可行之二
韶華が当面に「黒風」という男に会うのは、初めてだった。
知っているのは、誰かが呼ぶ名として、あるいはすれ違う黒衣の影としてだけ。
だから、静影の前に音もなく飛び降りた男が、故人のように思えるのは、神異なことだった。闇に溶ける姿を、見上げたことがあるような気がする――と、感じるのも。
対手を失い、ためらう冬栄を、もうひとつの影が連れて降り立った。こちらは、韶華と同じくらいか、僅かに長輩の少年である。
「晨風ッ、なぜここに居るッ」
「え、あの……」
冬栄に叱責された少年は、慌てて手を離した。どうやら韶華を除き、皆、知り合いであるらしい。
「その説法はないでしょうよ。なぜここにって訊かれて困るのは、冬栄先生だって同じなのに」
不錯、全員、不審である。
「なにを言う。重要なことだ。これは禁軍なんだぞ!」
「いやだからね、こんなところで東宮ぶってないで、引きましょうよ。しかもどうしてひとを選んで詰るの。こっちの長輩の同伴に、訊いたっていいじゃない」
「黙っていろ、杜韶華。おまえには分からないようだからな。答えよ、晨風」
「あの……だって……そのっ。ええと、よもや棠梨の世子と言を交わしているはずはないですよねっ」
「小王を知らぬというつもりか」
「で、ですから……ここで皇太子とは言いませんよねって……」
少年と冬栄の噛み合わない話を聞くうちに、韶華にも分かった。少年が、知らない振りをしようとしていることに。
遺憾ながら、冬栄には通じていないし、そもそもハズしてしまっているので、少年はうろたえるばかりだが、同伴の助けがないのは、可憐である。どうして黙っているのかと黒衣の男を見ると、こちらは静影と、冷たい視線を交わしていた。
「これは皇上の勅命か、黒風」
「そうだ」
「俺は聞いてない」
「おまえが聞く必要はない」
「ならば、違うということか。俺に知られて困ることを、皇上はおまえに命じたりはしない……!」
紫石の双眸が、怒りを込めて黒衣の男を見る。
そして揺るぎのない視線が、静影にだけ注ぎ返される。
膠固で直心な静影とは違って、偽りを吐くことも、闇に紛れて動くことも厭わない男だ。けれど韶華たちと、ここで遭遇すると思っていなかったのは、確かなようだ。分かっていたら、少年はもう少しまともな弄假ができたはず。
だが、そうなると彼らがしていることの条理が、通らない。
(会いたくなければ、姿を現したりしなければ良かったのに……)
韶華は冷え切ったふたりの間に、割って入った。
「静影、そのひとたちを叱らないで。訊いても答えないってことは、答えられない理由があるんだよ。ほら、わたしたちだって、ここでなにしてるーって訊かれたら言えないし、なんか察してねーって、思うでしょ。ということで、察するの」
「察するって……だいたい叱っているわけでは……」
困惑する静影と、まだ不顧する黒風に向かって、韶華は肩を竦めてみせた。
「労をかけて来たのに、なにもなかったら、悔しくなるでしょう。そうしたらその悔しさを、誰かに押し付けてやりたくなるよね?」
「ならないと思うが……」
「静影以外は、なるんだって! つまり彼らが察して欲しいのは、全力で調べたけど、なにもなかったからもう侵入は無用! なんだと思う」
静影は封口している。冬栄は、なにか言いたそうにしている。黒衣の男は目を伏せ、眉間に激しい頭痛を耐えているような皺を作っており、少年だけが韶華を感嘆の目で見ていた。
「あれっ、一同意、三異義?」
「異義もなにも……なんで、教えてくれていると考えるんだ。黒風が、なにも見つけられなかった。もしくは、俺たちに見つけられては困るものがあって、侵入を阻もうとしている、とは考えないのか」
「やだなあ、阻んでないじゃない。ねえ、冬栄先生、ここで再見って別れたら、また行くでしょう?」
冬栄は大きく頷いた。
「ね? だから、調べるなら別の家にしろと言いたいんだと思う」
「そこまでは言ってない」
横を向いたままの黒風が、大息に乗せて言を発する。ひどく勢いの殺がれた口気だった。
「なにを探すにしても、ここは転借だということを覚えておけ。それで徒事に係わりたいなら、止めない」
「徒事だとッ」
「静かに!」
いきり立つ冬栄を制し、静影は微かに響く音を探った。
