表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
56/117

望舒参上之一

 明るい星の(きらめ)きと、暗く蒼い夜空。月はもう沈んでおり、影を明白にすることもない。

 濃密な熱を含んだ風も子夜(よふけ)になって滞り、気になるほどではなくなった。肌理(はだ)に熱の鞭を振るうのは、やはり炎天だけなのだろう。

 韶華(ショウカ)は、頭巾から髪がはみ出ていないかを確かめ、作勢(ポーズ)をきめた。

「わけあって名は伏せさせてもらう。ただし、そんな送料(よそう)はしてなかった! なんで静影(セイエイ)がここにいるのっ?」

「だから匪徒の模倣は……今は正しく望舒(ボウジョ)党だったか」

 軽い戎衣(ぶそう)甲士(へいし)大息(ためいき)を吐き、抑えきれない思いを隠すように、紫石(するどさ)の勝ちすぎた双眸を伏せた。

「どうして静影は、いつもわたしの行くところにいるの。事情(わけ)があって今天の打算(よてい)は、冬栄(トウエイ)先生(さん)も知らないのに」

「殿下も知らない? どういうことだ。詮議で忙しいから、おまえひとりでやらされているのかと……」

「静影、やっぱり、老白(ハクじーさん)から聞いたんだ」

 韶華は、紫石(するどい目つき)ながら担心(しんぱい)する男を見上げた。

 ここに来たのは、私下(こじんてき)な理由のためであり、望舒党の活動としては、目的が少しずれている。だから準備には、白果(ハクカ)舎の力を借りたのである。

「なにをするかは、話してないんだけど……分かっちゃうんだなあ」

「老人に労心(しんぱい)させるのは良くない。ひとりでなければ、(ほう)っておいたと老板(てんしゅ)は言っていたが、俺に知らせるのは正しい判断だ。だが、あれは……」

 静影は、兵営に現れた老爺の姿を思い浮かべた。

 書肆で見たような大方(おっとり)とした印象はなく、工匠(しょくにん)にも使丁(めしつかい)にも思える質朴な(てい)で、老爺は悄悄(こっそり)とやってきた。

 しかし静影は彼の長相(かおかたち)を覚えていたにも拘らず、名乗るまで、そのひとが誰か思い出せなかったのだ。

「あの男は……深間(間者)でも通りそうだ」

 惑う紫石の双眸を見ながら、韶華は軽く笑みを作った。白老人に会った者は、よくそういう表情をする。

 形に変わりがないゆえに、韶華は老板の『化装(へんそう)』に、勉勉強強(かろうじて)引っかからなかったが、情態(たいど)を変えるだけで、あれだけ印象が変わるのかと驚いたものである。

「でも、ひとの印象なんて、考えるより定まらないものなんだよ、きっと……老白は、わたしを白果舎に誘ったけど、坏事(あくじ)には係わらせなかった。静影にも、必要はなかったのに、知らせてくれるんだ……わたしも、高雅な(カッコイイ)絹甲の偉い将軍が、静影だって面貌(かお)を見るまで分からなかったし……思い込みって、惑わせるものだよね」

「ひとを評判でき(見定められ)ないと困る将兵としては、同意しにくいが……そうか、高雅か。あれは選ばれた匠の手によるもので、特に繍匠(ししゅう職人)は、歴代の皇后に仕えた宮女の主持(たんとう)だ。皇上の御厚意とはいえ、贅は好まないから少し困ったのだが……褒めてもらえて良かった」

「わたし、絹甲を褒めたんじゃないんだけど」

「それなら、なにが高雅なんだ?」

 韶華は封口し(だまっ)た。答えるのも麻煩(めんどう)だ。忘れていたが、彼は髪飾りを褒めて、ひとを褒めたつもりになるような男だ。賛辞は全て、物に向けられるものと思っているのかもしれない。

(膠固(カタい)とかの話じゃないよね、それは……)

