望舒参上之一
明るい星の煌きと、暗く蒼い夜空。月はもう沈んでおり、影を明白にすることもない。
濃密な熱を含んだ風も子夜になって滞り、気になるほどではなくなった。肌理に熱の鞭を振るうのは、やはり炎天だけなのだろう。
韶華は、頭巾から髪がはみ出ていないかを確かめ、作勢をきめた。
「わけあって名は伏せさせてもらう。ただし、そんな送料はしてなかった! なんで静影がここにいるのっ?」
「だから匪徒の模倣は……今は正しく望舒党だったか」
軽い戎衣の甲士は大息を吐き、抑えきれない思いを隠すように、紫石の勝ちすぎた双眸を伏せた。
「どうして静影は、いつもわたしの行くところにいるの。事情があって今天の打算は、冬栄先生も知らないのに」
「殿下も知らない? どういうことだ。詮議で忙しいから、おまえひとりでやらされているのかと……」
「静影、やっぱり、老白から聞いたんだ」
韶華は、紫石ながら担心する男を見上げた。
ここに来たのは、私下な理由のためであり、望舒党の活動としては、目的が少しずれている。だから準備には、白果舎の力を借りたのである。
「なにをするかは、話してないんだけど……分かっちゃうんだなあ」
「老人に労心させるのは良くない。ひとりでなければ、抛っておいたと老板は言っていたが、俺に知らせるのは正しい判断だ。だが、あれは……」
静影は、兵営に現れた老爺の姿を思い浮かべた。
書肆で見たような大方とした印象はなく、工匠にも使丁にも思える質朴な体で、老爺は悄悄とやってきた。
しかし静影は彼の長相を覚えていたにも拘らず、名乗るまで、そのひとが誰か思い出せなかったのだ。
「あの男は……深間でも通りそうだ」
惑う紫石の双眸を見ながら、韶華は軽く笑みを作った。白老人に会った者は、よくそういう表情をする。
形に変わりがないゆえに、韶華は老板の『化装』に、勉勉強強引っかからなかったが、情態を変えるだけで、あれだけ印象が変わるのかと驚いたものである。
「でも、ひとの印象なんて、考えるより定まらないものなんだよ、きっと……老白は、わたしを白果舎に誘ったけど、坏事には係わらせなかった。静影にも、必要はなかったのに、知らせてくれるんだ……わたしも、高雅な絹甲の偉い将軍が、静影だって面貌を見るまで分からなかったし……思い込みって、惑わせるものだよね」
「ひとを評判できないと困る将兵としては、同意しにくいが……そうか、高雅か。あれは選ばれた匠の手によるもので、特に繍匠は、歴代の皇后に仕えた宮女の主持だ。皇上の御厚意とはいえ、贅は好まないから少し困ったのだが……褒めてもらえて良かった」
「わたし、絹甲を褒めたんじゃないんだけど」
「それなら、なにが高雅なんだ?」
韶華は封口した。答えるのも麻煩だ。忘れていたが、彼は髪飾りを褒めて、ひとを褒めたつもりになるような男だ。賛辞は全て、物に向けられるものと思っているのかもしれない。
(膠固とかの話じゃないよね、それは……)
大息の代わりに、韶華は軽く勢いをつけて土塀の上に乗った。
その動作は、誰が見ても慣れていると言うようなもので、静影も少女の軽やかさを見るのは初めてではないが、驚きを露わにした。
「静影は正門で待ってて。大きな紛事にするつもりはないけど、うるさくなったら甲士として、駆けつけた振りをしてくれる?」
「待て、韶……ではなくて、同志。そこには、どうしても入らなければならないのか。黒風はなにもないと言っていただろう」
「あー……そもそもの目的が違うので……」
「ならば俺……」
も行くと言うより先、少女の姿は土塀の向こうへ消えた。そう厚い囲墻でもないのに、気息さえも失われている。
辺りには音もなく、小さな吐息さえ響かない。じわりと汗の滲む暑さに、全てが練り込まれてしまっているようだ。
韶華の残した風だけが、微かな爽やかさを置いて行く。していることは、爽やかでもなんでもないにも拘らず。
静影は、直ちに侵入することは諦めた。韶華の目的は別邸であり、確かにそこだけなら、なにもないはずだからだ。
