望舒参上之二
宴も酣――酔いも回りに回って、男たちは動けそうもない。
冷めた視線を巡らせると、足許では、朝四暮三男も安らかに寝ている。
ただし、こちらは振りであるのが分かっている。寝てさえいれば、咎められないと考えているらしい。
韶華は落ちていた筆を拾い上げた。
「な、なにするの」
「並べなさい」
「あ、ハイ」
ふらつく脚で、李潭は男たちを並べ始めた。
その間に、韶華は口袋から小さな容器を取り出した。入っているのは、墨ではなく銀を硝酸に溶かしたもの。望舒党が来たと記すために、持ってきている。
ひとの肌理に使っても害はないが、いずれ消えはするものの、軽く洗ったくらいでは易易と落ちない。
「終わったけど……」
韶華は頷き、それぞれ男の前額に『馬虎男』と書き込んだ。
しばらく見ていた李潭は、自身も逃げなくてはいけないことに回神した。それは彼にも、書き込まれるはずである。おそらくは、もっと厳しい言で。
踵を返したものの、酔った矩歩で逃れる術はない。韶華が待てと低声でささやくだけで、李潭の脚はもつれた。
少年の顔色の旁に烏黒色の長靴が、とん、と降りる。
「逃げるってことは、少しは分かっているんだよね……額子は許しても良いけど、太君には封信を出しとくから、怒られなさい」
「う、うん……あの」
「というわけで、起きて?」
言われたのは李潭ではなく、朝四暮三男だった。
のろのろと起き上がる男の面貌に、韶華はさっと、字だけでなく、泥鰍のひげらしきものも書き込む。
「あのう……終わりましたら、もう、寝ても良いでしょうか……」
「不容」
怯える沈家の浪子、朝四暮三男に、韶華は小筒から出した小刀を突き付けた。
「自己家で行う局なら、勝てたって言ったね? かなり儲けたんじゃないかな?」
「小……いやあのなんでもない」
韶華に睨まれ、李潭は封口した。
彼が口にしかけた小華は、ごく僅かなひとしか呼ばなかった綽名なので、聞かれても困らなかったかもしれない。
だが、今の韶華は望舒党という匪徒である。知己であると知られてはいけないことを、敏い少年はすぐに理解した。
止めてくれる者を失ったと知った男は、投案した。
「賭場に、まだ残ってる債務もあるんで儲けた……と言えるほどじゃあ、ないんです。それに、ここでの老本は、あれはその……老太太が貢挙のために使えと準備してくれたもので、使わなかったから落ちたなんて言えなくて……」
「そこまで準備するとは……困った一門だねえ」
進士が教えてくれた、酒宴に耽る処士の前輩とはつまり、この朝四暮三男のことであったらしい。もっとも張の大兄を酒精中毒にしたのは、白酒を勧める老太婆のようだが。
「あのっ、貢……貢挙のために使う老本って、どういうことなんですかっ」
李潭が男の肩を掴んだ
「そ、それはだなっ、おれは少し脳力が」
「少し?」
韶華の切り返しを受け、男は改口した。
「えっと、かなり脳力が足りず、登科に及びそうもないのを担心して、老太太が、替身を雇えと銀両を下さったのだ。だがおれは、できると信じて貯め……使わないでおいた」
「それって……不正だよ!」
「うむ。だから、やらなかった! それに、阿耶からは吏部銓に使うための納賄を頂いたが、これも酒……官人には、渡さなかった!」
どうだ、偉いだろうと胸を張る男を見ながら、韶華は嘆息した。
どのあたりを信心とするかは、ひとによるので好きにすれば良いが、真卒な李潭に、宮城の做法を教えるのは止めて欲しいものである。
(だけど、左丞相の息子でも、受ければ受かるものじゃないんだねえ。貢挙って)
無を有にはできない。登科に足るだけの巻子は、必須というわけだ。
