敬請持重之一
皇帝の言は、天より与えられるものに等しい。
それは神意を読み取り、棠梨の万世を導く任を、皇帝が負っているという意思であって、なにもかも任性にできるわけではない。
つまり、私下な一想のためには、皇帝といえども借口をひねり出さねばならないのである。
「それがどうして、温泉で松気することになるんです!」
水芳宮の大殿の内、錦香殿の一室で、責める声が皇帝の耳を打った。
声は侍衛の将、徐静影のものである。抑えてはいるが、提審でもしているかのよう。主に対しても容赦はない。
なんとか支吾そうとする弄月だが、紫石で睨まれて逃路を失った。
「おまえも見ただろう。キュウ、いや、クシの使節に碧眼が混じっていたのを! あれをもってして、クシは王の証とする。つまり、彼は王族だ」
「我が棠梨の一人のために、送られてきた使節です。王族のひとりやふたり、来たところで、なんだというのですか」
とは言うものの、弄月の示さんとするものは、静影にも分かっている。
王の治める国から来る使節に、王族が加わっているならば、その者が最も高位と考えるものだ。なのに、長として名を告げた男は、碧眼の王族ではなかった。
王となり得る者を使節に入れながら、従卒のように見せる意思が分からない。彼らの居心を怪しみ、探ろうとするのも、当然ではある。
「呂宏達の報告があったから、驚かずには済んだが……船の上でも、まるで爪牙の如き情態だった。余の前からは、消えるに徹していた」
「では、そのように扱うべきなのでしょう。王族ではなく」
静影は乗船していなかったため、碧眼の男の動静は知らない。
だが、弄月の目を静影は信じている。
戯れに生まれ、偽りばかりの宮城に入った男は、たったひとつ、遺失したものを代価にして、智慧を得た。彼が消えていたというなら、醒目なことは、なにもしていなかったのだ。
「ですが、そこから温泉につながるまでが、分かりません」
「それは平易に言えば、奇計だ。どうせ向こうも、こちらが怪しんでいるのに気づいている。宴の席をどう置くのか、燕すべき対手を誰に定めているのか……棠梨の
動手を確かめようとするだろう。そこで温泉だ」
「ああ……神魂的にも、身体的にも、戎衣を解かせる打算なのですね」
得得な表情の弄月が、静影の言を是認する。
頷き返したいところだが、難点があった。
「彼らは温泉を、珍しいものとみてくれるでしょうか。それに、敵陣とまでは言わなくても、他国の中間で不備になろうとしないのでは」
「なに、温泉くらいはあるだろう。だが、儀式である温泉行幸のことまでは、知るまい。ここで温泉を楽しむには、程序がある。浴衣を着、温泉に入る。そして酒を嗜まねばならない。と言われたなら、そういうものだと思うはずだ」
「騙すわけですね、つまり」
紫石に睨まれても、弄月は揺るがない。
条理はともかく、解説としては間違っていないのである。酒や下物だけでなく、嬪妾とともに入って、楽しむことさえ許されている。
静影は、皇帝の奇計を大息で認めた。
苛立ちはある。側にいたなら静影も配合できたのだ――弄月は一人の称の通り、己だけで答を出さなくてはならなかった。皇帝の支えになれなかった将に、どのような値があるというのか。
静影に上策があったかというと、分からない。が、水芳宮の少ない管人たちを惑わせる法子は、取らなかっただろうと思う。
留神していた通り、なにかあったらしく、漠然を天生とするような太監が、鉄青な女官を連れてきた。
謁者である太監の言が終わるや否や、女官は跪いた。
「無状をお許し下さい。急ぎ申し上げたいことがございます」
「どうしたのだ」
「クシの使節人士を澡堂に向導しましたところ、ひどく……太監を忌まれまして、紅司正の機智により、紅人を置いて順利を得ましたが……大事だというのに、紛事を起こしてしまいました」
北のクシでは、太監が『ない』だけでなく、激しく忌まれている。宮城の誰もが知っていることを、離宮の者に伝え忘れていたらしい。
「行」
短い言で弄月は応じた。女官たちを脅かしてはいけない、というよりも、責を明らかにすれば、罪を被る者が出てくる。それを避けるためだ。
元より、弄月が温泉を先にと言わなければ、失事は起こらなかった。宴を先にしていれば、女官たちに使節の太監への忌避が伝わったはずである。
