発覚之四
朱蕣に会ったあと、韶華は国子学に向かった。
今天、大学に行く必要はなかったが、李潭には、会わねばならなかった。
事は急ぎ――とはいえ、今から行っても課が終わるまでは、ぼんやりと待つだけだ。
だから韶華も、門柱の旁で、彷徨いている人物に気づくまで、矩歩を速めたりはしなかった。
「あれは……李潭、の太父! 李叔叔!」
呼ばれた男は小華、と懐かしい称呼を呟き、硬かった表情を緩めた。
「ああ、そんな称呼で呼ぶべきではないね。きみも、もう気派な令女だ……でも、会えて良かった」
「いいんです。大学のひとに、牢騒少女以外で呼ばれるだけで、嬉しいのでっ。あの、前に会った時、すぐ気づかなくてごめんなさい。淵淵に会うまで、忘れてました……」
「我も老けたからねえ」
李潭の父、李嶺は笑うが、思い出せない理由は別にあった。韶華の覚えている男の姿は、もっと低い視線で見たものだからだ。齢の違いも、成丁はみな同じように思えたものである。今ならば、郎子となった李潭が、彼とよく似ていることも分かる。
「どうしたんですか、李叔叔……じゃなくて、李助教。李潭を呼びますか?」
国子学に律学の助教である李嶺が来る理由は、通常ならば、ない。今は息子が来ているので、彼を待っているのだろう、と考えたのだ。
李嶺は、否定を混ぜ込んだ、古怪な表情を見せた。
「きみに聞きたいことがあって……潭には我が来たことは、言わないで欲しい」
「なんでしょう?」
軽く応じたものの、韶華には、李潭の父親の心境が読めるような気がした。おそらく、韶華がここに脚を向けた理由と同じである。
「もしかして、読書会ですか。通宵の……」
「そう、そうなんだよ」
察しの良さに安堵したか、李嶺は一口下に話し出した。
「国子学に行くようになって、潭は、いろいろな読書会に招いて頂いている。喜ばしいとは思うが、開首は、老早だけだったのだよ。そのうち下課の読書会にも呼ばれて……」
「わたしも几次か、行ってます」
「そうだね。あれも、小華の舎兄のつもりだったようだ。だからかもしれないが、きみと行った時は、井然と帰って来ていたよ……それが、天天のように行くようになって、漫漫と回家が遅くなってね。名門と懇意になるのは、門路を得る見機でもある。悪いことじゃないとしても、帰って来なくなることまでは、我も認めていないのだよ。律学にも、ここにも、上学しているようが……あの子は、なにも言わないし」
李潭は韶華の知らないうちに、かなり深入りしたようだ。
しかも、それは彼自身も分かっている。ともに招かれる時は、韶華にも不審に思われないよう、労心しているのだ。
(李潭ってば、小聡明なことを……隠し通せやしないのに……)
抛っておくつもりはないが、まずは心事を抱えた父親に、明るい笑みを向けて、放心させなくてはならない。
「李潭、久達に会ったけど、昔よりずっと読書してますよ。進士の梅老に帖子を見せてもらったり。でも、写字しなくちゃいけないことが多いんですよね……あと少し……二日もすれば終わるみたいですよ」
韶華も同じ読書をしているが、李潭は進みが遅いで支吾した。
考試があるから忙しいという借口は、助教には使えないのでやむを得ない。なにより韶華に写字の必要がないことは、李嶺なら分かるはずである。
馬馬虎虎にする賭けは、吉と出た。大息を吐く李嶺の表情からすると、僅かではあるが理解を得られたらしい。二日と期限を示したのが、効を奏したのかもしれない。
あるいは、韶華の言を信じたかっただけなのか。
いずれにせよ、韶華の為すことはひとつだけ。律学に戻るという助教を見送り、中に入った。
目的の人物は、ふたつめに覗いた課室に居た。学生たちに、梅老と慕われている進士である。
課を受ける必要のない彼は、誰もいない室内で写本をしていた。藍本は教授のものなので、謄清を頼まれたのだろう。
「すみません、お尋ねしたいことがあるのですが……構いませんか」
「牢、杜韶華か」
「もう牢騒少女でもなんでも、好きなようにお呼び下さいよ」
長輩を対手に不行儀と分かっていても、拗ねた声が出る。
すまなかったと言いつつ、男は筆を置いた。
「今天は静かだったから、居ないと思っていたが、どうした。朋友が気になるか」