少なくとも、禁軍の男が欲しがるようなものは、ない。
しかし隔壁もまた、知られていないが沈家の別邸である。黒風が真実、冬栄らの侵入を阻みたかった場は、そちらではないかと静影は考えている。
そして、冬栄の以前の試みも、間違えて隣に入り込むのが、目的だったのではないだろうか、と。
静影は正門には向かわず、ふたつの館第の墻壁が見えるところに移動した。
どこで騒ぎが起こっても、応じられるようにしなければならなかった。
***
内に入ったはいいが、よく繁った緑が去路を遮る。
韶華は一次、正房の房頂まで登り、改めて館第を見つめた。
家の形は、単純な三合院の造りである。後面と右面に細条な院子を挟み、回廊造りの囲墻がある。便門も備えられているので、どうやら隔壁とは、同じ宅基であるらしい。
つまりこの館第は、大きな宅基の一部分を分段したものであり、隔壁は本家と考えられる。
もっとも本家というべき隣もまた、小振りな四合院が土塀を挟み、ふたつ並んでいる。零件まで凝った造りであるが、あまり使っているようには見えず、全て別宅という扱いなのかもしれない。
「古怪なの。こういうのって、自尊するために作ってそうなのに……学生に、槐門の面子を見せたかったとか?」
首を傾げたところで、沈家の者の思惑など、分かりようもない。早く事を済ませよう――と降りかけた韶華の目に、思わぬものが映り込んだ。
小さな亭子に掲げられた扁額の字だ。
「月雪亭……って」
よくある美しい名というには、覚えのあるものが、韶華の心目を騒がせる。
大きさも明堂の造りも正確には異なる。四方を囲んで堂屋を建てれば、似るのは当然。
だが、眼下に広がる形を韶華は知っている。遠くから見える限りの扁額にも、やはり知った字が書かれている。武成、迎宮、昭彰、麗春。奥には、海の字だけが見える堂がある。
あれはもしや、海棠宮のつもりなのか。
正房に掲げるは棠梨の花の別称、常棣園。皇帝の住まう喜佑殿とは、できなかったのか、見られることを鑑み、止めたのか。
この家は、疑いようもなく、宮城を模して作られている。
沈家がどんな思いで作ったにせよ、宮城を自身のものとみなすような名付けに、韶華は微かに冷戦をした。
淡く燈火が洩れて見え、後宮を模した奥の房にだけ、ひとが居るようだ。そこに住む者は、扁額の意思を理解しているのかと、問いかけてみたくなる。
韶華は知らず知らず、皇帝が執務を為す場、すなわち武成殿と扁額を掲げた堂屋に近づいた。
誰もいない。けれど、神異なほど熱が伝わってくる。
風がもたらすものでないなら熱はどこから、と見まわした韶華は、西堂と東堂を模した庁堂のうち、西側で響く音に気づいた。
床板まで届く落地の扉に、光が洩れないよう布片で糊縫されている。
音はその中から響いているようだ。暗いだけに、ひっそりと静まりかえっていなければならないことが、却って不太自然と気づかせた。加えて言うならば、酒の匂いだけは、隠しようもなかったのである。
韶華は口罩を引き上げ、面貌を隠した。
と、扉が開き、男がひとり出てきた。内側にも切合と暗幕を掛けてあるようで、中の明るさは見出せなかったが、男が燭台を手にしていたため、姿を見るのに難はなかった。
ふらふらと頼りない矩歩が示す通り、男はかなり酔っている。
やがて、もうひとり、酒の匂いを漂わせた苗篠な影が続いた。
「わけあって名は伏せさせてもらう! こんなところでなにしてるかッ! 李潭、ならびに朝四暮三ッ!」
「ひい望舒党っ? 望舒党がなぜそれをを痛、痛痛っ」
転げた敗家子の肩を小筒で激しく叩く、烏黒の徒。
男の羅の襴では、痛みから守りきれるはずもないが、中の小刀を使わなかっただけ感謝して欲しいものである。
「送料は正しく働かせんかいッ。藍雪路ではすっかり知られているではないかっ。てかあんた、沈家の郎子? もしや賭好きが高じて、賭場だけでなく、自己家でも賭事をしてるとは言うまいなっ」