「納賄にしなかった代わりに、賭事の債務になるのはどうかと思うけどね。さて、哥哥、悪いけどそれ、正しく慎ましく生きている万世がため、望舒党の手に渡してもらいましょうか!」
「どうして残していると分かる……!」
「残してるっていうか、足りなくなる毎にもらってるのでは? 未だに読書会をしていると家人が考えているってことは、次の納賄に使えるよう準備を! して! いる! はず!」
甚だしく心煩な話であるが、それが貴族の家常である。
韶華は、男の鼻先に刀口をひらめかせた。
「どうせ、それも元は誰ぞからの納賄。愚かにも花費されるだけなら、使わせてもらう! ほら、向導を!」
「怖い止めて分かりましたこちらですこっち!」
這いずる男に、韶華と李潭が続く。
「小潭潭……ついて来なくてもいいんだけど?」
「えっ? あ、そうか」
「ついて来たなら、共同で失物を運び出してもらうけど」
失物とはなんだろうと頭をひねる李潭を見ると、まだ酔いは抜けきっていないようだ。このまま韶華につき合えば、匪徒の手下とみなされるかもしれないことに、理解が及んでいない。
もっとも、ふらふらと歩く沈家の男も、その辺りは理解していないようで、敢えて触れることもない。外で待たされている静影に比べれば、李潭はその場に居合わせただけ、と借口できるはずだ。
「ところで、哥哥。行く向きを考えると……武成殿に入ることになるね?」
「んんー……ああ、そんな扁額みたいなのも、あったっけね。筆迹が良いよねえ。阿耶もそこが値心して、買ったんじゃないかなあ」
沈家の浪子の淡泊とした言からすると、自身の館第については、なんの考えも抱いていないようだ。
(そうでなきゃ、ひとを入れたりしないか……)
韶華は呆れつつも、朝四暮三男の権勢に疎い質を喜ぶべきか迷った。
どれだけ局があったか知らないが、読書会で来た者が、宮城を模した扁額を見れば、風聞にならないはずがない。
なっていないということは、沈家の浪子にまとわりつく朋友たちも槐門におもねるつもりはなく、ただ、賭事と酒が目的だったのだ。
健康倫理的には不妙だが、政治的には善い友人を持ったのではないか、と考えるのは間違っているだろうか。
「あのう、ここです……」
男が入ったのは、書院らしき屋子だった。
隅に組み合わせたままの燕几が草卒に置かれ、ほかに椅子と几案があるだけの小さな間だ。
几案の上に冊子や烏紙があるので、使っている者はいるようだが、どう見ても、庫房ではない。
韶華に疑う視線を向けられ、男は慌てて奥にある扉を示した。
「ここ、この中です」
鑰匙はかかっておらず、扉はすぐに開いた。
庫房によくある、澱んだ風色はない。よく使われている、と思う内を見て、韶華と李潭の口から大息が洩れた。
驚くような広さに、呆れるほどの銀両の函が、そして、誰が買えるのだろうかと思うほどの高価な瑰宝が、積まれていた。
「老兄の債務って、これだけあっても、まだ払えないんだ……三両、四両でも返せるように思えるけど」
「だって、少しずつでって忠告されましたし、やっぱり上午に活力は必要ですし、それに銀両はともかく、壺や香炉を売って、老太太に知られるのも……不妙ですからあ……」
「知られるもなにも、底の抜けた盆子を埋めなきゃならない老太太の労苦を考えるべきでは! てか、どれだけ姑息なの老兄の一門は!」
函を開けると、みっちり。というほどでもないが、銀両が詰まっていた。減った部分は使ってしまったのだろう。
しかし、見たところ、後ろの函には手も触れられていない。積まれた函を数え、韶華は大きく口を開けて恍惚している李潭を振り返った。
「老弟、函を外に出しておいて。旁の落地の扉を開ければ、院子に出られるはずだから。浪子にも輔助させるように……ほら、開始!」」
なかなか動き出さないふたりを急かし、韶華は書院に戻った。静影が待っている正門には、館第内を行くほうが早い。
