発覚之一
右領軍と協商を終えて、静影は武成殿に向かった。
尚書省へ行って、天帥に会うつもりでいたが、弄月に言わねばならないことを思い出したのだ。
だが、静影が将軍の位にあるとはいえ、皇帝に会いたいと言って、すぐ叶うものではない。特に武成殿は臣下が皇帝に奉告する場であり、問い詰めるようなことは難しい。仮に弄月と見えたとしても、静影にできるのは、あとで伺いたいと仄めかすことくらいだ。
それでも行こうと思ったのは、なにかを感じていたのかもしれない。
ただ、膠固すぎると言われる男が、預定を急に変えるというのは、晦気なものでしかなかった。
西堂に入る樓道で、思わぬ人物の貌を見ることになった。左丞相と、その補佐人に遭遇することを、そんなふうに感じてはいけないのかもしれないが。
拱手する棠梨の将を、左丞相は緩い動きで認めた。
「左領左右府将軍。今年は綵仗の任ばかりで、無聊であろう」
言の内に、皇帝に多く会っているようだという咎めと、武人の本分が疎かであるという当て擦りが混じっている。
静影は左丞相の旁に立つ男、何鳳翼の視線を感じながら、回答が正当に聞こえるよう留心した。
「左丞相の関心、真にありがたく。しかしながら、武人は儀止もまた正しくあるもの。綵仗こそ、侍衛の力量といえましょう。愚かさで、皇上の輝きを損なうわけには参りません」
「真卒なことだ……そういえば、まだ聞いただけなのだが、左領軍は、此次の行幸に随行しないとか。そうだったな、何鳳翼?」
「そのようです」
「宮都を守るのはともかく、侍衛が皇上をお守りするより大事があろうか。それとも、残すものに、気がかりがあるとでも言うのかね」
「全ては皇上の御意に従うもの。本将の考えなど、器重するに足るものとは思えません」
内心では、その御意はこれからもぎ取るのだと考えつつ、静影は顕官たちが引くのを待った。
すでに左丞相は戻る情態を見せている。あとは何鳳翼が従えば終わりだ。
ただ、この補佐人は、どういうわけか静影を嫌っている。なにかひとつでも訊笑を言わねば、通り過ぎることもできないらしい。会うと分かっていれば、心構えもできたが、こんな時はもう、黙っていてくれと思うばかりだ。
願いは聞き届けられ、ふたりは去った。ほっとするとともに、左丞相、沈修容の背影に、一瞬だけ視線を向ける。
静影たち――と認めたくはないのだが、韶華と皇太子が侵入し損ねた館第は、沈家の別邸だった。
黒風が転借と言ったのは正しく、住んでいるのは若く優秀な学生たちで、官吏になるまで、沈家が後援している。
遠い領国では、見過ごされてしまう才能ある者たちを、集めるという目的は気派なものであり、決して貶めるつもりはない。
しかしその後果、沈家の意向に従うだけの官吏が増えている、というのも事実である。
忠誠を向ける者を、迷わず決められるのは、楽をしているのだと彼らはいつ、気づくだろうか。
静影は、未だ混乱を抱えたままの黒衣の男を思った。
「でもまあ、それは……俺の考えることではないか……」
将兵の呟きを、太監たちは聞かなかった振りをした。代わりに、皇帝がすでに、武成殿から退いているとだけ告げる。
来たことを伝えるかと訊かれ、静影は頷いた。弄月の回答がなんであれ、事があると知らせるだけでも、意思はある。
太監が渇者にささやくのを待ち、静影は身躯の力を抜いて、呼気を整えた。かなり待つことになるからである。
政務の宮殿に付く渇者は、弄月の居る宮殿の太監に静影の到来を告げ、太監はそれを弄月に伝え、彼の回答を得てから、その宮殿の渇者にささやく。
そしてその渇者は、ここまで来て太監に回答を伝え、それからやっと静影に弄月の言が届く。
韶華なら繁冗と言いそうな程序であるが、静影はそれなりに慣れているので、慌てることはない。
だから、外に目を向け、自身の意志を集中から放つ。
緩く息を吐く。吸う。
さらにゆっくりと、吐く。
そして吸おうとして、止まる。
開かれた窓から、白裳の裾を翻して走り込む、赭黄の衣の男が見えた。
脚歩声はない。太監の細い悲訴も、響いてこない。あまりのことに、静影の耳が聞かなかったことにしているようだ。
「静影!」