 大息の代わりに、韶華は軽く勢いをつけて土塀の上に乗った。

 その動作は、誰が見ても慣れていると言うようなもので、静影も少女の軽やかさを見るのは初めてではないが、驚きを露わにした。

「静影は正門で待ってて。大きな紛事(さわぎ)にするつもりはないけど、うるさくなったら甲士(へいし)として、駆けつけた振りをしてくれる?」

「待て、韶……ではなくて、同志。そこには、どうしても入らなければならないのか。黒風(コクフウ)はなにもないと言っていただろう」

「あー……そもそもの目的が違うので……」

「ならば俺……」

 も行くと言うより先、少女の姿は土塀の向こうへ消えた。そう厚い囲墻(かこい)でもないのに、気息(けはい)さえも失われている。

 辺りには音もなく、小さな吐息さえ響かない。じわりと汗の滲む暑さに、全てが練り込まれてしまっているようだ。

 韶華の残した風だけが、微かな爽やかさを置いて行く。していることは、爽やかでもなんでもないにも拘らず。

 静影は、直ちに侵入することは諦めた。韶華の目的は別邸であり、確かにそこだけなら、なにもないはずだからだ。

 少なくとも、禁軍の男が欲しがるようなものは、ない。

 しかし隔壁(となりのいえ)もまた、知られていないが(チン)家の別邸である。黒風が真実、冬栄らの侵入を阻みたかった場は、そちらではないかと静影は考えている。

 そして、冬栄の以前の試みも、間違えて隣に入り込むのが、目的だったのではないだろうか、と。

 静影は正門には向かわず、ふたつの館第(やしき)墻壁(へい)が見えるところに移動した。

 どこで騒ぎが起こっても、応じられるようにしなければならなかった。


***



 内に入ったはいいが、よく繁った緑が去路(ゆくて)を遮る。

 韶華は一次(いちど)正房(おもや)房頂(やね)まで登り、改めて館第を見つめた。

 家の形は、単純な三合院の造りである。後面と右面に細条な(ほそながい)院子(にわ)を挟み、回廊造りの囲墻(へい)がある。便門(つうよう門)も備えられているので、どうやら隔壁(となり)とは、同じ宅基(しきち)であるらしい。

 つまりこの館第は、大きな宅基の一部分を分段し(くぎっ)たものであり、隔壁は本家と考えられる。

 もっとも本家というべき隣もまた、小振りな四合院が土塀を挟み、ふたつ並んでいる。零件(さいぶ)まで凝った造りであるが、あまり使っているようには見えず、全て別宅という扱いなのかもしれない。

古怪(へん)なの。こういうのって、自尊(じまん)するために作ってそうなのに……学生に、槐門(大臣家)の面子を見せたかったとか?」

 首を傾げたところで、沈家の者の思惑など、分かりようもない。早く事を済ませよう――と降りかけた韶華の目に、思わぬものが映り込んだ。

 小さな亭子(あずまや)に掲げられた扁額(へんがく)の字だ。

月雪(ゲツセツ)亭……って」

 よくある美しい名というには、覚えのあるものが、韶華の心目(こころ)を騒がせる。

 大きさも明堂の造りも正確には異なる。四方を囲んで堂屋(いえ)を建てれば、似るのは当然。

 だが、眼下に広がる形を韶華は知っている。遠くから見える限りの扁額にも、やはり知った字が書かれている。武成(ブセイ)迎宮(ゲイキュウ)昭彰(ショウショウ)麗春(レイシュン)。奥には、海の字だけが見える堂がある。

 あれはもしや、海棠(カイトウ)宮のつもりなのか。

 正房に掲げるは棠梨(トウリ)の花の別称、常棣(ジョウテイ)園。皇帝の住まう喜佑(キユウ)殿とは、できなかったのか、見られることを鑑み、止めたのか。

 この家は、疑いようもなく、宮城を模して作られている。

 沈家がどんな思いで作ったにせよ、宮城を自身のものとみなすような名付けに、韶華は微かに冷戦(みぶるい)をした。

 淡く燈火が洩れて見え、後宮を模した奥の房にだけ、ひとが居るようだ。そこに住む者は、扁額の意思(いみ)を理解しているのかと、問いかけてみたくなる。

 韶華は知らず知らず、皇帝が執務を為す場、すなわち武成殿と扁額(がく)を掲げた堂屋(たてもの)に近づいた。

 誰もいない。けれど、神異(きみょう)なほど熱が伝わってくる。

 風がもたらすものでないなら熱はどこから、と見まわした韶華は、西堂と東堂を模した庁堂のうち、西側で響く音に気づいた。

 床板まで届く落地の扉に、光が洩れないよう布片(はぎれ)糊縫(めばり)されている。

 音はその中から響いているようだ。暗いだけに、ひっそりと静まりかえっていなければならないことが、却って不太自然(どこかへんだ)と気づかせた。加えて言うならば、酒の匂いだけは、隠しようもなかったのである。

 韶華は口罩(マスク)を引き上げ、面貌(かお)を隠した。

 と、扉が開き、男がひとり出てきた。内側にも切合(ぴったり)と暗幕を掛けてあるようで、中の明るさは見出せなかったが、男が燭台を手にしていたため、姿を見るのに難はなかった。

 ふらふらと頼りない矩歩(あしどり)が示す通り、男はかなり酔っている。

 やがて、もうひとり、酒の匂いを漂わせた苗篠な(すらりとした)影が続いた。

「わけあって名は伏せさせてもらう! こんなところでなにしてるかッ! 李潭(リ・タン)、ならびに朝四暮三ッ!」

「ひい望舒党っ? 望舒党がなぜそれをを痛、痛痛っ」

 転げた敗家子(どうらくむすこ)の肩を小筒で激しく叩く、烏黒の徒。

 男の(うすぎぬ)(うわぎ)では、痛みから守りきれるはずもないが、中の小刀を使わなかっただけ感謝して欲しいものである。

送料(よそう)は正しく働かせんかいッ。藍雪(ランセツ)路ではすっかり知られているではないかっ。てかあんた、沈家の郎子(むすこ)? もしや賭好きが高じて、賭場だけでなく、自己家(じたく)でも賭事をしてるとは言うまいなっ」

