征兆之二
韶華が国子学へ行くには、中橋を渡り、東城沿いに北上するのが最も早い。
もうひとつ、より早い路程があるのだが、それを使うのは韶華も、よほど急ぐ時だけにしていた。宮城の内を行かねばならないからである。
固然、宮城に行くといっても、正門である芙容門をくぐるわけではない。止車門の前で東に折れ、東城に入る。
今天は急ぐ理由があったので、韶華は宮城へと向かった。そして多くの官人たちとともに、宮城の内壁を見ながら、東に歩いていた。
本月の主たる本分である、会計簿子や仕官名冊を抱え、彼らが捷足で向かっているのは尚書省――棠梨で最も大きな庁事である。
多くの庁事は、皇城や東城にある。けれど尚書省は、そこには含まれない。そして中書省や門下省のように、宮内にあるわけでもない。
それは宮と官をつなぐように、城壁と城壁の間に在る。
見ようによっては、どちら側にも与しない、あるいは、全ての官吏とは別のものだといっているようだ。
それは決して外れた考えではないが、先にある朝堂を見ているうちに、韶華は考え込んでいたらしい。
当前がふっと開いて、自身の情形に気づいた。
官人たちが左右に道を開けている。
誰か顕官でも来るのかと思い、韶華も慌ててそれに倣った。
瞬間、司馬門から前触れもなく、黒い騎馬軍が奔向してきた。
(禁軍……!)
初めて見るその姿は、黒いとしか言いようがなかった。
鎧も武具も、闇と同じ純黒。同じく戎衣に黒を基調とする武侯軍とも、異なる暗さ。
棠梨にあって、黒だけを身に着ける者は――皇帝の玄衣を除けば、道士と禁軍に限られるが、それは触れてはならないという居心を表すものだ。
けれど、触れるなと言われなくても、禁軍に触れようとする者など、いない。
官人たちも、伏せるようにして彼らが過ぎるのを待っていた。
韶華だけが、黒衣の仗たちから目を逸せない。
その間に、十人ほどの小隊が風のように過ぎた。
(あれをわたしは、知ってるような……気がする……)
胸の底がざわつくというなら、紫石の双眸を見ても同じ。ただし、あれは困らせてみたくなるからであって、韶華が困っているからではない。
もっとも今の韶華が、困っていると言えるのかどうか、正しくは分からない。ただ思い出せないものを抱え、黒衣の男たちを見送るだけだ。
幸運にも、少女の無状なほどの視線を、咎める者はいなかった。
「やれやれ……不妙なものに当たりましたな」
「全く……」
禁軍が消えたあと、ひとびとは野に放たれた鶏のように喋りだした。
「あれを動かすとは、皇上は、なにをお考えなのだろう」
「傲慢不遜なる李家が……」
「言うな。聞き耳を立てる者が、未だに居るかもしれぬぞ」
「考え過ぎでは。我らのことなど、もう目に入っているものか」
「そう思うのは、貴兄だけかも……」
不穏な言が飛び交う中を、韶華は黙って行き過ぎた。
禁軍を見て、畏れを抱かない者はいないのだ。官人たちの当然の回応よりも、思わぬ足止めをくらい、時の余裕をなくしたことのほうが、韶華には重要だった。
***
「今天は、来る日だったのかッ」
韶華を見るなり、頬のこけた進士が悲痛な叫びを上げた。
確かに、韶華は天天、大学に通っているわけではないが、そろそろ慣れて欲しいと思わざるを得ない。
こわばった郎子たちに向けて、少女は故意に声をかけた。
「早ー」
「韶華、おまえは早くもないだろ。ぼくたちは、老早から大師を囲んで、読書会をしてたんだぞ。それに長輩に向かって、その口気……」
「それを言うなら、李潭。人家の姑子に向かって、その称呼は無状よね?」
うっと詰まり、李潭が目を逸す。低声ではあるが、悪かった杜韶華と謝ったところは、直率である。
「それにしても李潭、老早からここに来てたんだ」
「律学で同じ課があるなら……こっちに合わせても良いことに……してもらえた」
李潭がちらりと示した先で、頬のこけた進士が、怒ったように顔を背けた。どうやら彼が、掛け合ったらしい。
「悄乎恋恋?」
「なんだよそれ」
「いや、瑠璃の解釈の話」
「そ、そうか、賢いねっ。というか、季妹は静息? おまえがここに来てるんだから、担心はいらないかもしれないけど……」
「覚えていてくれて、ありがと。瑠璃はもう、学堂に行けるくらい壮健。通う日を楽しみにしてるよ」
「そっか。良かったな」
「なんだ? 白衣が学堂に戻る話か?」
ふたりの後ろから、濁った声が響いた。
誰の声か分かっているので、振り返る必要はないのだが、無状を罵られるのも嫌なので対手を見た。
