湖泊上路
ふう、と大息を吐き、幼い少女は石墨を拾った。
香青路の白屋からひとり、姉がいなくなってそれなりに経つ。優しく静かな姉、朱蕣の不在は、少し寂しく感じるものの、華燭という喜びもあって、あまり悲しくはない。
けれど今天、平明にもうひとり、杜家から欠けてしまった姉の韶華については、世間が昏くなるような寂しさがあった。
韶華は出門しているだけで、いなくなったわけではない。戻ってくると分かっているが、姉たちが消えてしまった家は、瑠璃にとって空に等しく感じられた。
「土特産なんかいらないから、早く帰ってきて韶姉……」
希望を言にすると、恣心だなあ、と思わなくもない。
究境は、土特産を受け取るだろうし、ひとりになった瑠璃に、遊び対手がいないわけでもないのである。
父親と母親と、界隈の太太たち、連天のようにやってくる悪童と、鳥人みたいな男子などが、遊んでくれている。充分に楽しい刻を過ごしており、灰心していると言うのは、正しくない。
「窮鬼……来ればいいのに」
瑠璃は脚許の影を見ながら、鷹のような目をした男を思い出した。実地は、鷹を見たことはないけれど、あんなだろうと思う。
地面に白墨で椀を描き、長い直線で蓋をする。
「目……こんなかな? もっと……浅い?」
浅い杯が描き上がる。ふたつ揃えると、ちょっと坏人な貌に見える。
描き直し、と白墨と地面を見つめていると、声がかかった。
「小玉、なにを描いておるのかな」
「老公公!」
瑠璃は大きな声を出したあと、慌てて口許を花兄で押さえた。
そして、書院から父親の飛び出して来る気息がないのを待って、にこりと老爺に微笑みかけた。
老公公と呼びはしたが、太父ではない。ただ、姉が伸手しても良いよと告げた、古怪なひとだ。
古怪とはつまり、姉の言に反して、父親の老人に対する様態が平素と異なるという意思でもある。
瑠璃を欺負る欺負ないに拘らず、男とみれば、父親は呪いを発している。老爺であれば、免れることもあるが、どういうわけか父親は、この老人――謝元宝を見ると封口し、柱に張り付き、髪の束をひとつ唇に噛みしめ、呪いにも近い視線で、ずっと見つめるのだ。
その圧力は、瑠璃も感じたことのない辛酸さで、だからふたりを、あまり会わせないようにしようと思ったくらいだ。
とりあえず、老爺も父親の視線をあまり浴びたくないらしく、悄悄と現れるようになった。
「老公公、今天は遅かったね? 瑠璃、待ってたのに。白日に敬意を表したの?」
「その説法は令姉に学んだのかね……まあ、待っていてくれてありがとうよ。客人のために、遅れてしまったよ」
「お客さまだったの。だったら瑠璃、事が終わるまで待ってるよ……?」
老人は幼子の遠慮を、微笑みで躱した。
「会ってみたら、客ではなかったからな」
短い言の内に、不穏なものが混じったように感じて、瑠璃は首を傾げた。
と同時に、老爺の手背に記があるのに気づいた。稀に、打手である母親が記だらけの酔客を連れてくるので、瑠璃にも対応は分かっていた。
「それ、痛いよね。瑠璃、薬持って来るよ。韶姉の作坊にあるの、知ってるから。待ってて?」
「如今でなくても、構わない……」
謝元宝が言い終えるより先、幼い少女は作坊に向かっていた。
追いかけるより、待つことにする。でないと、旁臉に突き刺さる藐視が許さないだろう。
もっとも、振り向いて、戸の空子から痩せ女が覗いているのを確かめる蛮勇は、謝元宝にもない。代わりに房頂を見上げ、影に気づいた。
「晨風か」
「有。妹妹はどこに……痛ッ」
老人の前に飛び降りた少年の頬に、礫が当たった。
「あれが見ておるから、小玉と言え」
晨風は謝元宝の指が示すものを見、冷戦した。戸の空子は細く、そこから投げたのだとしたら、指弾の才能は禁軍を遥かに上回る。子への情に凝り固まった棠梨の怪、痩せ女の霊力はどこにでも及ぶらしい。
怯える晨風に、老人は大息を吐いた。
「見なかったことにしろ。それから報告を頼む。キュウはすでに、宮都に入り込んでおる。ただ、西街をうろついている者は……雇われただけで、なにも知らんようだな。今天も、絞め上げた男がいるが……なにをしろとも言われていないらしい。真的爪牙を見つけるのは、難しいかもしれん」
「そうですね……お気づきですか。南市あたりではもう……彼らばかりです」
キュウという国には、皇帝の大婚を祝うことがすでに知られており、宮都甘棠では祝いの品を目的にした交易が、一時的に隆重になっていた。
