表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
64/117

湖泊上路

 ふう、と大息(ためいき)を吐き、幼い少女は石墨を拾った。

 香青(コウセイ)路の白屋(あばらや)からひとり、姉がいなくなってそれなりに経つ。優しく静かな姉、朱蕣(シュシュン)の不在は、少し寂しく感じるものの、華燭(けっこん)という喜びもあって、あまり悲しくはない。

 けれど今天(きょう)平明(よあけ)にもうひとり、()家から欠けてしまった姉の韶華(ショウカ)については、世間(せかい)(くら)くなるような寂しさがあった。

 韶華は出門(がいしゅつ)しているだけで、いなくなったわけではない。戻ってくると分かっているが、姉たちが消えてしまった家は、瑠璃(ルリ)にとって(から)に等しく感じられた。

土特産(おみゃげ)なんかいらないから、早く帰ってきて韶姉(ショウねえ)……」

 希望(ねがい)(ことば)にすると、恣心(わがまま)だなあ、と思わなくもない。

 究境(けっきょく)は、土特産(みやげ)を受け取るだろうし、ひとりになった瑠璃に、遊び対手(あいて)がいないわけでもないのである。

 父親と母親と、界隈(きんじょ)太太(おばちゃん)たち、連天(まいにち)のようにやってくる悪童と、鳥人みたいな男子などが、遊んでくれている。充分に楽しい刻を過ごしており、灰心(しょんぼり)していると言うのは、正しくない。

窮鬼(ビンボー神)……来ればいいのに」

 瑠璃は脚許の影を見ながら、鷹のような目をした男を思い出した。実地(じっさいに)は、鷹を見たことはないけれど、あんなだろうと思う。

 地面に白墨で(おわんがた)を描き、長い直線で蓋をする。

「目……こんなかな? もっと……浅い?」

 浅い杯が描き上がる。ふたつ揃えると、ちょっと坏人(あくとう)な貌に見える。

 描き直し、と白墨と地面を見つめていると、声がかかった。

小玉(じょうちゃん)、なにを描いておるのかな」

老公公(おじいちゃん)!」

 瑠璃は大きな声を出したあと、慌てて口許を花兄(ゆび)で押さえた。

 そして、書院(しょさい)から父親の飛び出して来る気息(けはい)がないのを待って、にこりと老爺に微笑みかけた。

 老公公と呼びはしたが、太父(祖父)ではない。ただ、姉が伸手し(たよっ)ても良いよと告げた、古怪な(かわった)ひとだ。

 古怪とはつまり、姉の(ことば)に反して、父親の老人に対する様態(たいど)が平素と異なるという意思(いみ)でもある。

 瑠璃を欺負(いじめ)欺負(いじめ)ないに(かかわ)らず、男とみれば、父親は呪いを発している。老爺であれば、免れることもあるが、どういうわけか父親は、この老人――謝元宝(シャ・ゲンポウ)を見ると封口(ちんもく)し、柱に張り付き、髪の束をひとつ唇に噛みしめ、呪いにも近い視線で、ずっと見つめるのだ。

 その圧力は、瑠璃も感じたことのない辛酸(にがにがし)さで、だからふたりを、あまり会わせないようにしようと思ったくらいだ。

 とりあえず、老爺も父親の視線をあまり浴びたくないらしく、悄悄(そうっ)と現れるようになった。

「老公公、今天は遅かったね? 瑠璃、待ってたのに。白日に敬意を表(おねぼう)したの?」

「その説法(いいかた)令姉(ねえさん)に学んだのかね……まあ、待っていてくれてありがとうよ。客人のために、遅れてしまったよ」

「お客さまだったの。だったら瑠璃、(ようじ)が終わるまで待ってるよ……?」

 老人は幼子の遠慮を、微笑みで(かわ)した。

「会ってみたら、客ではなかったからな」

 短い言の内に、不穏なものが混じったように感じて、瑠璃は首を傾げた。

 と同時に、老爺の手背(手の甲)(あざ)があるのに気づいた。稀に、打手(ようじんぼう)である母親が(あざ)だらけの酔客を連れてくるので、瑠璃にも対応は分かっていた。