「すごいなっ、どうして分かるんですか」
初めて進士が、脳力だけの者ではないと思えた。
「なにも難しい料想はしていない。おまえが課の内容について、尋ねるわけがないし、かといって中飯に良い店が訊きたければ、兆なしに言っているはずだ。ひとに問う必要があるなら、ひとについて……おまえが係わりを持っている人物は、あの律学の学生だけだからな」
友人が少ないと言われているような気もするが、あながち間違いではない。しかも中飯の店という部分が、的確すぎて欠佳。なのだが、韶華は短く唸ったあとで、訊たいことを優選した。
「友人の太父から尋ねられたんですよね。李潭が読書会から回家しないって。わたしが呼ばれてないやつは、通宵でやってるんですか?」
「回家しない? 私が発起人なら、それは許さないぞ。だいたい通宵とは、考試の正中でもないのに古怪……」
進士は言を切り、考え込む。しかしすぐに、卓上のものを片づけ始めた。
なにか事でも思い出したのかと訝しむ韶華に、男は下巴を軽く上げ、ついて来いと示した。
「以前、張を咎めたことがある。前輩に名門の出だが、貢挙に受からず処士のままでいる男がいて、それと同伴するようになってから、回家しなくなったというのでな。あれも読書会をすると言って、男の館第に行っていた。なのに名次は落ちるばかりで、なにをしているのかと問い詰めれば、酒宴だと……愚かな」
名次を落とせる張がいるのか、と韶華が考えていると、進士は解釈を加えた。
「おまえの友人と、当先に知己となった張の兄だ」
「ああ、あの張ね……大兄、いたんだ。張家には、いなかったけど……」
「無事に官品を得て、西棠に赴任している。あのまま抛っておいたら、酒精中毒になるところだった」
良かったですね、と軽易に言えない事情があるようで、進士の面色は冴えなかった。もっとも、李潭も似たような処境にあると思うと、韶華の心情も郁葱とする。
「李潭も同じ道を辿っていると、思うんですね? わたしも李潭を、このままにできません。梅老は……去路を知ってますか」
「思い当たる場はあるが、確かめたい」
進士が指さした先には剛剛、大学の門を出た李潭と、その同伴がいた。追踪するつもりであるらしい。不料、胆力のある男である。
ただし、認めるのは幹気だけにしておきたい。門柱の影から半ばはみ出して見つめる姿は、ただの不審者。深間の模倣は下拙も下拙。気づきもしない李潭を、しっかりしろと揺さぶりたくなるくらいだ。
「うむ。やはり、ここから行くのか。先行しよう」
李潭たちが中橋を渡ろうとしているのを見て、進士は歩く方角を変えた。
これには韶華も従うべきか迷った。北洛から南洛に入るつもりの者を追うのに、別の橋――おそらく東側の浮き橋を使って、先行できるとは思えなかったのだ。
片刻考え、迷いは捨てることにした。見失うはずはないと彼は考えている。よほど堅信していなければ、出ない言である。
後果、韶華は李潭一行を待ち構えるだけの余裕を持つことができた。進士の考えが正しかったわけだが、男の教えるものを見て、韶華もまた、李潭の去路に思い当たるものがあったのだと気づいた。
官吏になるべくして集められた、才能ある子息たちの住まう館第。
輝ける素養を見出し、支援する貴族の別宅。
あるいは、かつて韶華が忍び込み損ねた家とでも言えばいいのか。
覚えのある房頂の飾りを見ながら、韶華は深く嘆息した。
「李潭、誰と同伴してるのか、分かってるのかなあ」
「そうか。おまえはここがどこか、知っているのか」
「別の事で来た……そのあとで、一次、李師兄が招いてくれたんだけど……四門学の学生が多いとこだから、わたしは行きたくなくて、話も聞かなかった。確かあの時は、張が断って、それで李潭も断ったはずだけど……あれは、大兄のことがあって、行かないって言ったのかも」
「それを聞けば張も、幺弟の明智を誇ったに違いない。私とて張の双親から、恨まれた意思はあったというものだ」
「恨まれる? 沈家を敵にしたわけじゃないでしょうに」
皇帝が棠梨を治める者なら、左丞相は実質的な政務を掌握する者である。
沈家は呂家に次ぐ名門であり、当代そして上代も左丞相を務めた。政治的な権勢ならば第一といえる。