「嗚呼……お許しを頂けるとは思いませんでした。紅人を見て、クシの者が女人を与えられたと差錯したら……恐ろしいことです」
紅人。とは、どの紅人か。
まさかと思う棠梨の将は、皇帝ほどには表情を守れなかった。
***
多くの使丁を使う貴族でもなければ、庶人と生まれたからには、役使されることなど珍しくない。
常に窮鬼と暮らしていたような杜家であれば、打掃浴室くらい。
と、軽く考えていた韶華を迎えたのは、熱気に遮られて進深も寛度も判然としない澡堂だった。
いや、堂とはいえないかもしれない。
「天が見える……」
そこは庭院、すなわち露天浴池だった。
図片でしか知らなかった水芳宮の形を、実地に見ると、驚きを隠せない。
宮殿は、帳をかき分けるように、いくつも堂が並ぶ。 後面へと重重と現れるそれは、大堂が三、その間に挟んで小堂が二。それぞれが横に長い樓道を伸ばし、庭院を囲んでいる。
回廊によって范囲られた院子は、仙桃、香蕉、あるいは青龍といった名が付けられていた。
全て囲墻で遮ってしまうと、狭く感じるのではと思ったが、天井が澡堂だとすれば、当然である。
「みんな露天かあ……」
韶華は持っている瓢を見、江那を見た。
「なにをすればいいんでしょうね……」
「小妹、くりーんなっぷの主持はワタシたちではないそうです。だから、熱水を撒くのだとか」
「熱水ッ? まあここは南方の青草が多そうだし、良いのかな」
院子の名は、草龍。確かに、うねうねと長い細葉が豊かに繁り、龍を表していると言われたら、頷けないこともない。
南の植物と、細葉の小ささから、蛇を思い出しそうになるが。
中央を見れば、碧油油な孔雀石で范囲った池子がある。澡盆だろう。
熱水を撒けとは、ここを濡らして、より輝かせたいという意思かもしれない。
「すべって転んだら、危ないと思うんだけど」
「あの……小妹、澡堂では涓人がつくものですよね? 転んだりしないと思うのです」
「そっか、太監がつくのか。お偉いひとは、いろいろと麻煩だね。とにかく言われた通り、濡らしておこうか」
韶華が湯を撒き始めると、なにか言いたげに首を傾げていた江那も続いた。
熱に熱をかけているためか、立ち込める熱気に絶える風色はない。呼ぶ声があっても、どこからのものか、分からなかった。
「小妹、誰か呼んでます、ね?」
「そうだね。その声は……紅司正? どこにいらっしゃいますか。よく見えないもので……」
「ここですッ」
柳眉を激しく逆立てた女官が、韶華の正面に立った。
「危急につき、貴女の脳力が必要となりました。青龍に移ります」
言うが早いか、韶華の腕をつかみ、歩き出す。呆然としたまま、江那もついて行く。
(青龍って、草龍の旁辺にある庭院だったはずだけど。それに……)
北からの使節を迎え入れた、天香殿に面している。青龍は、迎賓のために設えられた露天浴池ということだ。
(思ったより早く、キュウ、じゃなかったクシのひとに会えそう)
喜びも瞬刻、韶華と江那は、熱気あふるる青龍浴池に取り残された。
そうして初めて、江那の困ったような視線が、韶華の心中に染み込んだ。
「ええと……使節の一行に、女人はいなかったよね……?」
否定は返ってこない。
となるとやはり、ここに来るのは、男子である。
「浴衣くらいは、着てるよね……?」
請うような是定が、あった。
「そもそも、わたしの脳力が要るって、なにがあったわけよ」
「誰だ」
ひどく怒った男の声が響いた。差錯なく、クシの語言である。
韶華ほど覚えていないにしても、誰何ぐらいは江那にも分かったようで、瓢を振り回しながら、同事の少女に控える動作を求めた。
急いでうつむいた視線の先、脚元に水を跳ね上げ、男が来る。動きの粗さから、心煩の深さが伝わってくるようだ。
もっともその粗暴な動きゆえに、男がまだ、クシの衣装を身に着けていることも分かる。長靴さえ、履き替えていなかった。
「女か……」
呟きに、放心しているような、困っているような、古怪な含みがある。それは、クシの男が棠梨の澡堂に惑っている、というものとは違っていた。
どこが違うのか――と考えた韶華の脳裏に、クシの習俗が閃いた。
(太監か……! それで心情不佳なんだ)
つまり、韶華に求められているのは、クシの男の太監への苛立ちを支吾せ、ということなのだ。