どれほど息を殺していても、五人もいれば熱は伝わる。いつまでも消えない外の気息が、館第の者を起こしてしまったらしい。
もう行かなければ。
と、韶華が言うより先、星明かりを瞬く間だけ遮り、ふたつの影が別の土塀の向こうへと消えた。
残るは武人と、匪徒の假扮の男と少女。
「行くぞ! 狙公を演じるのは回絶だ」
逃げると言わないのが、静影らしい。冬栄を急かす姿は、畑を荒らす猴子を追いたてる荘戸の影絵のようだが。
韶華は黒衣が消えた方角を一瞥し、そしてすぐ、同志の影を追いかけた。
***
華やかさと呪いが并存する、女たちの宮――海棠宮。
見つめるもの全てに、刻の流れが染み込んでいる。
ここで生きるのは、軽易なことではない。
鼻腔に残る水蘭の香りは、いつ存在した女の衣から漂うものなのか、韶華には分からない。
ただこれが、幸せな記得として留められていたら、良いと思う。朱蕣の匂いが、苦しむものとして重ねられたりしないことを願うのみだ。
(お姉ちゃんに、どこまで話せばいいのかな……)
韶華は姉を待ちながら大息を吐いた。 母親や女兵がいない間を狙って、後宮まで来たのは、誰にも聞かせたくない話をするためだ。
皇帝の後妃となる女人が、姉でなくてもいい者がいる。もしかすると、朱蕣の死を願っているかもしれない。
そんな言を伝えるのは、嫌なものである。
「韶華、遅くなってごめんなさい」
仄かに甘い香りが漂い、袖をたくし上げ、白い腕も眩しい朱蕣が迎賓の間に入ってきた。
「打掃の中途だった?」
「海棠宮に、昭彰殿のものを少し移そうと思って。これまで主がいなかったから、間になんだか分からないものが、いろいろ詰め込まれているのよね。使うとなったら、あまりに五花八門では、隆昌さまがいらした時に洩気と思れるでしょう」
「隆昌……?」
「皇太子さまのことよ」
「そんなこと言われたの?」
「思われたら、困るでしょうっていう話よ?」
「ああそうか……そうだよね」
冬栄が姉に向かって洩気と言うのは、蛮勇以外のなにものでもない。
もっとも、あの質である。冒失言って、藐視に冷戦する日があるかもしれない、と思わなくもない。
「韶華、笑ってないで、全て話してくれる?」
「笑ってました、わたし?」
「隠しごとは、なしよ?」
冬栄より先に辛酸なる目光を受け、韶華は項垂れた。
「話す打算で来たんだから、話さないと不成だよね……ごめん、お姉ちゃん。なん
だか、初めて知ったことばかりで……どう伝えたらいいのか」
「謝らないで。あなたを悩ませたのは、わたしだもの。わたしはここで動けない。だからあなたに頼んだ。あなたが負っているのは、わたしが負わせたものだわ。全て話して、軽くして」
韶華は頷き、まずは事実を話した。大学で故人と会ったこと、読書会に加わっているが、その目的は望舒党のためだということ。匪徒の行いは白果舎の男、皇太子に誘われたからであること。
この辺りで韶華は、姉の目を見返せなくなった。
慌てて、祖父の上官である御史大夫に会った話を持ち出す。さらに日前の侵入と禁軍との遭遇をも、投案する。
「韶華……禁軍だなんて……」
「禁軍っていっても、黒風というひとは、弄月大人の照料してるみたいだし、敵にはならないと思う。それにやっぱり、もしもお姉ちゃんを行刺する謀があるなら、それを止められるなら、なんか、できることは全てやってみないと……って気になるし、でも、どうしたらいいのかは分からないから、そこらへんは、宮中に詳しい冬……皇太子の策に乗ったほうが、良さそうだと思って」
韶華の偽らざる心境も、姉の視線を変えることは叶わなかった。
「わたしの、お姉ちゃんのことなんだよ……ひとに任せて、待つなんてできない。それに、なにを調べるにしたって、貴族や皇族の後言を、静影に訊くのは……悪いような気がして」
「徐家のひとね、静影というのは」
「そう。元妃の……徐小君の……それはもう、知ってるんだね?」
朱蕣は柔らかな微笑みを浮かべた。
「求められたのは、後妃ですもの……それにしても、後妃を選んでおいて、亡き者にしようなんて、麻煩なことを考えるわね? 替身でも置くなら分かるけど」
「その案もあるみたい」
「なら、あのひとが行幸で宮都を空ける間が、行刺の好機ね」
「そんな天色の話みたいに言わないでー……」