「あの男と係わることを止めたから、出息が叶わないと思ったようだよ。杜韶華、きみもその覚察はあるか」
「わたしは……」
すぐには応じられなかった。
韶華は、出息の叶わないことを恐れない。けれど、杜家は后妃を出したのだから特別、と言われたら否定できない。
李潭が覚察するものは、韶華と同じではない。槐門に近づく門路を奪って良いものか、迷う。
(だけど、家世じゃなくて力量を重んじてくれる皇太子を、褒めてたのに……)
李潭一行が、門の内側に吸い込まれて行く。
韶華の答えはもう決まっている。だが言にできないまま、静かに閉じた門扉を眺めた。
***
韶華が重い矩歩で香青路に戻ると、景景と永児が家の前でしゃがみこんでいるのが見えた。
瑠璃と遊ぼうとして、父親に追い払われた――わけではないようで、韶華の姿を見ると、持っているものを振り回しながら駆け寄ってきた。
「そうだった。ごめん、景景。武術を教える約があったね」
「ぼくの読書も!」
「おまえのは、帖子を見せるだけだろが」
「はいはい、騒がないで……あ、瑠璃、お母さんは家にいる?」
姉の声を聞きつけて、杜家の季児が戸を細く開けた。
「お母さんは、魯太太のとこで大減価があるから、出かけたよ。お父さんは書院。でも瑠璃が外に行こうとすると、出てくるの。不成だって。韶姉、もっと早く帰ってくると思ってたのに……」
瑠璃が空子から見せたのは、描きかけの臥遊図。韶華は、しまったという顔をした。
長姉にも、学堂の老師にも言われたが、なにもかも一次見るだけで覚えてしまうということは、韶華には、なにもかもが、凡が平らかに見えている、という意思でもある。
ほとんどのひとは、重要だと思ったことだけを覚えている。韶華がいつでも思い出せるゆえに、同時に扱えるように思ったとしても、楽しみにしていた者は、軽くあしらわれたように感じるのである。
まず、事の重さと歩繁を自身で決めること。でなければいつか、韶華の言を重んじる者はいなくなる。
姉たちの警告はまさに今、振りかかっていた。
景景の鍛錬も永児の読書も妹と遊ぶのも、午下に充てれば良いと考え、重なってしまった。乗便に別件も抱えることになって、今天の余裕は無いに等しい。
しかしこれは、韶華が悪い。活力の限り彼らにつきあうか、と決めたところで、房頂の上に知った貌を見つけた。
「そこ、下りて来て!」
「えっ? ぼく……」
「そうだよ。晨風とか、言いましたっけ。禁……」
しゅたん、と少年が飛び降りてきた。音もなく現れたいつかの夜とは違い、故意に動作を大きくしている。韶華の禁軍と言うのを遮るためであろう。
幼い少年たちが了不起、洪亮と騒ぐ旁で、瑠璃が愛らしい頬をふくらませ、少年を睨んだ。
「あれ、瑠璃、この子嫌い?」
韶華の妹への問いかけを聞いて、幼い少年たちが没常識、狗盗と改口した。あまり褒められない直心さである。
「だって……」
潤む碧眼を見れば、言いたいことは伝わった。瑠璃を見て驚いた宮城からの使いは、晨風だったらしい。
小児らだけでなく、韶華の晨風への評判もだだ下がりとなる不妙な気息を感じて、少年は慌てて口袋から小さな包みを取り出した。
「絳雪酒楼の沙糖果だ! くれるの?」
少年と瑠璃とを見比べつつ、景景が言った。
「うん、杜家に持って行くといいって、言われたから。高いの知らなくて、あんまり買えなかったけど……みんなで分けると良いよ」
「そっかあ。包子も、老兄が持ってきたんだね。弄月大人に言われたのかなあ? 討好には、零食がいいよ……って?」
韶華のささやきは、糖果に群がる小児らには聞こえない。怯えたように頷く晨風へ、さらに言をつなげた。
「老兄は瑠璃を泣かせたから、呪われるかもしれないんだよねえ……」
「の、呪うっ……?」
晨風の顔を横に向けさせると、戸の空子に棠梨の怪、痩せ女が眼底に昏い光を湛えて佇んでいるのが見えた。
「どうかなあ。わたしね、ちょっと忙しいわけよ。だから、この子らの対手を代わりにしてくれないかなあ? 永児の帖子はわたしが預るから、景景に武術を教えて欲しいんだ。うわあ助かるわー嬉しーありがとー?」
晨風の冷戦を准許と受け取り、韶華は微笑んだ。
忙しいのは構わない。ただ今天の晩上のことを考えると、気力は保存しておきたかったのだ。




