招来融風之一
白い花を刺繍した金色の羅が、風に揺れる。
軽やかで薄く、緻密な花紋をまとうそれは、技藝を認められた織女たちの手による、一人のための帳だ。
広く、空の間に淡い色を重ね、見通せるものを減じるよう、作られている。
見てはならない、見せてはならない。
万世を治める者に求められるのは、遠き場に居ることだけなのかもしれない。
主を待ち、ひとり坐す老爺は、願いに反して高みに立つことになった男の心目を哀れに思った。
もっとも、その男は怜憫からほど遠い様態で現れた。
「ああ、遅くなった。遅くなってしまったよ。久達だなあ、謝よ」
「変わりませんな、一人は」
「少しは、変わったのではないかな。自身のことを余と言うのに、慣れたからな」
「千古においては、俺と仰いましたね……」
「よく覚えているものだ」
弄月は笑い、老爺の当前に席子と座具を投げ置いて、座った。
固然、皇帝の坐すところは別にある。あるが、弄月は陸豊隆ではなく、故人として彼と話すつもりでいた。
謝元宝も弄月の思いを汲み取り、嘆息だけで済ませた。迎宮には珍しく、誰も控えていない。それこそ、太監さえ下がらせている。その居心が、老爺の願いを叶えてのことと知っていれば、故意に離れて座る必要はなかった。
身を飾る玉を鳴らし、座る男に、老人はひとの悪い笑みをつくってみせた。
「負うものが多くなりましたな」
「まだ外すつもりはないぞ。これで鍛えている中途だからな」
「そうでなくては、困ります。新しい玉は、朋友の紀念品でしてね」
「おまえの?」
弄月が訝しむのを見て、謝元宝の顔色から笑みが引いた。
「知らないのですか……」
「いや、いつ死んだことになったんだ。それとも真的に痩せ女……?」
「痩せ女……とは、あの痩せ女ですかな」
「ほかにないだろう。知己だったのか?」
「女妖と知己と言われましても、なんのことか……それともまさか、あなたの新しい玉は、ふたつある? であれば我が友、照白に呪われても古怪はありませんが」
照白。杜照白。と弄月は繰り返し、ひとりの男を思い出した。
謝元宝が御史大夫として能手の名望を得たのは、従えた判官の、ある男がいてこそ。一次だけ見たことのある男は、剛介な謝が小さく見えるほど壮実で、弄月に向かって、小児にするように遠くから手を振っていた。御史台を辞したのは謝元宝より早く、その理由だけは、弄月もよく知っている。
「杜……そうか、杜か! あれは杜の……待て。そうすると、照白は知っていて、痩せ女を半子にしたことになるぞ?」
「皇上、痩せ女は子への固執を意思する怪ですから、男でもそれは構いませんが、なぜに……」
弄月の対面で、老爺が失落した。彼らの話題の小節な差錯こそ、話し合うべく来た理由のひとつであると、気づいたのである。
痩せ女、すなわち貧しさから捨てた子への思いが断ち切れず、ひたすら子を覗き見している妖女は、たいていが生前は美しい女であったにも拘らず、それを失った痩せこけた女として現れる――ことになっている。
そんな怪が在るかどうかは別にして、貧窮に陥り美貌を失った女を『痩せ女』、と奚落することはあるので、つまりは美人を示すことが多い。
そこまで言われる人物が杜家にいる、ということについて、ようやく謝元宝は思い当たったのである。
「一人、あれはそんなに……痩せ女らしいので? 照白も見れば驚くと言っていたような気がしますが……いやまあ、あの国の出であれば、男とて、美しさは当然でありましょうが」
老人は首を振り、軽く笑った。遠い昔の友人も、笑っているように思えた。我の大胆さに変わりはないだろう、と。
「不敬を申しました、皇上」
「どうした、いきなり」
叩頭し、改口する老爺を見て、弄月は眉を顰めた。弄月には、まだ差錯に理解が及んでいなかった。
「お伝えせねばならぬことがあり、参上しましたが、すでに知っておられたようですね。皇上が新たに手に致します玉は、凍える国土より、妖の如き面貌の男がもたらしたものであると」
「惨淡な説法だが、まあ……大約の事情は掴んでいる」
「では、最も小さき玉が、遼遠に生きる者たちが全てをなげうってでも、求めるものであることも?」
ふたりの間に寂静が広がった。
「おまえも見たのか……あの碧さを」
「はい。照白の封信の居心を、まず確かめようと思い、訪れました。あの照白が、いつかキュウが来る時は半子を助けてやってくれと、頼んだのはなぜなのか、知りたかったのです。まさか……」
