小小的失事
宮都甘棠を貫く甘河は、流通の命脈であり、移動の主道でもある。
ゆえに、河沿いには多くの肆や旅舎が並んでいる。
韶華が向かう八仙館は、都に久留しようとする者にはよく知られた客寓で、四楼の本楼と、少し離れて建つ配楼とで成り立っている。
もっとも今は配楼だけになっており、悄悄とした小路に紛れたそれは、あると知らなければ、幌子さえ見出すことはできない。閉じていない門だけが、出入を妨げない場であると示す。
少しばかり迷ったあと、辿りついた客寓は、界隈にひとの気息はなく、ただ清静を遊子に供していた。
「思うんだけど、どうして静影って、いつもわたしの去路に居るんでしょう」
韶華の心からの疑問に応え、少女を見下ろす武人の紫石が、諦めたように消気した。
「常常ひとに知られては困るようなことを、しようと思っているから、武人が気になるんだろう……」
「ええー……知られても困らないけど」
「ならば、俺のことは気にするな。それに今天は、咎めるために来たのではない。おまえを抛っておいたら、不妙だと思っているのでもない。謝公に会うのだろうと思って……それなら俺も話がしたいと思って来たんだ」
「そうですか、解説をありがとう。なんだか、わたしがなにを言い出すかわからない、と言われてる気もするけど」
「内容は送料がつくから難点はない。が、担心なのは説法か……退官しているとはいえ、御史大夫を務めたひとだぞ」
「そこまで不行儀じゃないってば。それに最近は! 做事方法を! 勉強してますから!」
少女と武人が揉めている間に、老いた館人は客寓の内に慌てて戻った。彼らが会いたいと思う者は、明らかだった。
そもそも大方な老人に、決賽を当前にした神亀と兎子の煽り合いなど、止める術はないのである。
憐れな館人に急かされ、そのひとは出て来た。
「老公公、もう回郷ですか?」
謝元宝は、手に拐棍と荷を持っていた。
「わけあって借口は伏させてもらうが、その送料は正しくない」
「止めて下さい、匪賊の模倣は……」
「春娃なら、喜ぶかと思ってな」
後面の静影を気にしながら、韶華は大笑する老人を眺めた。
居心は読めないが、含みはないように聞こえた。韶華が宮都で話題の匪賊望舒党であったことを知って、言っているのではない、と思う。流行の導言を模倣をしただけだと信じたい。
「老公公って、そういのを捕まえる、官吏だったんじゃないんですか……」
韶華が言うと、老人は笑いを収めて頷いた。
「宮都では、捕まると考えるのだな。良いことだ」
「ほかの地では、そうならないと聞こえますが」
「そう。甘棠では叶うことが、領国では叶わないこともある。それを正すのが、我の行であったよ。もっとも、宮都には一人がおわす。侍衛の将が固く守っておらねば、我らは領国を巡ることもできなかったがな」
謝元宝は、評判のための視線を静影に送った。
「貴兄と会うのは初めてだろうか。徐家の……徐陽春は、左庶子であったな。その息子である徐昌陽は……尚書礼部にいたか。どちらかというと、聡明と渾厚で出息した家系だと思うたが、身段は聞くよりも気派だな……陽春も、孫が誇らしいであろう」
「身に余る賛辞、謹んで承ります」
静影が、爽利な動作で拱手をする。のどかな天井が、厳粛な大堂に変わったかのようである。
韶華も、このところ教え込まれた控えの作勢を取る。将の紫石が純黒の前髪に隠れる際、睇視で伝えたものは、行か快一点か、判然としなかったが。
「ところで春娃よ。ふたり揃って、どうした。あれか、父親のことで商量か」
謝元宝にどう話をしようか迷っていた韶華は、ほっとした。
「察しが良くて、助かります。あの、頼みたいことがあって、我が杜家に来て頂けたらと思うのですが……」
「困ったな。我ごときが中用になれるかな。それに、早いとまでは言わないが、今は時勢が悪くないだろうか」