「してますごめんなさい。出かけるのも止められるようになってしまってえええ」
迷于賭というより賭病である。馬上治療が必要だ。
しかし、鶉衣で取り繕っていない男が真実沈家の息子であれば、賭場の老板が離そうとしないのも、分かろうというものだ。流気者が左丞相から恩恵を取る見機など、あるものではない
今は家人によって、強制的に引き離されているようだが、
「ええい、朝四暮三でも懲りなかった上に、藍雪路に行けないからって、自己家で一局とはっ! しかも子どもを巻き込んで! 検討しましたで済むと思うなそれから!」
韶華が振り向くと、酔いも醒めたらしい少年が、樓道に座り込んでいた。
少年の唇が、声は出さずに小華と動く。
(分かっちゃったか。まあ、そうだよね……声は変わらないしね)
韶華は軽く嘆息して、李潭の前額を指で弾いた。真面目を知られようと、賭事も飲酒も、許すわけにはいかない。
「老弟も読書会と言ってこれかっ! 太君を泣かせたいわけ? なんでこんなことになった……!」
それは愚問であったかもしれない。
真卒だけが出息の法子と努めてきた少年が、財貨を飽きるまで使い尽くすだけの大家の浪子と係われば、坏事に溺れるのは明らかだ。
「あああ怒らないでー怒らないであげてええーおれがどうしてもって、言っただけなんだよおおー」
「はあ?」
韶華の足許で、男はすがるように頭を下げた。
「開首は、確かに読書会だったんですよお! だけど、少し休むつもりで双六棋盤を出したらすっかり著迷になってしまって気づけば賭事になって……だって、おれが勝てるんですよおおお! あっちじゃ負けっぱなしだったのにいいい!」
「それはまあ……あちらも行家だからねえ……」
生かさず殺さず絞り取る。花客の扱いは、彼らの意向ひとつで決まるのだ。
「そうしたら、負け続けが悔しかったのか、国子学の故人が連れてきたのが、潭潭でっ。あいつも大頭にするつもりだったのかもしれないけど、潭潭てば勝って勝って勝ちまくるものだから、ああ彼に学べば、あっちでも勝てるかなあと嬉しくなって、少しでも教えを乞おうと思って、来てくれって頼んだんですよおお」
「潭潭て! 綽名までついてるし!」
「ご、ごめん。勝ち逃げは困るとか言われると、抜けるわけにはいかなくて……」
「大愚ですかっ。それは負けて終われってことでしょうが! こっちの敗家子と同じようには、債務を払えないんだからね!」
「ぼくは勝ってるから債務は……」
「それが大頭なの! 賭気ってるってことなの! もういいから解散しなさい!」
領子を掴み、烏黒の少女が男を引きずって歩く。そして暗幕を引き払い、酒鬼を堂の内に投げ込んだ。兒個の違いはあるものの、怒りによる力と、酔っている者の体幹の頼りなさが、それを可能にした。
「うああ望舒党だああ望舒党おおおかっけええ」
「望舒党ってなんだあーなああんだっけー聞いたことがあるぞおおー」
「好好ー好帥ー漂亮……」
「だめだ酒鬼どもが」
ここまで高趣に耽溺していると、賭けも読書も不成ではないかと思うのだが、そこを気にかけるような者は、酒など呑まない。
強いて言うならば、間の隅に書籍と帖子が広げられており、読書会の形式を捨てていないところが救いである。
韶華の視線に気づき、李潭が頭を掻いた。
「今天も礼記の読書から始めて、分からないところとかを、ちゃんと帖子に書いてたんだよ。中途で老大娘が白酒を運んできて下さって……あっ、怒らないで。ぼくはだいぶ呑まずに処理したよ? 杏子は頂いたけど、あれで頭がぐらぐらして……蜜漬けじゃなかったのかなあ」
「違うね。息からして違うって分かるね。酒の一部分として通身、これ醸されてるね。小児に白酒! なんなの、一門総出で酒鬼仕込みする打算なの? いくら酒を造る月だからってさあ!」
暦通り、酒の仕込みは、鐵器で霹靂酒を醸すくらいにしておいて欲しい。
「とにかく解……」
韶華の怒りに満ちた視線の先で、男たちがぐおぐとを鼾をたてて転がっていた。