弄月が、成武殿の西回廊を走り去りながら、手を振り回している。
示すものはおそらく、史館。
――行くしかない。
静影は太監たちの惑う中を、幻を追うかの如く、ゆっくりと進んだ。
「皇上……」
「扉を閉めろ」
史館は棠梨の史乗を置く場であるが、書院も備えられている。そのうち、最も小さな間から、弄月の声は聞こえた。
「皇上、なにを考えているのですか。太監が驚いていますよ」
「余がおまえを呼んだということすら、誰の口にも乗せたくなかったんだ。おまえのためを思ってだぞ、これは!」
そう言われても、なんと応じたものか、分からない。静影の両の肩を掴んでゆさぶる棠梨の主を眺め、大息を吐く。
察しの悪い男に呆れたのか、弄月は旁に抱えた冊子を突きつけた。
到底是看過し得ず。それは、韶華より乗便にと押し付けられた小説――だった。
「皇上っ? 俺の室内から、持ち出したんですねっ」
「ならば、確かにこれは、おまえのものなんだなっ? どうやって手に入れた? それに、分かっていて読んだのか? 分かっているんだよな?」
「読んでません! それに本将のものというわけではなく……」
幼い少女から取り上げるのとは異なり、皇帝の手から奪うわけにもいかず、静影は呑呑吐吐になった。
すでに成人である。官能小説を読んでいるからといって悪いこともないのだが、欲しいと思ったわけでもない官能小説を、おまえのものと言われると、少しばかり困る。
それに、著者については、なんとしてでも伏せておきたい。韶華の父親、あの子への情を略な痩せ女の如き男が著者とはつまり、皇帝の後妃の父親が官能小説を書いているということだ。世に知らしめて良いとは思えない。まして弄月には。
「これを書いた者を、おまえは、分かっているのかと聞いている!」
「えっ……」
著者が誰か、知られている。と驚くより先、愛らしい青い瞳の幼い少女が、思い浮かんだ。
「瑠璃……! 喋ったのか!」
「おお、話してくれたとも。静影、おまえは気づかなかったのか? これが王族の醜聞を表していると」
「ですから皇上、読んでないので気づくもなにも……王族?」
弄月は小説を掲げ、頷いた。風流あふるる『艶熟女喰記』の側に、皇帝の正色極まる面貌が並ぶのは、神奇であった。
「静影、これはキュウの王族が醜聞を書いたものだ。出てくる人物が、かなり省かれている上に、ひとりは女体化しているから、読んでもそう易易と気づくまいが、あれを知る者には、すぐに分かる」
よく分からない辞が混じっていたが、そもそも静影には、官能小説に使えるようなキュウの醜聞に、思い当たるものがない。
困ったように双眸の紫石を迷わせていると、弄月も静影が『あれを知る者』ではないと気づいたようで、冊子を横に置いた。
「知らなくて当然か……もう、二十年は前の話になる」
嘆息する男の長い指が、書面の題字を辿る。
「読めば良いのに……知らずに読めば、佳編だぞ」
「佳編ですか……」
「それとも、悲恋は嫌いか。これは、王位を争った兄弟の、それぞれの児女と息子が、許されない恋に身を焦がす話なのだが」
「ああ、堂姐では難しいですね」
「それは棠梨の話で……ではなくて、いろいろあって愛を確かめたものの、息子は叛徒と疑われ、児女はそれを策謀した男と婚儀をあげねばならなくなり、ふたりは手を取り合い、愛を交わすと死を選ぶ……そういう話だ」
「なぜ死ぬ前に愛を交わす必要が?」
「そこは官能小説だからだよ! とにかくだな、静影、キュウの王になるには、ある印が必要だ。それは知っていよう」
「知っておりますが、どのようなものかまでは」
「だろうな。もっとも、会えば分かるだろう……話の中では、大熊猫の指と書かれているが」
静影の頭の内で、嫋やかな公主が大熊猫に化け、並んで甲冑をまとった大熊猫が涙にむせんでいた。
流麗華英な大熊猫とは。
壮健高強な大熊猫とは。
「いや、えっと、想像力の限界なんですが」
「大熊猫に拘るなよ。それに女人の印は、話中では花紋の痣だ。まあこれは、脱がすための方便だろうが。とにかくな、重要なのは王族に印が必要というところだ」
「印……」
キュウという国は、あらゆる部分で遠いため、伝わるものは少ない。そのうちで最も知られているのが、印がなければ王になれない、という掟だ。