「不要担心。誰だか分からないとしても、宮都に居るわたしを気にする暇なんて、
なくせばいいのよ。それなら……考えがあるわ」
「まさか弄月絶地の風聞でも流すのですか!」
杜家の長姉の柳眉が、迷う動きを見せた。
韶華は内心で弄月に謝った。丈夫となる男を囮にするほど、新たな妻は冷徹ではなかったが、今、義妹が陥れんとす。
「ああ、そういえば。お父さまの情態は……どう?」
「お父さん? お父さんは……」
いきなり話題が変わり、韶華は、そのひとの平常を思い出すのが遅れた。
「お父さんは……なんだろう。瑠璃に構うのは、変わらないんだけど……お母さんが後宮に行ってても、行かせないね、最近は」
弄月から愛児を守るためと思っていたが、それだけではないのかもしれない。どこか尖ってるような気がするのは、確かだ。
「韶華……わたしは以前、お父さまが遠くを恐れていると言ったけれど……それは、キュウのことだと思うの」
「キュウ?」
すぐに頷くのは難しく、韶華は父親と北の大国をつなぐものを考えた。
薄い色の瞳と髪は、北の民のもの近い。けれど韶華の焼栗色の髪から、西方の出くらいに考えていた。
いずれにせよ出走したらしい男に、生まれた地について語る言はないのだろう。
だから言わないからといって、特にキュウを避けているという証には、ならないように思えた。
「分からないなあ……どうしてキュウだって、思ったの?」
「韶華、わたし……見たのよ。瑠璃が生まれた時……お父さまが泣いているのを見たの。お母さまに、もう、ここにはいられないって……出て行くって言いながら、泣くのを」
朱蕣は震える手で、韶華の手を握り締めた。
「どうして? わたしたちを置いて行ってしまうの? 屋子に飛び込んで、そう尋ねようとしたわ。でもできなかった。謝られたら、出て行くのを許すしかないような気がして」
「お姉ちゃん! そんなの、お母さんが許さないよ! それに、どうしても行くって言うなら、お父さんだけを行かせたりしない」
「そうね、そうなの。韶華はお母さまに似てるわ。お母さまは、じゃあ、みなで行きましょうって言ったわ。でも……!」
朱蕣の恐れは分かる。遷居と言うは易いが、虚弱な嬰児を連れて行けるわけがない。先に行くと偽り、父親が出てしまえば、絶不、会えなくなると考えるのは当然である。
朱蕣が見たという父親の泣く姿を、韶華は知らない。二親と長姉だけの話であれば、韶華が瑠璃のそばにいた時だろう。
ただ、姉が変わった日は、覚えている。
それは、猛然と大家に嫁ぐと宣言した日だった。大家の妻となり、瑠璃の薬を、韶華の学費を、親たちに好過を得てみせると言った。幼いころから姉の美しさは抜きん出ていたから、良い訂婚を求めるのを、古怪にも思わなかったけれど。
あれは、家人を失わないようにするため。父親がいなくなることを恐れた日、怯えた日に決めたことだったのだ。
「もしかして、お父さんとお母さんの話に、キュウが出てきたの……?」
「いいえ。全く出てこなかった……古怪じゃない? 全くよ? お母さまも、棠梨を出る去向に、北だけは言わなかった。だから分かったのよ……ねえ、お父さまが瑠璃を後宮に行かせなくなったのは、キュウの使節が来ると聞いてからだと……思わない? 書院にだって、北の書籍はなかったわよね?」
そういえば、と韶華も頷いた。
父親の書院にあふれるほど書籍はあるが、北に係わるものはひとつもなかった。臥遊図も、あっても白棠までだった。今あるキュウの臥遊図は、韶華が瑠璃のために白果舎で写してきたものだ。
ほかにも零件を合わせてみれば、父親は周密なまでに北のものを避けている。
「分かった」
韶華は姉の手を握り返した。
「もう、ここまできたら、抛っておかない。お父さんを、提審してもらう。剛剛、御史台のひとが来てるし。キュウと係わりがなければ、それでいいわけで……だから、お父さんのことは、わたしに任せて。お姉ちゃんは、まずは周りに気をつけるように。静影も守る策を練ってくれているけど、できるなら弄月大人のそばにいると良いよ」
少女は姐夫となる男を思い浮かべた。
「今から管教ておかないと、あとが麻煩だと思うし……」
「やっぱり、そう思う?」
少女たちが不穏な言を交わしている間、主以外を拒む宮殿の奥で、男が読んでいた冊子を取り落とした。




