ」

「寝てるんじゃないですか」

「おまえが睡醒(めざめ)の湯薬を出しただろうがッ」

 韶華は成心(わざと)らしく、肩を(すく)めてみせた。

直率(しょうじき)に言えばいいのに。つまり(オウ)先生(さん)は、呑ませたものの処方が知りたいんですね?」

愚人(おろか)だなッ。私は吐く息で香りが分かる。本来なら、訊くまでもないッ。だが、クシの者たちが結舌(ちんもく)しているから……」

 ひどく悔しげに重明は呟いた。

龍蒿(タラゴン)は分かったが、桔子(みかん)……いや、柳丁(オレンジ)か? 羅勒(バジル)もあるような……紫鳳凰(しそ)らしきものも、感じた」

 それだけ分かれば、充分ではないかとも思う。とはいえ、あと少しというところが、気になるのだろう。

紫鳳凰(しそ)というか、香茶菜(ヤマハッカ)ですね。それから、菜薊(アーティチョーク)を主にして煮立てました」

「……苦そうだな?」

「そりゃまあ、一頓醒来す(ガツンとキメ)るわけですから」

 射刃(セレウ)の悶える様態からすると、醒来す(キメ)るどころではないようだが。

「しかし、香料として香茶菜は持って来ていないぞ。路傍にでもあったのか」

 鋭く辺りを見回す重明を見ながら、おや、と韶華は疑問を持った。

 自身(じぶん)のために持って来たものもあるが、香茶菜は、輜車(にぐるま)にあった(はこ)の中のものを使っている。香料ばかりではなく、薬草も揃ってるなあ、と考えたから、よく覚えている。

 韶華の不審を見て、重明も首を傾げた。

同事(どうりょう)が、備用(よび)で持ってこさせたのだろうか?」

「王先生に報告しないなんて、あるかな。そういえば、あれ……西街(セイガイ)でよく見る函だった」

「西街の薬肆(くすりや)で買い求めたものなら、香茶菜は、珍しくもなかろう」

 韶華が不妙(おかしい)と思うのは、そこではないが、(ことば)にはできなかった。

「それにしても、私もまだ芳香要術を全て読んでいないのだ。健康の条目(こうもく)は、香ではないので、試さずにいたが……睡醒の処方が、かように(かんば)しいものであるなら、惜しいことをした。水菫(ミズスミレ)ならば、もっと効くのではないかと思考が広がる……! そうだ、取りに行こう!」

「そんな暇ないですからっ」

 韶華は男の袖を慌てて掴み、介士(へいし)を呼んだ。

 介士たちはすぐに来て、なにも言わずに重明を回収した。慣れたものである。

「韶華……誰なんだい、今の変態は……」

 車篷(ほろ)空子(すきま)から、痩せ女が昏い目を覗かせた。

「おまえを煩わせるなんて、水菫を探して、沼に落ちればいいのに」

(ほう)っておいてあげて。もう深い沼というか、深淵に浸かっているようなものだから。あれが戻ったら、そろそろ出ると思うよ。静かにね」

 言って、韶華も安車に乗り込む。

 すでに照例条理(ルーチン)となっていたが、香試たちは、休みを取る毎に、誰かがどこかへ採取に行こうとした。付き従う介士たちも、初めは許していたものの、なかなか戻らない彼らに焦れて、やがて車輅から離れることを禁じた。

 なにしろ、香試の香料への固執(しゅうねん)は恐ろしく、隠れて採取に行こうとするだけでなく、走行の正中(さなか)に、車輅から飛び降りさえした。

 香試たちの乗る(くるま)は、車篷(ほろ)を封じられるまでになったが、そのころには、必要なくなっていた。可心し(気にいっ)たものが採れたらしく、全く出て来なくなったのである。

「あんまり白英に着くのが、遅くならないといいな。あ、動き出した」

 荒れた路面のわりに、安車は易易と進む。

 韶華が今、乗っている安車は、離宮に向かった時のものとは、かなり異なっている。紅人(こまづかい)から香試の副手(アシスタント)に位が上がったので、飾りの多い、気派(りっぱ)な造りのものを使わせてもらっているのだ。

「お父さんは、疲れてない?」

「少しね。でも、天が私の(のろ)いを聞き届けるまで、疲れたなどと言っていられないから」

 天の神も、心煩(たいへん)なことである。

「それから韶華……私が思い出せるものは、書いてみたけれど、読めるだろうか」

結実(だいじょうぶ)、お父さんの字は、読みやすいよ……って、これは」

 受け取った片書(かきつけ)の束を見て、韶華は口を大きく開けた。

 字は読める。読めはする。難はそこではなく、クシの字眼(ことばづかい)が、棠梨の字に置き換えられていることだ。

「こ……この那尼って、もしかして王子(ナーニー)を表してるっ?」

「やはり分かりにくいか……棠梨の言に、変えられるものもあるのだけれど、対する字句のないものもあって」

「うん、それは分かるけども例えばこれは……多半(たぶん)、碧眼でいいと思うんだ」

 特に重んじられる意思(いみ)を持つ青い目。であると思われるものに、那紗流尼娘江と字が当てられている。

「お父さんの名は史雲(シウン)……字が当てやすくて良かったね。射刃(シャゥレン)っていうのなんか、苦しすぎるよ」

「私の名をつけたのは父で……クシに来る前に、棠梨にも居たんだよ。だから先に覚えたのは棠梨の語言(げんご)だった。意思(いみ)は……知っているかい?」

「クシでは、太陽(シウン)

「そう。棠梨の音に似ていたそれを、父は、当先(まっさき)にクシで覚えた」

 クシでは、北の地を輝かせる力あるものとしての音が、棠梨では、天を流れて水の豊さを呼ぶものの音となる。そして生地では、愛しいものという意思(いみ)の言に、少しだけ似ていたという。

「名にいくつもの意思(いみ)を見出す、古怪(へん)なひとだった……」

「そこを古怪(へん)って言っちゃ、不成(ダメ)だと思う」

 あまり言いたくはないが、かなり(ねじ)けた反応である。父と子の間に、なにがあったのか、聞けば追悔(こうかい)するかもしれない。

(あれか? 痩せ女の如き父の愛が、重かったとか?)