「交易を奨めているのだ、やむを得まい。入って来る者を止められはせん。監察するのは、西街に近づく者だけで良い」
だが、その数だけでも、かなりであることは料想できる。
消気する老人と少年の元に、幼い少女が戻って来た。
「晨晨、いたの?」
瑠璃の視線は、痩せ女ほどではないが、冷たい。
晨風は慌てて、もう帰るからと告げた。礫を投げられるより、冷眼のほうが辛いこともある。じゃあお薬塗るね、という幼子の声を後方にした時には、房頂の上、かなり遠くにいた。
それが幸いし、激烈な薬の臭いを知らずに済んだわけだが、少年が気づくことはなかった。
***
水芳宮と宮都は、そう離れているわけではない。
宮城の東側にある門、神虎門から出たなら、白天の間に歩けば着くくらいの近さである。
騎馬でなら、急がなくても半天。
ただし、皇帝の儀式として行くとなると、預告の程序や、車輅や安車、輜の長い列を動かすために、刻が必要となる。多少の違いはあるものの、成天をかけて進むのが通常であった。
這次は、宮都の紫陌まで、皇帝の一行は出向き、キュウの使節と一同になってから、離宮に向かうという路程を取る。
通常とは異なり、直に行かないのである。
これは、僅かな行程の違いかもしれないが、少しの余裕もなくなったという意思にほかならない。成天をかけて離宮に入るという預定は、全く変わっていないからだ。
紫陌にある城市、千古から離宮まで、車輅で一天のうちに着くのは難しい。
時限を守るには、甘河の支流である清河を使う以外にない。つまり、水軍の派遣ということである。
とはいえ、水軍を使うには、大きな難点があった。
「水軍の船に乗るの、少しだけ楽しみにしてたんだけど……」
韶華は発田を堪えつつ、同乗の星江那に話しかけた。
同じく夢幻に浸りつつあった江那は、回神して、背粱を伸ばした。
「不成ですよ、小妹……随従を全てぼーとには、乗せられないです。多すぎます。それをしていたら、猛烈遅くなりますね。別だからこそ、条理を省けるのです」
「うん、充分に理解した。眛眛から宮城に集まっておいて、出門が上午。どこにも遅疑がなかったのに、これだからさ。随従は、さっさと離宮に行って、準備するのが正しいんだろうね」
「そうです。それに、なんでしたっけ。徐将軍? の話では、ワタシたちが急いでも、早く着くかは、欠佳だとか?」
韶華は大息とともに頷いた。
皇帝と顕官、そして守りの軍を除いた車輅は、行幸の一行としては軽易である。儀式としての動きが必要ないのだから、離宮にすぐ着くものだと思っていた。
しかし、管人などの随従を乗せた多くの車輅、女官のために飾った安車、兵糧を運ぶ輜など、周りを武人たちに守られた列は、主がいないわりに、動きが鈍い。
知らぬ者が見れば、往年の行幸と変わりないように思っただろう。
韶華が乗っているのは、飾りの少ない安車である。女官ではないので、列の後方を進んでいるのだが、輜車隊の前なので好在だった。車兵に頼めば、すぐに静影が呼べる。
皇帝の侍衛の将は、今はその任を禁軍に譲り、韶華らとともに水芳宮に向かっている。
「静影の伏波将軍の別名が、事実になるかなって思ったんだけどな」
「波をばすたーな将軍! 見たかったです」
「清河、そこまで荒れないから」
代わりのように、韶華たちの部が使う街道は、ひどく荒れていた。皇帝が通らないと知って、整える必要がないと考えたのかもしれない。
揺れる安車が止まり、韶華はまたかと思った。車輪に巻いた蒲が傷み、直さねばならなくなったのだ。
「韶華、疲れてないか」
車の外から、静影が呼ぶ。真卒な武人は、小節な滞りでも放過はせずに、張望っているようだ。
安車から出たい心目を抑え、紅人らしく内側から答えた。
「不要担心。皇上は、もう千古に着いた頃でしょうか」
「おそらくな。召見の儀は、まだ始まっていないだろうが……相公と商定しておられる頃だ」
静影の声調は平静に聞こえた。彼の率いる南衙左領軍ではなく、北衙禁軍が皇帝の側に控えるものとして選ばれているのに、怒りはないらしい。
(随分を弁えてるにしても、もっと偉そうにしてもいいのに)
「将軍の居功、ワタシも見たいです」
「江那さん……わたし、喋ってた?」
「否、小妹の表情が、そう言ってました」
どんなものだったのか、解説を聞いてみたいところだが、安車が動き出した。