「確かに時勢は不妙ですけど、だからこそ……って、早い? なにが」
姿勢を正し、韶華は謝元宝の面貌を見た。老人は韶華と静影を見比べている。その表情は、ひどく狼狽え、恥ずかしげなものだ。
なにかが、古怪だ。
どこかに口舌があるようだ。
どこに。
「あの……?」
「おまえさんたち、訂婚の申し込みの、後援を頼む打算ではないのか? あの妖、ではなくて太君の溺愛ぶりでは、いかな好男子といえど、擯諸門外をくらいそうだから……」
「訂婚ッ? 誰が誰にですかッ、謝公!」
「等等、どうして風情について尋ねていると思うのですかっ。というか、老公公。わたしと静影が知己だって、言いました? 静影も、わたしの父親のために来ていると思ったんですよね?」
訂婚のためという差錯があったにしても、彼は、ふたりが揃ってやって来たと考えている。路人が会ったとは思っていないのだ。
だが、韶華は静影を介紹した覚えはない。そして彼が静影に会うのは、初めてなのだから、静影から知らされたはずもない。
老人は、少女から目を逸したものの、武人とは目を合わせることになり、さらに逃路を塞がれやっと、投案した。
「いやまあ我も気にしてたのだよ……だが、春娃のこととは、思わなかったのだ。ではあっても、吃香ないと悩んでいる膠固が、妙年の児女を連れていれば」
「なんの話をッ?」
「なにって……雑誌の欄目だよ。春娃は読まんと思うが」
女子の読まない雑誌。欄目。膠固という認識で、風情に言及する。
老爺の示すものは、考えるまでもなく雑誌『白果』である。そして読者投稿欄目の男子恋愛指南に、しっかりと目を通しているということだ。
(読んでる! 読んでて悪いわけじゃないけど! いや、やっぱり不成か?)
あの投稿は静影を騙る者がしているので、内容は彼の本意ではない。ただ韶華でさえ、假冒と知ったのは静影に会ってからである。
謝元宝の反応を見るに、読んでいる者には、当人が悩んでいるようにしか思えない、という真実が、改めて露見したわけである。
鉄青になりながらも、韶華は静影の様態を探る。気息のないのが、恐ろしい。
「老公公……変わった雑誌を、お読みです、ね」
「暇だったので、ここの庫房を漁ったら出て来た」
韶華としては八仙館の老板が、官方に欺侮されなければ良いな、と祈った。
「戯言はここまでにして」
「真的戯言でした……?」
「……春娃と現れた時は、真的に思ったよ。まあ、そちらもなにか事情がありそうだ。だが、とりあえず」
とん、と拐棍を地面に打ちつけた。
「我は春娃の太父である照白から、頼まれておる。あの痩せ女、ではなくて半子を助けてやってくれと。まあ、春娃の令姉が妃となるゆえ、大約は、皇上からも聞いてはいるのだが……頼みとは、愛らしい娃娃を守って欲しい、で良いのかな」
「そうです。できるなら、杜家に来‥…」
言いかけて、止める。痩せ女が一天一夜を問わず、室内に出現するような家常に耐えさせて良いものか。
「ええと、わたしが使ってる作坊が、すぐ近くにあるので、そちらに泊まって頂ければと思います」
「ああ、照白の房室だな? ありがたい。八仙館は良い寓所だが、西街からは遠すぎるからな」
韶華は頷き、荷を預るために手を差し出した。謝元宝が意然なほど情形を分かっている者で助かった。
けれど、韶華の内には堅信があった。
老爺はまだなにかを隠している。愛らしい娃娃、すなわち瑠璃だけを示して守ると告げたのには、理由があるはずだ。
「韶華、それは俺が持とう」
静影が韶華の手から、荷を取り上げた。韶華が恍惚としていたので、奪うような勢いになる。
「すまない……不行儀だった」
「いいよ、わたしが冒失してただけだから」
武人の真卒を当面に見た謝元宝は、下巴を撫でつつ、目を細めた。
「こうして見ると、これだけの顕士が令媛たちに抛っておかれるとは、考えにくいのだがな。吃香ないと悩むまでもなかろうに……古怪よのう」