「家人として、乱子の一面を迎え入れていたとはな」
弄月も遠い記得にある男の姿を思い出し、笑った。
手にした瓊は、確かに彼の同族だった。瓊は輝くばかりに弄月の心目を照らし、これから懐を守ることになる。かつて領国を巡る男の先に立ち、坏事を暴き出した男のように。
「笑う余裕があるのは良いことです。しかしながら、大胆な男の残した玉は、やはり大胆。冒失した儀作で狗熊と言われぬよう、正色になさい」
「まあな、頼ってもらえるよう、努めるさ。今のところ丈人について、商量をするに値しないと思われているらしいのでな」
謝元宝は、おや、という貌をした。
「瓊玉から商量を受けたのではない……?」
「知ったのは、あれの書いた小……いや徐家の者が、ではなくて、ああそう、陛衛のとある金石人が、妙音を響かせる玉から聞いたんだったかな。そうそう、うん、そんな感じで知った。なにも読んでない」
「出しなさい」
すっと差し出された手を、弄月は見る。
「渡さないと不成か?」
「瓊玉に小報告されたくなくば、書籍を渡しなさい」
「停……それだけは……というより、おまえも知ってて言ってるなッ」
「知りませぬよ。どのようなものかは。愛らしい幼子が禁泄漏だから秘密ね、と教えてくれたところによると、痩せ女はかんのうしょうせつか、であるらしいので。あの他日の陽九が、どう書かれているのか、気になりますね」
「俺より知ってるではないか!」
「そうかもしれません。あなたは……妙音を響かせる玉を見ても、気づきはしないでしょうから」
片刻、目を伏せて、老爺は焼栗色の髪を思った。青冥より、明らかな印象を与える少女では――ないほうを。
「……老けましたな」
「そこは互いにと言うべきでは? だいたい、おまえは元から老けていた」
「そうは申しましても、甘棠に望舒なる徒が現れたと聞けば、重ねた齢もどこかへ行ってしまいそうですよ」
謝元宝が目を開けると、弄月は廟に向かう尸の如く固まっていた。
「ふむ、その様態では……当人ではないのですね。まあ、今となっては酒楼に行くのが、大不了。となると、あちら……今天はお忙しいようで、お会いできないのは遺憾なことです」
「呼ぼうとは思ったのだが、詮議が紛糾して……それも隆昌が珍奇なことを言い出したからだが……」
呟く弄月の表情は、真に困り果てている。内容を尋ねようにも、謝元宝はすでに官を退いた身だ。触れるべきか迷ううちに、大きな嘆息が返ってきた。
「謝よ。東宮は、キュウの使節を水芳宮で迎えるべきと言い始めた。余は悪くない策だと思っているが、それでおまえは、『守れる』か」
「嗚呼……そういう話になっているのですか」
老爺は頷いた。
「融風を宮都より離すは、良策かと。それでなにがあるかは、流れによりますが。小生如きが、あの古い陰鬱な一門に対して、どれほどの力になれるか分かりませんが、そのように努めましょう」
「頼む。瓊と碧玉、そして、どこに転がるか知れぬ玉を守ってくれ」
「知れぬのですか……」
老骨頭には厳しいですなあ、と老人は唸った。
弄月の言うことも、分からなくもない。韶華という少女は、公主として生まれてきたとしても、閉ざされた奥の宮に、しまい込んではおけないだろう。
「しかし、静かに過ごしてもらわなければ。あの朝気な春娃に、息を潜めろとは、言いにくいが……承りました」
横心した謝元宝の答えが、間に響いた。
***
「望舒党! 望舒党が出たよ!」
浮かれた声が、甘棠の路の大小を問わず、流れて行く。
失物を手にした者は、言ってはならないと知りつつも、あれを拾ったこれを拾ったとささやき合った。
望舒党の失物、すなわち銭鈔が、南市から生活刻苦な庶人へとばらまかれたとなれば、浮き立つのも当然だろう。
匪賊の活動は、長らく途絶えていたこともあって、喜ぶ者たちで宮都はあふれかえった。
「でもよ、なんで北洛の大家にまで撒かれてんだ?」
「そっちには、吾らの手の届かねえような逸品が、落とされてたって話だが」
「望舒党も考えてくれてんのさ。我らには、中用じゃねえだろ。どんだけ喜手でも画軸とかじゃあなあ……」
失物でも、売れば盗みと変わらない。被発覚は困るのである。
「だけどよう……これは、花紅ってやつじゃねえの?」
「はあ? 皇上の、大婚のかい? 匪徒だぞ?」