「それ、痛いよね。瑠璃、薬持って来るよ。韶姉の作坊(さぎょうば)にあるの、知ってるから。待ってて?」

如今(いま)でなくても、構わない……」

 謝元宝が言い終えるより先、幼い少女は作坊に向かっていた。

 追いかけるより、待つことにする。でないと、旁臉(よこがお)に突き刺さる藐視(侮蔑の目)が許さないだろう。

 もっとも、振り向いて、戸の空子(すきま)から痩せ女が覗いているのを確かめる蛮勇は、謝元宝にもない。代わりに房頂(やね)を見上げ、影に気づいた。

晨風(シンプウ)か」

(はい)妹妹(あの子)はどこに……痛ッ」

 老人の前に飛び降りた少年の頬に、(つぶて)が当たった。

「あれが見ておるから、小玉と言え」

 晨風は謝元宝の指が示すものを見、冷戦(ぞっと)した。戸の空子(すきま)は細く、そこから投げたのだとしたら、指弾の才能は禁軍を遥かに上回る。子への情に凝り固まった棠梨の怪、痩せ女の霊力はどこにでも及ぶらしい。

 怯える晨風に、老人は大息を吐いた。

「見なかったことにしろ。それから報告を頼む。キュウはすでに、宮都に入り込んでおる。ただ、西街(セイガイ)をうろついている者は……雇われただけで、なにも知らんようだな。今天も、絞め上げた男がいるが……なにをしろとも言われていないらしい。真的爪牙(本物の手先)を見つけるのは、難しいかもしれん」

「そうですね……お気づきですか。南市あたりではもう……彼らばかりです」

 キュウという国には、皇帝の大婚を祝うことがすでに知られており、宮都甘棠(カントウ)では祝いの品を目的にした交易が、一時的に隆重(さかん)になっていた。

「交易を奨めているのだ、やむを得まい。入って来る者を止められはせん。監察(かんし)するのは、西街に近づく者だけで良い」

 だが、その数だけでも、かなりであることは料想(すいそく)できる。

 消気(がっくり)する老人と少年の元に、幼い少女が戻って来た。

晨晨(ハヤブサくん)、いたの?」

 瑠璃の視線は、痩せ女ほどではないが、冷たい。

 晨風は慌てて、もう帰るからと告げた。礫を投げられるより、冷眼のほうが辛いこともある。じゃあお薬塗るね、という幼子の声を後方にした時には、房頂(やね)の上、かなり遠くにいた。

 それが幸いし、激烈な薬の臭いを知らずに済んだわけだが、少年が気づくことはなかった。


***



 水芳(スイホウ)宮と宮都は、そう離れているわけではない。

 宮城の東側にある門、神虎(シンコ)門から出たなら、白天(にっちゅう)の間に歩けば着くくらいの近さである。

 騎馬でなら、急がなくても半天(はんにち)

 ただし、皇帝の儀式(ぎょうじ)として行くとなると、預告(さきぶれ)程序(だんどり)や、車輅(ばしゃ)安車(ほろばしゃ)(にぐるま)の長い列を動かすために、刻が必要となる。多少の違いはあるものの、成天(まるいちにち)をかけて進むのが通常であった。

 這次(こんかい)は、宮都の紫陌(郊外)まで、皇帝の一行は出向き、キュウの使節と一同になってから、離宮に向かうという路程(ルート)を取る。

 通常とは異なり、直に行かないのである。

 これは、僅かな行程(プロセス)の違いかもしれないが、少しの余裕もなくなったという意思(いみ)にほかならない。成天(いちにち)をかけて離宮に入るという預定(よてい)は、全く変わっていないからだ。

 紫陌にある城市(まち)千古(センコ)から離宮まで、車輅(ばしゃ)一天(その日)のうちに着くのは難しい。

 時限を守るには、甘河(カンカ)の支流である清河(セイカ)を使う以外にない。つまり、水軍の派遣ということである。

 とはいえ、水軍を使うには、大きな難点があった。

「水軍の船に乗るの、少しだけ楽しみにしてたんだけど……」

 韶華は発田(ねむくなるの)(こら)えつつ、同乗の星江那(セイ・エナ)に話しかけた。

 同じく夢幻(ゆめ)に浸りつつあった江那は、回神(はっと)して、背粱(せすじ)を伸ばした。

不成(ムリ)ですよ、小妹(おじょうさん)……随従を全てぼーと()には、乗せられないです。多すぎます。それをしていたら、猛烈(めっちゃ)遅くなりますね。別だからこそ、条理(てじゅん)を省けるのです」