「あの……」
「オマエハ西方ノウマレノ者カ」
「え? えっ……と?」
棠梨でもクシでもない語言が、男の口から出て来た。
(これはあれか。もしかして……)
棠梨には珍しい髪の色の韶華と、異国情調な容貌の江那を見て、西方の語言に変えたのだ。
不料にも、好心。なかなかに出身正当。なにを言っているのか、分からないけれど。
(まあ、全く知らないわけでも、ないけどね)
思い出すのは、幼い妹に読んでやった『西方見聞録』。その末尾に、これこれの国ではこんな言を話していたのですよ、と作者が小字典を付け加えていた。
一定、偽書に違いないと思っていたが、男が使ったのは、そのうちのひとつである。実は正しく使える言であったらしい。
ということで、記得から引き出した、使えそうな一句といえば、
「ほ、ほとんど等しい」
通じたのか、通じなかったのか。
瞬刻、間が空いて、応えは来た。
「ああ、すまなかった……私も他国の言葉を、よく知っているわけではない。異なる国の者だったのだな」
使う言をクシに戻し、男は大息を吐いた。
「棠梨の帝から、温泉と聞いていたのだが……これが、そうなのか」
「我が国におきましても、珍しいとされる露天浴池。深く身体を泳がせ、寛ぎを薦めます」
「泳ぐ……? 浴場で、そんなことをするのか……」
不審に満ちた声から察するに、韶華は単詞を選び間違えたらしい。
「小妹、このカタに、かにーずが必要か、訊いて下さい」
江那が韶華にささやく。そして、必要ならワタシが、と拳を握る動作をしてみせた。
西方の婢が拳でなにをするのか、問うのが怖い。
しかし、問わねばならないだろう。少なくとも、クシの男の口舌を解くために。
「えー……クシの貴人の御前にて、いかなる無礼を詫び申し上げればよいか、迷うところでございます。我らは洗い場を清潔に保つ者でありまして、ひとを削る……者ではないので、ゆるりとお楽しみ下さい」
「削る……」
そこは繰り返さないで欲しかった。削ってはならないと思うが、ほかの言が出なかったのだ。
「楽しむのは良いが、熱くはないか? この暑さの中で熱水に浸かると、のぼせるだろう。それとも棠梨の者は、暑さに強いのか。ここまで暑いとは思わなかった」
「そ……そうですね。恐れながら、そのような毛の飾りがついた長靴は、棠梨では冬令にしか、履きませんので……」
「だろうな。着いてすぐ、上衣は脱いだが……」
男の声に大息が混じる。脚許は慣れたものを使いたい。靴は軽易に変えられるものではない、ということだ。
それはクシが棠梨に対して、まだ気を緩めていないという証でもある。
(まあ、そうだよね……こっちも分からなくて惑うけど、このひとたちにとって、ここは敵地なんだから)
探り合いは始まったばかり。クシの白地に坏心を書き入ませるような儀止は、してはならない。韶華がいかにクシを疑っていようと。
「失礼致します」
沈黙に支配された場に、鋭い声が届いた。
韶華は思わず貌を上げた。来たのは、静影だ。声で分かる。
ただ、熱気のために、うっすらとした形しか見えない。見えたのは、クシの男の彩りも鮮やかな衣、艶のある蝋黄のような髪、そして碧眼である。
「クシの貴人におかれましては、ご機嫌うるわしきことと存じます。しかしながら当方の手違いにより、礼儀を欠いたことを、お詫び申し上げます」
「手違いは、すでに詫びてもらった」
「でありましても、繰り返し、ご容赦頂きたいと思います。なお、唐突ですがクシに……クク……澡堂小女? のようなものは、必要ないとお聞きしました。下げさせて頂きます、これらの者を」
内容と同じくらい唐突に、静影は呑呑吐吐になった。どうやら流利とクシの言が使えたのは、典型的例句だったからのようだ。
しばらく封口していたクシの男は、はっとして、棠梨に合わせた做法の通り、大きく頷いてみせた。
「下がって良い。削られては困るからな」
「削……ご理解頂き、ありがとうございます……」
不審な言にも拘らず、静影は拝礼した。
韶華も江那も、慌てて倣う。澡堂での照料をしなくて良いとなれば、否はない。
静影が来たのは、ふたりを退出させるために違いない。誰の命であったのかは、分からないが、この場の解決が、韶華に課せられていたのであれば、紅司正に怒られなければ良いな、とだけ思った。