 韶華に似ている女妖痩せ女を思い浮かべるのは、辛いものがあった。

「まあいいや……会うことはないだろうし。これは白英に着いたら、読むよ。字を読みかえるの労苦だから」

「……馬が」

 車篷(ほろ)の向こうに灰色の目を向けて、父親が呟いた。

「誰かが、戻って行ったようだね……」

 良く聞き取れたなあと思う間もなく、馬の(いなな)きと近づく風色(けはい)があった。

「韶華、多事(めんどうごと)があって、少しばかり車輅を止める……来てくれないか」

 静影の石を呑み込んだような声がした。

 真卒(まじめ)な武人が、明白に事実を言わないとなれば、欠佳(いや)な預感しかない。韶華は止まるや否や、安車を降りた。

「今、晨風(シンプウ)を迎えに行かせたのだが……」

「えっ? ここに来てるの、晨晨(ハヤブサくん)。禁……そっちの行は、いいの?」

「彼の本分(しょくむ)と係わりなく、自身(じぶん)から来たいと強く願った。だから俺も許した。それはともかく、こっちだ」

 静影とともに後方に向かうと、小さな(にぐるま)の周りを甲士(へいし)が取り囲んでいた。

 小児(こども)の泣く声が微かに聞こえる。それだけで、なにが起こったのか、送料(よそう)がついた。

 ()は、香料を運ぶために準備された車だ。そして、重明の覚えのない函、西街で良く見る組み立てる函が、乗せられていたものである。

 函は容量の大きさのわりに軽く、小児(こども)でも運べる。底を両重(にじゅう)にするための板もあり、その下に入れば、小児のふたりくらいは隠れられるだろう。

「もしかして、景景(ケイケイ)? あの子、ついて来ちゃったの?」

「ああ……上次(さっき)の休みに景景が降りて、戻って来ないうちに出てしまったらしい」

「戻って来ない景景って、じゃあ今、泣いてるのは」

 輜の(そば)に行くと、領子(えり)を車兵に掴まれ、泣いている永児(エイジ)がいた。

「永児! ふたりして来たのっ?」

 韶華を見て、永児はあふれ出る涙を手で拭い、頷いた。

 苦りきった紫石の双眸が、車兵に小児を放つよう命じる。韶華の様態で、少なくとも(みぶん)は、明らかになった。ならばもう、(とら)えている必要はない。

 逃げるでもなく(たたず)む、幼い少年の目を韶華は覗き込んだ。

「誰がこんなこと考えたの」

「ぼく、が。瑠璃が心事(しんぱい)で……景景は、ひとりで(まぎ)れる打算(よてい)でいて、それにぼくも混ぜてって言ったけど、ふたりは不成(むり)だからって断られて、それなら家に函があるから、それで行こうって……」

 小児の浅薄な考えも、財によって加強されれば可行となる(ゴーサインが出る)

 呆れると同時に、大胆な行いに驚きもする。幼さゆえに、好きな子を欺負(いじめ)てしまうだけで、真的に(ほんとう)相好(なかよく)したいことが、良く分かる。

 しかし。

「ふたりとも、黙って出て来たんだよね……」

 長い睫毛に涙を溜めて、幼い少年はごめんなさいと呟いた。

 けれど、謝るべきは韶華だ。瑠璃を迎えに行くと、彼らの当前(めのまえ)で言わなければ、宗子(あとつぎ)が消え、紙片のように細い(チョウ)太太(ふじん)は泣かずに済んだはず。素では草率(ぞんざい)に扱っているけれど、景景を脈脈と(愛しげに)見つめる母親を、傷つけることはなかったのである。

 乗便(ついで)に、宮都甘棠(カントウ)では、さらに北の怪に攫われた子どもが出たと風聞になっていることだろう。

「着くまで、隠れてるはずだったんだけど、景景が水が飲みたいって降りたんだ。でも来ないうちに、動き出しちゃって……だから……もう……」

「見つけてもらえるように、騒ぎ出したわけね」

 父親が聞きつけた馬の脚歩声(あしおと)は、路傍に残された景景を迎えに行く、晨風の出すものだったということだ。

 不久(ほどなく)灰心(しょんぼり)した景景を乗せて、晨風が戻って来た。

「景景!」

 友の無事と、見つかった焦慮(ふあん)とで、幼い少年たちは泣いていた。

「このまま連れて行きましょう、徐将軍。小児(こども)ですから、防身(つきそい)なしでは送り返せませんし」

「そうだ……」

「徐将軍ッ! 非常困難です(エマージェンシー)、香試の一部が散開し(どこかに行っ)てますッ……!」

 後面の草叢で、戻って下さい採取させてくれえという叫びが同時に上がる。

 不意に休みとなった空子(すき)を、香試たちは放過し(みのがさ)なかったようだ。

 棠梨の将の端整な面貌が、頭痛を堪えて歪んだ。

立即(すぐさま)、全てまとめて元の車輅に叩き込め!」

 わらわらと散る者を集める最中、静影が、乗せろと言を改めることは、一次(いちど)もなかった。


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