「うん、充分に理解した。眛眛(くらいうち)から宮城に集まっておいて、出門が上午(ひるまえ)。どこにも遅疑がなかったのに、これだからさ。随従は、さっさと離宮に行って、準備するのが正しいんだろうね」

「そうです。それに、なんでしたっけ。(ジョ)将軍? の話では、ワタシたちが急いでも、早く着くかは、欠佳(ビミョー)だとか?」

 韶華は大息とともに頷いた。

 皇帝と顕官(官僚)、そして守りの軍を除いた車輅(ばしゃ)は、行幸の一行としては軽易である。儀式としての動きが必要ないのだから、離宮にすぐ着くものだと思っていた。

 しかし、管人などの随従を乗せた多くの車輅(ばしゃ)女官(じょかん)のために飾った安車(ほろばしゃ)、兵糧を運ぶ(にぐるま)など、周りを武人たちに守られた列は、主がいないわりに、動きが鈍い。

 知らぬ者が見れば、往年(れいねん)の行幸と変わりないように思っただろう。

 韶華が乗っているのは、飾りの少ない安車(ほろばしゃ)である。女官ではないので、列の後方を進んでいるのだが、輜車(ししゃ)隊の前なので好在だ(つごうが良か)った。車兵に頼めば、すぐに静影(セイエイ)が呼べる。

 皇帝の侍衛の将は、今はその任を禁軍に譲り、韶華らとともに水芳宮に向かっている。

「静影の伏波(フクハ)将軍の別名(ふたつ名)が、事実(ほんとう)になるかなって思ったんだけどな」

「波をばすたーな(伏せる)将軍! 見たかったです」

「清河、そこまで荒れないから」

 代わりのように、韶華たちの部が使う街道は、ひどく荒れていた。皇帝が通らないと知って、整える必要がないと考えたのかもしれない。

 揺れる安車が止まり、韶華はまたかと思った。車輪に巻いた()が傷み、直さねばならなくなったのだ。

「韶華、疲れてないか」

 車の外から、静影が呼ぶ。真卒(まじめ)な武人は、小節(ささい)な滞りでも放過(みのがし)はせずに、張望(みまわ)っているようだ。

 安車から出たい心目(きもち)を抑え、紅人(宮仕え)らしく内側から答えた。

不要担心(だいじょうぶ)。皇上は、もう千古(センコ)に着いた頃でしょうか」

「おそらくな。召見の儀は、まだ始まっていないだろうが……相公(だいじん)商定(打合せ)しておられる頃だ」

 静影の声調(こえ)は平静に聞こえた。彼の率いる南衙(ナンガ)左領軍ではなく、北衙(ホクガ)禁軍が皇帝の側に控えるものとして選ばれているのに、怒りはないらしい。

(随分(みのほど)(わきま)えてるにしても、もっと偉そうにしてもいいのに)

「将軍の居功(ウエメセ)、ワタシも見たいです」

「江那さん……わたし、喋ってた?」

「否、小妹の表情が、そう言ってました」

 どんなものだったのか、解説を聞いてみたいところだが、安車が動き出した。

 狭い安車の内でできることなど、知れている。進みからすると、着くのは天黒(ひぐれ)になるだろう。午睡(ひるね)するには充分な間がある。

 と考えた瞬間、大きな哈欠(あくび)がでた。

(宮城での鍛錬は、この両天(ふつか)、厳しかったからなあ……)