だがそこで当先に見たのは、落ちている篇子だった。
淡い一条の星明りに、仄かに白く照らされているもの。
不久前は、なかったはずのものだ。
そして、
「要安静」
黒衣が、韶華を止めた。
「闖入者に言われてもなあ……」
韶華の低声に、言の代わりの深い大息が返された。
黒衣の男、禁軍に属する者、黒風と呼ばれる彼に、そこまで忌避される覚えはないが、この場で出会ったことを考えると、向こうも同じ考えを抱いているのかもしれない。
なぜ、よりにもよって、居てもらっては困る場で、会うことになるのか、と。
ただし韶華は、それを口にしなかった。ここに居る理由を黒風に問えば、答えは不穏なものにしかならないだろう。
以前に遭遇したのは『沈家が学生たちを集めた別邸』であって、ここ、『沈家の家人が住む別邸』ではない。
おそらく彼は、韶華が隔壁に不料で入り込んだのとは違い、向こうで叶わなかった目的のために、こちらに来ている。
局促になって、韶華は足許の篇子を拾おうと、手を伸ばした。
「停」
動きを止めた韶華の当前から、紙片が消える。
それは、黒衣の男の手の内に移っていた。
「読む必要はない」
「今……なにやったの? 釣った? 糸、見えなかったけど。それとも視線で物を動かせるの? お姉ちゃんは男なら動かせるけど」
坏心なく賛辞のつもりで言っているのだが、黒衣の男は応じなかった。どちらかというと、厭そうである。
「故意に話題を変えたのに、細人なッ」
「静影が同伴を弄假している間に、帰れ」
「同伴……?」
頷くだけで、男は答えを返したつもりらしい。
「どの品類の同伴か、言ってくれても良いと思うんだけど……まあいいや。乗便に函を共同で運んでくれると嬉しいな」
「断る」
「やっぱり、わたしだと不成か……まあいいや。暇でもないだろうしね」
「暇……?」
男の眉が僅かに上がる。白浄の貌に浮かんだ表情は、韶華の知らない領域のものだった。
韶華は黒風の目を覗き込んだ。
分からないものを知るためには、見るしかない。喋らない者を、喋らせるためにも、見なくてはならない。ただし狙は、目を見ると回撃してくるので、してはならない。
幸いにして黒風は狙の質ではないようで、黙って目を逸し、冴えた旁臉を少女に晒した。
似てもいないのに、韶華は静影を思った。
こんな時、直率な棠梨の将ならば、言ってしまっているだろう。あるいは、すぐに言わなくても、いつか必ず話してくれる。それは堅信のようなものだ。
けれど黒風には、「他日」がない。少なくとも、まだ、次があることを信じていない。
だから彼は、言おうか言うまいか、迷っている。
「あのさ……」
「瑠璃を張望しろ」
男の絞り出す声は、短かった。
「張望……って、瑠璃を?」
「人家の瑠璃を張回したいなら、そうしろ。あの幼い子から目を離さずに、それができるなら」
訊笑と取れそうな言の内側に、微かに焦れるものを感じる。その理由が韶華には分からず、首を傾げた。
たとえば姉、朱蕣について言うなら分かる。禁軍の男が言えば、それは宮中の穏やかならざる情形を表しているだけだ。そしてそれが、幼い妹に及ぶのならば、妹のみでは済まないはずで、ひとりを提名することに意思はない。
「つまり、瑠璃にだけ、なにか……起こるかもしれないんだね?」
男は答えなかった。ただ名に反して微かな風を残し、去った。
追おうとした韶華を、困惑しきった李潭の小さな呼び声が引き留めた。
「あの、なんか、ひとが来た……けど」
「ひと? まさか家人……」
見つかったのなら、不妙。というほどには、李潭の声調に欠佳は感じ取れなかった。
「韶華……」
純黒の髪と紫石の双眸が、闇の帳を分けて現れた。