いつ見ても、とてもまるい。質も、まるければといつも思う。
去年の貢挙において、進士となった者のうちのひとり。つまり、元秀でた学生である。
「ねえ……もう五経は覚え直した?」
「なんだとう」
怒るだけの男に対して、韶華は深く、嘆息した。
彼は、巻子に脳力を全て写し込みしてしまったらしく、今はなにを訊かれても答えられない無能と化している。固然それは、また新たに覚える余地ができたといえなくもないが、早く覚え直さなければ吏部銓に間に合わないのではないか、と韶華は関心したつもりだったのだ。
「以前みたいに宙んじられないと、不妙なんじゃない?」
「おまえはできると言うのか!」
「書くだけならできるけど」
韶華の小技を知っている李潭は、だろうなと頷いたが、頬のこけた進士が専程、口を挟んできた。
「きみ、書くだけと言っても、読めないわけではあるまい。馬教授の解釈で構わないから、礼記を彼に聞かせてやったらどうだ」
「でも馬教授のって、応用がきかないよね? まあ、考試には、それでいいのかもしれないけど」
「そうか。牢騒少女もそう思うか……」
「だからその別名止め!」
「おまえたち、我の話を聞けっ」
喚き出したまるい進士を不顧しつつ、痩せた進士は、韶華に帖子を差し出した。
「大考によく出る問題だ。きっと中用だろう」
「ありがとう……ええと」
「わけあっ……いや、なんでもないッ」
こわばる韶華を見て、男はすぐに背を向けた。
羞じているらしいのはともかく、今のは、望舒党の導言を言おうとしていたように聞こえた。
(気き間違い? だって、ねえ……)
いずれ棠梨の政務を担うであろうひとが、言うこととは思えない。
李潭はなにも聞いていなかったようで、韶華が手にした帖子を羨ましそうに覗き込んでいた。
「李潭、要るなら、あとであげるよ。わたしは、一次見ればいいんだし」
「えっ……欲しい……けど、それをもらったのは、おまえだから」
「じゃあ無期出借? これからもいろいろと老弟の助けが要ると思うしー」
「老弟って不行儀な。でもそれなら……おまえに頼まれたことと引き替えに、借りる……」
「なにか頼んだっけ……って、ああ」
言った端から思い出したものの、李潭の呆れる表情を止めることは、できなかった。
「なんだよ、真卒に頼んだぼくが、愚人みたいじゃないか。今天の帰り、張の家に行くけど、おまえのことも訊いてみたのに」
「うん、ごめん、ありがと。それで、わたしが行っていいのかな?」
李潭は、それは韶華に許しがあるかどうかだと答えた。
当然のことながら、今天という急な話なので、予め親の許しを得ているはずがない。招く張家も、準備ができているわけではない。
だから、正しい答えは、次を待つというものになるが、それを受け入れられるかということを、李潭は確認している。
韶華は大きく嘆息した。
「繁冗なやりとりだよね……分かってる。次を待つよ。次、あるよね?」
「多半、あると思う……それに、梅老の読書会なら明天もあるし、来てみればいいよ。ぼくがひとりで頼むより、話が通りやすいと思う」
梅老とは、あの痩せた進士だろうかと思いつつ、李潭が国子学にすっかり馴染んでいるを感じて、韶華は少し寂しくなった。
「わたしも男だったら、良かったのかな」
「……杜家には、痩せ女と窮鬼と邪魔が憑いてるって言われるだけだと思う。今でさえ凶狼」
脚を踏まれた李潭の声は、呻きとなって聞き取ることはできなかった。
***
「あれっ」
白屋から栴檀の香りがするのに気づき、韶華は首を傾げた。
この清涼な雅やかさは、冬栄からもらった檀香扇のもの。家から甘い匂いがするといっても、驚くにはあたらないのだが、あれは瑠璃に渡してある。
季児の小さな手では、外に匂いが広がるほど、長く扇ぐのは難しいはずだ。
(じゃあ……別の扇? すごく似た香りだけど……)
扇は、知らなかったとはいえ棠梨の丕子から贈られている。似たような逸品を持つ者がいれば、それは、皇族から賜わったのだと考えられる。
(そんな偉いひとが、うちみたいな白屋を訪れるとは、思えない……けど)
なにか宮城からの使いだろうか。
戸の前でためらっていると、瑠璃が顔を覗かせた。やはり手には、なにも持っていなかった。
「瑠璃、もしかして、お客さまが来てる?」
頷く幼い妹の大きな青い瞳が潤む。面生の客に姿を見られたくないという怯えがあって、ずっと隠れていたようだ。