 韶華の哈欠を受けて、江那も小さく哈欠をした。

「休むなら今ですよ。向こうに着いたら、忙しくなります」

「だよねー……」

 目を閉じればすぐに、まどろみに包まれる。

 騒ぎが韶華たちを起こすまで、緩い刻が流れて行った。


***



「急いで下さい」

 すでに安車は止まっており、急かす歩兵たちの声だけが響いた。

 幌の空子(すきま)から入る光は蒼く、暗い。天黒(ひぐれ)を思わせる色が、水芳宮に着いたことを教える。

 目をこすりつつ、江那が幌を開けようとした。

 だが、開けたのは別の者――面生の(見知らぬ)女官で、韶華が送料(よそう)した静影ですら、なかった。

「やはり先に知らされていて良かった」

 女官の視線は、霊峰の仙女が(サル)を見るようなものだった。困ったことに、覚醒の中途にいる身では、反駁(はんろん)のしようもない。

「こちらへ」

 冷眼に押し出され、女官のあとをついて歩く。初めて見る宮都の外だが、感慨に耽る暇もない。緑と水の匂いが甘棠(カントウ)と違うことだけは、よく分かった。

 柔らかな羅裙の長い裾を乱すことなく、女官は快歩(いそぎあし)で進み続ける。矩歩(あしどり)気息(けはい)を伴わず、偶人(にんぎょう)のようだ。

 韶華も、身段(運動神経)の良さには自尊(じしん)がある。なのに遅れがちになるのは、女官と同じようには、裙子(スカート)(さば)けなかったからだ。

 平常の韶華は、短衣(うわぎ)脛衣(ズボン)という男装に近いもので、裙襦で扮装し(よそおっ)たのは、姉の納女考試(お妃えらび)で宮城に入った時くらい。

 それが今や、(スカート)(上衣)短衣(ボレロ)を合わせたもので、過ごすことを求められている。

 紅人(こまづかい)としての衣装なのだから、やむを得ない。とは思いつつも、急げば(かえ)って、ひらひらと揺れる(すそ)が気になってしまう。

 女官も、揃い(セット)だけなら韶華と同じだ。固然(もちろん)、揺れる羅綾の軽さとひだの多さは、紅人とは比べものにならない。動きにくさは、韶華より上だと思うのだが。

(こういうのって、慣れてるかどうかなのかね……)

 確かに、紅人のものは、より動き回る者として袖が(しぼ)られており、腕回り(たもと)を気にしなくて済むようになっている。短衣も武人の両襠(チュニック)のように、上身を被う。

 飾物も少なく、玉環(すそ押さえ)と簪くらい。宴席においては、玉珥(イヤリング)出借(かしだ)されるが、そもそも宮城の女たちの装具(アクセサリー)は、ほぼ支給されたものだという。

 それは嬪妾(妃たち)も同じであって、宮城に入った女たちは、大約(ほとんど)のものが支給の対象となっているらしい。

 考えてみれば、後宮の女官たちは、長い裙子(もすそ)を、簾子(カーテン)も斯くやというように翻していた。

 務めがあるのだから、きらびやかに装う必要はない、はずだが、支給まで許されているというのはつまり、女官も嬪妾()備用(スペア)とみなされているからだろう。

 弄月(ロウゲツ)明智(りょうしき)ある皇帝と言われるのも、理解できた。

 後宮に抱える女が多くなれば、用項(ひよう)がかかり、財政を圧迫することになる。閨閥争いを避けるためだけでは、なかったのかもしれない。

(弄月大人(さん)、お姉ちゃんの節省愛好者(コストカッター)なところが、良かったんだろうか……)

 あながち間違いではないような気がした。

「それにしても、江那さん……このひらっひらで、よく疲れないね」

「ワタシの郷里では、もっと、ふわふわー(飛揚)な衣装でした。暑いですからね」

「ああ、そっかあ……わたしだけか、合ってないの」

「着きましたよ」

 韶華の大息を聞きつけたかのように、女官が振り向く。肩越しに、旁門(通用門)の前に立つ別の女官が見えた。

(コウ)女史……?」

 後宮にいるはずの女人が、当前(めのまえ)にいる。先行(さきまわり)するのは難しくないから、あり得ないことではないが、来るとは聞いていなかった。

 ふたりの驚きをよそに、向導(あんない)してきた女官は軽く敬礼(あいさつ)をした。

「紅司正、確かにお連れ致しました」

「司正……?」

「こちらは、あなたたちの知る紅女史の令妹(いもうとぎみ)です。水芳宮では、女紅(使用人)たちを管理する司正の(しごと)に就いておられます」

 介紹(しょうかい)を受け、紅女史に肖似(そっくり)な紅司正が、女官の(ことば)をつないだ。

「わたくしは紅鐘藤(コウ・ショウトウ)。姉から事情は伺っております。ただし、特別の扱いは致しません。している暇などない、と申し上げておきましょう。ほかの紅人(こまづかい)と同じと見なし、馬上(さっそく)、準備を為して頂きます。皇上はクシの使節の疲れを御考慮なさり、一局(うたげ)の始まりを遅らせることを決定致しました。ですので」

 (ひしゃく)が差し出された。

澡堂(ふろば)に行くように」

 肖似(そっくり)な姉妹は、井然(きちん)とした口気(くちょう)肖似(そっくり)に、韶華たちを役使し(こきつかい)始めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