「そうだけど、えらくばらまか……落としてるって、話だし」
「どうなんだろうなあ。お祝いなのかねえ?」
思わぬものを手にして浮かれるあまり、東西が分からなくなることもある。いつしか失物は、望舒からの大婚の祝いとみなされた。
それゆえに、庶人が用項に慎重になったのは幸いだった。一次に銭鈔が溢れたなら、無用な估買の上昇も招きかねない。
もっとも、全てを足してみれば、そこまで労心する量でもなかった。估買の変動という意思では、北洛の者にあてがわれたという逸品のほうにこそ、難があった。
庶人にとっては係わりのないことであるが、見る者が見れば、それがどこから、どのように流れてきた物か、分かってしまうのである。
降ってわいた花紅に著迷になる庶人を睇視に、僅かな者たちだけが、乱子が収まることを祈りつつ、息を殺していた。
「韶華……」
「なにかなあ、静影」
香青路の作房で、大小の影が対面で座る。戸の外、少し離れた場から、子どもらのはしゃぐ声が響いてきた。
双眸の紫石に影を落とした男が、微かに大息を吐いた。
「なあ、韶華。どうして晨風が、ここで小児に棒術を教えているんだ?」
「あー……わたしが頼んだの。快諾してくれるなんて、良いひとだよね」
快諾に偽りが混じったところは、しっかりと感知されたらしい。静影の眉間に激しい疑いの証が加わった。
韶華は分かってるよ、と言わんばかりに微笑んでみせた。
禁軍の使う武術は、ある意思で秘方。風聞によれば、庶人に教えて良いものではないらしい。
そこをなんとか支吾するのも、秘方を継ぐ者の努めだろう、と押し切られ、少年は泣き笑いの表情で承諾した。杜家の季児が睨んでいる前では、せざるを得なかったのかもしれない。
「まあいいじゃない? 宮都を守る夜察が、なんかうまく弄假されちゃったとはいえ、望舒党と通同になったんだし、禁じられた武術が漏洩するくらい……」
「そこだ。おまえは、どうして夜察が来てると知った? しかもアレを……堂堂と南市に運ばせたりして……あの場ではなにも言わなかったが、望舒党の失物があそこから流れたと、これだけ風聞なれば、どうしたって考えずにおれないだろう。報告を受けた紅龍が、疑っているのだが」
「疑ってるだけなんだ?」
「なにか言いたそうに、こっちを見てる……」
頭を抱えた静影を見ながら、韶華は真卒だなあと嘆息する。疑いは、疑いのままにするがいいのである。
そもそも夜察に運べと当面に言ったのは、館第の主、沈家の息子である。匪徒に盗まれた、とは言いがたい。
夜察も遣漏と告げられれば、瑰宝を運び出す援助くらいするだろう。銀両の函を含め、運ぶ去路が市なのは、まあ、なにかの開支のためと考えれば良い。
事実だけ見れば、夜察たちはなにも壊事に加わっていない。
韶華は李潭と沈家の読書会に招かれ、居合わせただけ。
静影は漫歩の中途で、夜察と話をしているうちに、騒ぐ声が聞こえたので、介士として踏み込んだだけなのだ。
「どこにも古怪はないよね?」
「俺だけ、解釈が長くないか? それに漫歩って、子夜だぞ。彷徨癖を疑われるのでは? 夜察と話すのも、不審を問われているように思われるだろうが。だいたいな……」
武人としての本分を思い出した、査牙しい視線が韶華に向く。
「南市から、どうやってあれを……ばらまいた? 俺はおまえを、家まで送ったよな? 平明まで間があったとはいえ、また行く暇なかったろう」
「静影……あのさ、望舒党って、わたしと冬栄だけなんだよ。当先から、撒くのは別にいるんだよ」
紫石にゆらぎがあって次の瞬間、静影は椅子から立ち上がった。根本を放過していたことに、ようやく気づいたらしい。
怪聞つきまとう白果舎――かの書肆は出版も為し、固然、黒道なものも含まれている。それらを官方の目を欺き、宮都にばらまくには、それなりの宇下を持っていなければならない。
禁書を届けるが如く、失物を配る。たったふたりの匪賊は、白果舎の持つ設施を利用して、目的を完成させているのである。
「だからさあ……預告は必須なわけよ。望舒党が持ってきたって、分かるようにしないと、市に置いてあるモノだからって軽易に配ったら、盗みになっちゃうし」
「そこだけ法令遵守か!」
「わあ、褒められた」
成心らしく照れてみせて、韶華は卓上に銭鈔をぱらぱらと置いた。
言うまでもなく、沈家から持ち出された望舒党の失物である。
静影の貌が、虚無に支配された。