狭い安車の内でできることなど、知れている。進みからすると、着くのは天黒になるだろう。午睡するには充分な間がある。
と考えた瞬間、大きな哈欠がでた。
(宮城での鍛錬は、この両天、厳しかったからなあ……)
韶華の哈欠を受けて、江那も小さく哈欠をした。
「休むなら今ですよ。向こうに着いたら、忙しくなります」
「だよねー……」
目を閉じればすぐに、まどろみに包まれる。
騒ぎが韶華たちを起こすまで、緩い刻が流れて行った。
***
「急いで下さい」
すでに安車は止まっており、急かす歩兵たちの声だけが響いた。
幌の空子から入る光は蒼く、暗い。天黒を思わせる色が、水芳宮に着いたことを教える。
目をこすりつつ、江那が幌を開けようとした。
だが、開けたのは別の者――面生の女官で、韶華が送料した静影ですら、なかった。
「やはり先に知らされていて良かった」
女官の視線は、霊峰の仙女が狙を見るようなものだった。困ったことに、覚醒の中途にいる身では、反駁のしようもない。
「こちらへ」
冷眼に押し出され、女官のあとをついて歩く。初めて見る宮都の外だが、感慨に耽る暇もない。緑と水の匂いが甘棠と違うことだけは、よく分かった。
柔らかな羅裙の長い裾を乱すことなく、女官は快歩で進み続ける。矩歩に気息を伴わず、偶人のようだ。
韶華も、身段の良さには自尊がある。なのに遅れがちになるのは、女官と同じようには、裙子を捌けなかったからだ。
平常の韶華は、短衣と脛衣という男装に近いもので、裙襦で扮装したのは、姉の納女考試で宮城に入った時くらい。
それが今や、裙と襦に短衣を合わせたもので、過ごすことを求められている。
紅人としての衣装なのだから、やむを得ない。とは思いつつも、急げば却って、ひらひらと揺れる裾が気になってしまう。
女官も、揃いだけなら韶華と同じだ。固然、揺れる羅綾の軽さとひだの多さは、紅人とは比べものにならない。動きにくさは、韶華より上だと思うのだが。
(こういうのって、慣れてるかどうかなのかね……)
確かに、紅人のものは、より動き回る者として袖が搾られており、腕回りを気にしなくて済むようになっている。短衣も武人の両襠のように、上身を被う。
飾物も少なく、玉環と簪くらい。宴席においては、玉珥が出借されるが、そもそも宮城の女たちの装具は、ほぼ支給されたものだという。
それは嬪妾も同じであって、宮城に入った女たちは、大約のものが支給の対象となっているらしい。
考えてみれば、後宮の女官たちは、長い裙子を、簾子も斯くやというように翻していた。
務めがあるのだから、きらびやかに装う必要はない、はずだが、支給まで許されているというのはつまり、女官も嬪妾の備用とみなされているからだろう。
弄月が明智ある皇帝と言われるのも、理解できた。
後宮に抱える女が多くなれば、用項がかかり、財政を圧迫することになる。閨閥争いを避けるためだけでは、なかったのかもしれない。
(弄月大人、お姉ちゃんの節省愛好者なところが、良かったんだろうか……)
あながち間違いではないような気がした。
「それにしても、江那さん……このひらっひらで、よく疲れないね」
「ワタシの郷里では、もっと、ふわふわーな衣装でした。暑いですからね」
「ああ、そっかあ……わたしだけか、合ってないの」
「着きましたよ」
韶華の大息を聞きつけたかのように、女官が振り向く。肩越しに、旁門の前に立つ別の女官が見えた。
「紅女史……?」
後宮にいるはずの女人が、当前にいる。先行するのは難しくないから、あり得ないことではないが、来るとは聞いていなかった。
ふたりの驚きをよそに、向導してきた女官は軽く敬礼をした。
「紅司正、確かにお連れ致しました」
「司正……?」
「こちらは、あなたたちの知る紅女史の令妹です。水芳宮では、女紅たちを管理する司正の行に就いておられます」
介紹を受け、紅女史に肖似な紅司正が、女官の言をつないだ。
「わたくしは紅鐘藤。姉から事情は伺っております。ただし、特別の扱いは致しません。している暇などない、と申し上げておきましょう。ほかの紅人と同じと見なし、馬上、準備を為して頂きます。皇上はクシの使節の疲れを御考慮なさり、一局の始まりを遅らせることを決定致しました。ですので」
瓢が差し出された。
「澡堂に行くように」
肖似な姉妹は、井然とした口気も肖似に、韶華たちを役使し始めた。