庶人でもその印があれば、王になれる――のは確かだが、印を持つ者が生まれるからこそ、今の一門が王族を名乗ったのだ。市井に印が在ったなら、倫倫と処理されていることだろう。
とはいえ、印だけが全てを決めるわけではない。王族に限らず、キュウで家を継げるのは男子のみ。さらには、母親が『妻』であることが、継嗣となるために必ず求められる質素であった。
「キュウの男は、妻を複数持てるから、よほどのことがない限り、息子の母親は妻だがね。というより、男子を生ませたら、妻にするという形なんだろう。そして、妻たちは全て同じ扱いだ」
つまり棠梨の後宮のように、正妻がひとり皇后の位に坐し、それ以外の女は妾婢であるということではなく、全てが正妻とみなされる。
「大熊猫って、そんなでしたか……?」
「それはもう忘れろ! しかしな、キュウの王族は庶人とはまた別で、妃と妾がいるんだ」
王族としての特権は、妃とした女にも及ぶ。ために、全てを妃として、利を与えるわけにはいかない。だから王族は、印持つ子を生んだ女のために、妾という料を作った。
「それだけ印を持つ子は、必要だったということだ」
さらに、もし「妃」に印持つ男子が生まれなければ、妾は「妾妃」となり、その息子が次の王となる。
「難の多い継承になりそうですね……」
「そう。余の言う醜聞は、それだ。今の王は妾妃の息子だが、当然、妻たちにも印持ちの息子はいて、彼が継承するなど、あり得なかった。なのに継ぐはずの男たちが重重と亡くなり、王となった……どこかで聞いた話だと思うだろうな?」
「いえ……そうですね」
静影は否定し、すぐに肯定し直した。一国の主を決める争いは、どこも同じだ。いかなる偶然であっても、妾妃の子が王となれば、正妻たちの子を謀殺したと言われるだろう。しかし。
「謀殺の醜聞と、その、官能小説の悲恋が……よく繋がりません」
読んでいないから分からない、読むべきであったと思ったところで、静影は大息を吐いている弄月に気づいた。
「皇上……」
「余が焦りすぎたな。おまえも、知っているものと思ったから……継嗣たちが重重と亡くなったと言ったが、そうじゃない。処死したんだ」
まず初めに、弟が、兄から王太子の位を奪った。なぜならば、兄の母親は妃ではなかったから。
しかし同じようなことが、弟の子どもらにも起こった。
「話としては絡み合っていて、次の王太子となるには、印を持った息子を持つ者のほうが、より重んじられるものらしい」
自身を挟んで、母親の料と印を持つ息子と、ふたつが揃っていないと、キュウの王位に就くのは難しいのである。
そして彼らの考える、『正しく印を顕した王』の候補たちは、恋に落ちた。
「待って下さい。どちらも王太子になれるんですよね? つまり」
「そうだよ。キュウでは、とくに王族においては、継嗣を得られない行いは、厳懲の対象だ。棠梨ではまあ……たまに見るくらいで罪じゃないが……小説では読みやすいよう、公主にしてあるのだろうね」
まさに話にしか聞いたことのない話が、遠いキュウで起きていたらしい。
互いを慈しむ想いに貴賤はない。ないが静影は瞼を閉じて、紫石を覆い隠す。頷く弄月を撲面から見るのは、難しかった。
「ですが、それが……我らの気にすべきものとは、思えませんが」
「余が言いたいのは、作家がなぜこれを知っているかだ。かの王子たちの処死は、キュウでは禁忌ゆえに知る者は少ない。なのにこの小説は、ひとも場も、余の聞いた話を、ほぼ正確に再現している。その場で見ていたかのように、な」
「韶華の父……作家である杜家の主も、そうして風聞から書いたのでは?」
「おまえが醜聞を知っていれば、そう考えても良かったかもしれぬな。キュウでは秘せられていても、棠梨では知る者が多いと」
だが固然、棠梨でも知られていない。
「皇上は、彼がキュウの者だと仰りたいのですか」
「そう。アレは王族だ……瑠璃が、証だ」
静影は弄月の目光の、古怪なほどの愁いを見た。
瑠璃――幼い少女の宝玉のような青い瞳。キュウの王となる者に、なくてはならない印とは。
「碧眼……」
弄月は黙って頷いた。