「その、話題は、止めて下さい」
紫石の双眸が査牙しさを隠そうとして、苦しげに歪んだ。
「静影、不要担心。あの失事については、解説しておくから……乗便に、老公公とともに、うちのお父さんを提審してくれるといいなあ?」
「提審とは、穏やかでないな……」
老人が独言のように呟く。恐惧するような低声は、棠梨の怪に撲面から応じなければならない他日を、思い浮かべたからかもしれない。
「固然、先に老公公が、話して下さっても良いのですけど」
「なに?」
「当人が話せば、どうしたって情分が混じります。それを元にして策を考えることは、あまり好ましいとは言えません。ですから、剛才でなくてもいいんですけど、聞かせて欲しいんです。たとえば瑠璃について。でなければ、わたしの父とキュウの係わりについて」
謝元宝は、少女を見る目に憂いを含ませ、封口した。
この表情を韶華はよく知っている。言おうか言うまいか、迷うものだ。
「剛才とはいかぬが……」
長い間のあと、老人が応じる。
韶華もまた、応じた。
「待ちます」
すまぬ、と謝元宝は微笑んだ。
「娃娃については、料想だけなので、あまり認真に取るな。ただ、彼と殊方との係わりは……」
我が話して良いことか、分からぬ。
老人は、ぽつりと付け加えた。
***
大きな車輅が、列を組んで近づいて来る。
すでに前列から報告を受けており、驚きは少ないが、送料よりは雅致とした使節だった。
呂宏達は表情のこわばりを感じながら、その到着を待った。
キュウという大国が、棠梨の宰相が迎えるという礼儀を、どう捉えているのか、分からないことが恐ろしかった。
平常とは異なる儀式であることすら、理解していないように思われる。
長く敵として――つまり、棠梨に相対する大国と思われてきた国の民が、友好を為すために送った使節であると、信じて良いものか、呂宏達には、まだ決められない。
目に見える部分で言うなら、使節は華やかで寛いだ印象を与える。
彼らも、禍心があると考えて欲しくないのだろうと思う。
呂宏達は疑う心目を押し隠し、背粱を伸ばした。
言うまでもなく、棠梨国の大婚に対して、祝いを述べるための使いである。互いに不快を与えるようなことは、慎まねばならない。
殿の車輅が停まり、下人が台階を準備する。
不久、男たちが降りてきた。三台の飾り立てた輅ごとに四人。多くは、キュウの民にしては小巧で、飾り立てた衣装からして、文官だろう。
井然とした使節の並びが、呂宏達の当前まで来たところで、ひとりだけ下馬した男が、ふらりと後面に付き従う。
防護の武人――と考えるべきだろうが、褐を肩にかけた男は、武具らしいものは身に帯びていなかった。
淡い輝きを持つ、蝋黄に似た色の髪は眩しく、長躯を褐と、彩りも鮮やかな袗衣で飾る。
使節の条理では下位にあっても、庶人には思えない。監察の任を負う貴族と考えるのが、正しいのかもしれない。
しかし今は炎天も厳しい夏令である。
いかにキュウが北の国といえど、獣を生きたまま抱えたような気派な褐は、暑いのではないか、と思った呂宏達の前で、男は投げ捨てるように、下人にそれを押し付けた。
ですよね。と、見ていた者は全員、同じことを考えたに違いない。
獣の巣という蔑称で呼ばれ、忌まれた殊方に生きる者であろうと、感じるものは同じらしい。
呂宏達は、改めて表情を引き締めた。
これより先は、キュウではなく、彼らが使う『クシ』という名で呼ばねばならない。貶める言を使っては、和を為せはしない。
「クシの王の和の使いにおかれましては、ようこそおいで下さいました。我が棠梨の一人に代わり、歓迎の辞を申し上げます」
起先に棠梨の言で述べ、クシの言で繰り返す。優美な仕草で拱手をし、呂宏達は顏を上げた。
そして見出すは、一団の最後に従う碧眼――
それがなにを意思するのか、知らない宰相ではなかった。