「韶姉が戻ってきたら、居室に来てねって、お母さんが……言った」
「ええ……その流れはちょっと気になるんだけど……」
まるで、紅娘が佳話を持ってきたので、面貌を見せろと言うかのよう。
同じ預感があったらしく、瑠璃が涙をこぼし始めた。
「お父さん……ここのとこ、ずっと瑠璃といてくれてたのに、急にっ……いないんだよ。こういうの、瑠璃、知ってるよ。いなくなる、目標なんだよっ」
「なに言ってるんだか分からないけど、瑠璃、泣かないで。拝礼するだけだから」
「韶姉、瑠璃、う……売られちゃうっ?」
「お母さん! お父さんどこに行ったのっ」
なにを幼子に吹き込んでいるのかと、韶華は居室に飛び込んだ。
***
「よく分からんが、悪い父親だなあ。我を人買いと思わせるとは」
呵呵大笑する老爺に向かって、韶華は頭を下げた。
白屋である。声は門口から居室までつつ抜けである。しかも客は見知った者だった。
杜家に栴檀の香りをさせて訪れた老爺は、橋で、そして南市で出会った人物だったのだ。
「老公公、南市では杜家を探してたんですね……」
「うむ。まさか春娃が、照白の孫とは思わなかった。まあ、義に厚く、剛介なところは似ておるな。照白とは、古いつきあいで……いろいろと語れぬことを、ともにしていたよ」
笑ってはいるが、言の内に、詳しくは訊いてくれるなという心目を読む。
韶華の祖父とともに、監察御史として地方を巡っていたことは、伏せておきたいらしい。刃を仕込んだ拐棍や棒を持った官吏が、なにをしたかなど、言えるものではないだろう。
「瑠璃、お客さまに礼をしなさい」
「うん……」
母親に言われ、韶華の後ろから出て来た幼子を見て、老爺は微笑んだ。
「おやおや……これはまた、なんとも愛らしい。それに、とても賢い目をしておるな。雪輪夫人に似てるよ」
「雪輪……おばあちゃんのこと、知ってるの?」
「少しな。照白と最後に会ったのは、この女人を妻に迎えると言って、雪輪さんを抱えてきた時さ。宝玉のように扱っていたが、こちらの小玉も、照白が生きておれば、片刻も離さなかったろうに!」
もしも祖父が生きていれば、子に拘る妖、痩せ女が増えていたかもしれない、ということである。
「謝大人、遠くからいらして下さいまして、ありがとうございます。父も母も亡くなって久しく、お話しを聞けるのは嬉しいです。でも、事はそれだけでしょうか」
愛児を后妃にした家門の主として、母親は老爺に問うことを忘れなかった。
老爺はその問いを送料していたようだが、答えは韶華にとって、不料なものだった。
「いやなに、望舒党と聞いて、宮都が懐かしくなったのだ」
「ええっと……望舒党とは、懐かしむようなモノ……ですか」
「望舒がなにか、知っておるかね。春娃」
「瑠璃、知ってる。月の神が乗る車を、あやつるひと!」
老爺は、そうだ望舒とは月神の御者のことだよと応じた。
「昔、ある男が……白い花卉の落ちて、月に明るく光るを見て、これだけ月が落ちていたら、望舒も巡るのに忙しかろうと言って笑ったのさ。主からこぼれた光ぞ好きに拾うがよいと我が言うと、隔断の果てから誰に届けられよういっそ望舒となって配れたなら、と男は応えた……我は、そう呟いたあの姿が、忘れられないのだ。だからまあ……望舒と聞いて懐かしいのは、我だけなのかもしれぬ」
月光ような冴えた淡い笑みを浮かべ、老爺は少女たちから目を逸し、遠くを見つめた。
「あれは、今も月を弄しんでおるのだろうか。あの男が宮城に初めて入ったのは、棠梨の花の散るころであったよ……」
美しい話に目を潤ませる母親と、花の幻影に因われる幼子と、古い思い出に浸る男には悪いが、韶華は激しい頭痛に襲われた。
月を弄しむ男は、不久前まで変わりなく月を弄しんで、報春路の酒鬼と呼ばれていたのである。
(侍衛の将に、アレ呼ばわりされながらね! ていうか、弄月の名……)
大息を押し殺し、韶華は欠佳な預感におののいた。
息子である冬栄は、この話を知っていて望舒と名付けたのだろうか。
それでは、弄月には望舒党が誰かなど、分かってしまっているのではないだろうか。
(いえ、待って。故人が望舒と聞いて、弄月大人を思い出すんだから……)
広く知られた話であるようにも、思える。
韶華は団団とする思いに蓋をした。
望舒党はじきに消える。大婚に係わる謀略を処理できたら、それで末了だ。
でなければ、困る。
韶華は望舒党に加わったことを、これほど追悔した時はなかった。