「してますごめんなさい。出かけるのも止められるようになってしまってえええ」

 迷于賭(ギャンブルマニア)というより賭病(いぞんしょう)である。馬上(すぐに)治療が必要だ。

 しかし、鶉衣(ぼろぎ)で取り繕っていない男が真実沈家の息子であれば、賭場の老板(あるじ)が離そうとしないのも、分かろうというものだ。流気者(ヤクザ)が左丞相から恩恵(かし)を取る見機(チャンス)など、あるものではない

 今は家人(かぞく)によって、強制的に引き離されているようだが、

「ええい、朝四暮三でも懲りなかった上に、藍雪路に行けないからって、自己家で一局(開帳)とはっ! しかも子どもを巻き込んで! 検討(はんせい)しましたで済むと思うなそれから!」

 韶華が振り向くと、酔いも醒めたらしい少年が、樓道(ろうか)に座り込んでいた。

 少年の唇が、声は出さずに小華(ショウカ)と動く。

(分かっちゃったか。まあ、そうだよね……声は変わらないしね)

 韶華は軽く嘆息して、李潭の前額(ひたい)を指で弾いた。真面目(しょうたい)を知られようと、賭事も飲酒も、許すわけにはいかない。

老弟(キミ)読書(べんきょう)会と言ってこれかっ! 太君(ちちぎみ)を泣かせたいわけ? なんでこんなことになった……!」

 それは愚問であったかもしれない。

 真卒(まじめ)だけが出息(しゅっせ)法子(ほうほう)と努めてきた少年が、財貨を飽きるまで使い尽くすだけの大家(おかねもち)浪子(ぼんぼん)と係われば、坏事(あくじ)に溺れるのは明らかだ。

「あああ怒らないでー怒らないであげてええーおれがどうしてもって、言っただけなんだよおおー」

「はあ?」

 韶華の足許で、男はすがるように頭を下げた。

開首(さいしょ)は、確かに読書会だったんですよお! だけど、少し休むつもりで双六棋盤(すごろく)を出したらすっかり著迷(むちゅう)になってしまって気づけば賭事になって……だって、おれが勝てるんですよおおお! あっちじゃ負けっぱなしだったのにいいい!」

「それはまあ……あちらも行家(プロ)だからねえ……」

 生かさず殺さず絞り取る。花客(おとくさま)の扱いは、彼らの意向(おもわく)ひとつで決まるのだ。

「そうしたら、負け続けが悔しかったのか、国子学(だいがく)故人(なじみ)が連れてきたのが、潭潭(タンタン)でっ。あいつも大頭(カモ)にするつもりだったのかもしれないけど、潭潭てば勝って勝って勝ちまくるものだから、ああ彼に学べば、あっちでも勝てるかなあと嬉しくなって、少しでも教えを乞おうと思って、来てくれって頼んだんですよおお」

「潭潭て! 綽名(あだな)までついてるし!」

「ご、ごめん。勝ち逃げは困るとか言われると、抜けるわけにはいかなくて……」

大愚(ばか)ですかっ。それは負けて終われってことでしょうが! こっちの敗家子(ぼんくら)と同じようには、債務を払えないんだからね!」

「ぼくは勝ってるから債務は……」

「それが大頭(カモ)なの! 賭気(いじにな)ってるってことなの! もういいから解散しなさい!」

 領子(えり)を掴み、烏黒の少女が男を引きずって歩く。そして暗幕を引き払い、酒鬼(のんべえ)を堂の内に投げ込んだ。兒個(たいかく)の違いはあるものの、怒りによる力と、酔っている者の体幹の頼りなさが、それを可能にした。

「うああ望舒党だああ望舒党おおおかっけええ」

「望舒党ってなんだあーなああんだっけー聞いたことがあるぞおおー」

好好(イイヨイイヨ)好帥(カッコイイ)漂亮(ステキぃ)……」

「だめだ酒鬼(よっぱらい)どもが」

 ここまで高趣(アッパー)に耽溺していると、賭けも読書も不成(むり)ではないかと思うのだが、そこを気にかけるような者は、酒など呑まない。

 強いて言うならば、(へや)の隅に書籍と帖子(ノート)が広げられており、読書会の形式を捨てていないところが救いである。

 韶華の視線に気づき、李潭が頭を掻いた。

「今天も礼記の読書から始めて、分からないところとかを、ちゃんと帖子に書いてたんだよ。中途で老大娘(おばあさん)が白酒を運んできて下さって……あっ、怒らないで。ぼくはだいぶ呑まずに処理したよ? 杏子(アンズ)は頂いたけど、あれで頭がぐらぐらして……蜜漬けじゃなかったのかなあ」

「違うね。息からして違うって分かるね。酒の一部分として通身(ぜんしん)、これ醸されてるね。小児に白酒! なんなの、一門総出で酒鬼仕込みする打算(つもり)なの? いくら酒を造る月だからってさあ!」

 (こよみ)通り、酒の仕込みは、鐵器(てっき)霹靂(ヘキレキ)酒を醸すくらいにしておいて欲しい。

「とにかく解……」

 韶華の怒りに満ちた視線の先で、男たちがぐおぐとを鼾をたてて転がっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