征兆之一
意然にも、李潭は学生らとすぐに馴染んだ。
思えば当然かもしれない。牢騒少女韶華への騒牢については、学堂も大学も変わりがないのだ。
内容はともかくとして、和やかに語り合う郎子どもの群れを傍らに、相好になれて良かったね、とは首肯しがたい心境のまま、これで館第に招かれる日も近いだろうと韶華は耐えた。
(耐えるしかないんですけどね!)
ぎりぎりと歯を噛みしめる少女を不審に思ってか、老人が振り返った。
「どうしたね、重いかな……すまないね。大学を休ませてしまって」
「気にしないで、尹大医。こんなの、なんてことないから」
韶華は荷を抱え直し、老医伯に頷きかけた。
李潭がいるので、大学に一天行かなかったところで困ることはない。それより、医伯に頼まれて做伴をするほうが、重要だ。
杜家には、老医伯に返しきれない恩義があった。小弱な季児を看てくれたのも、開支の遅疑を許してくれたのも、尹医院しかなかったのである。
韶華の小技を褒めてくれたのも、医伯が初めてであった。
書籍を見るだけで覚えられる。それに意思があると、教えてくれたのちは、稀少な本草学の秘籍を見ることを許し、模倣の丹方で稼ぐことさえ認めた。
「わたしの脳力は、尹医院から始まったとも言えるわけで、荷運びくらいで中用るなら、いくらでもやります」
「助かるよ。天色がこれで、出去を疎むのも分かるが、家に呼ばれて看症することが増えてなあ……それで使丁が炎毒で倒れて、とは、大きな声で言えぬよ」
呵呵と笑う尹大医の壮健さを、韶華は少しだけ羨ましく思った。
巡診の荷を抱えて歩くのは、送料より辛い。多次も繰り返せば、使丁が倒れるのも、分かろうというものだ。
南市へ向かう大路は、甘河から引いた広い渠に沿って延びているので、樹行子が植えられており、陰には困らない。
しかし、流れる水音に癒されるという余裕までは、もらえなかった。
やっと市の門が見えてきて、韶華はおやと目を凝らした。どこかで見た背影が、彷徨いていた。
老医伯も気づき、首を傾げた。
「迷っておるのかね、あの仁兄は」
「尹大医、少しここで、待っててもらっても構わないかな。知ってるひとみたいだから、向導してくる」
許しを得て荷を下ろし、駆け出す。韶華がいくらも近づかない内に、拐棍をついた老人は振り向いた。
「おや、これは以前の春娃」
「老公公、迷っているようだけど、なにか助けは要りますか?」
韶華が言うと、中橋で出会った老人は、門前に並ぶ飛楼を見上げ、嘆息した。
「やはり迷っているように見えるか。市の近くが、こんなにも気派な家ばかりになるとは思わなくてなあ……房子がぎっしり並んでいたはずだが、これでは、故人はもう、見つかるまい」
老爺は、かなり長い年月、甘棠に来ていなかったようだ。諦めに似た想いが、遠くに投げた視線に込められている。
韶華も刻の移ろいに寂しさを感じ、頷きかけたものの回神した。
南市は、甘棠が宮都となった時に作られた市であって、起先から小さな房子が並ぶ余地はない。北市などは、もっと大きな館第に囲まれているので、老人が言う市の近くとは、
「あの、もしかしてそれは西市では?」
「西市……」
おお、と老人の目が見開かれた。
「いやいや、冒失にもほどがあるな! ここは南市か」
西側の門から見ると分かりにくいが、渠沿いにある、殊方の者たちが住む館第に気づいていれば、間違うことはなかっただろう。都が変わってしまったという思い込みが、判断を鈍らせたらしい。
「そうか、我は中橋からの大路を、逆に曲ってしまったのだな!」
騒がせたなと繰り返し、老人はゆったりと歩み去った。遠くで韶華を待つ医者に軽く会釈するのも忘れないが、その尹大医は、ひどく恍惚としていた。
「尹大医? もしかして、暑くて火気た?」
「え? ああ……急ごうか。行く路は右だ。角に王大人の豪宅がある。その先にある……近くにだな」
その先なのか、その先の近くなのか、言の濁しどころが、情由を感じさせる。
医伯が豪宅と言っただけあって、右側の路には、長い墻壁が続いていた。院子の大きな桂花が見えているが、盛りになれば、辺りは花の香りで埋め尽くされることになるだろう。
それはきっと、息が詰まるほどの匂いになる。けれど、どれほど濃密な甘さに囲まれようとも、今天のねっとりとつきまとう熱風よりは良い。
しかし覚えのある組み合わせである。
院子。桂花。園丁。
南市。王家――
「もしやここが顔甲粲女のッ」
「顔甲……? なにを言っておるのだ」
惑う尹医伯をよそに、韶華は豪宅を振り仰いだ。瞬間、黒い影が房頂の上を走り過ぎる。
「大医! 見た?」
「なにをだ。まさか拭い魔かね?」
「それはもう、現れない……まあ、いいや。見てないようだし……」
韶華はなんでもないと首を横に振った。あれは、韶華の目だから、見えたのだ。閃きのような黒い影が烏や猫ではなく、少年の形をしていたのは。
だからこそ、医伯に言うことではないと判じて住口する。
少年が影となって降りて行く先に、別の影があったことも、その影が藍雪路で見たのと同じだったことも、言にすべきではない。
一瞥とも言えない瞬きで捉えた影は、苛烈な印象を残す男だった。
まさに、黒風。
闇さえ裂く、風のような男は、棠梨の皇帝としての弄月に、従っている者のはずだ。
どうしてここに居るのか気になるとしても、軽易に係わって良いことではない。
「そういえばさ……尹大医は、弄月令令のこと、知ってたんだね。天妃園を知ってるくらいだし、元妃であるひととも、会ったことあるのかな」
老医伯は頷いたが、語って良いものか迷っているようだった。
名門徐家の児女であり、皇后であったひと。その亡くなった女人の次に、韶華の姉、朱蕣は妻となる。どんな説法をしても、比べているように聞こえるだろう。
しばらくして、老爺は口を開いた。
「皇上が第四皇子であったことは……聞いているか。徐家でお育ちになったのは」
「別のひとから聞いた」
「令堂も、徐家にいらしたという話までは」
「それって、なんだか……」
弄月の母親が徐家の者であるように聞こえる。
韶華の惑う表情から察し、医者は差錯させたなと呟いた。
「皇上の令堂は虞美人……当時は東宮の女官で、お生みになられた男子を、先帝が第四皇子と認めたために、王皇后のみならず、東宮の生母である、謝才人の怒りまで、向けられることになった。そこで太子舍人であった徐陽春が、ふたりを預るということで、紛事を収めたのだ……」
老爺は大息を吐いた。
「それで終われば、良かったのだよ。先帝は、虞美人が亡くなられても思い出したりはしなかった。皇子を呼び寄せることも、しなかった……あの皇子は、不遇ではあったかもしれないが、徐氏を妻に迎え、静かに暮らして行けるはずだったのだからな」
誰も送料しなかったに違いない。第四皇子が、棠梨の一人となる日が、来ることは。天に近いひとびとが揉めるのは、それこそ家常。それを踏まえても弄月の帝位には、思わぬ事情があったのだ。
しかし、紛事は韶華の生まれるより前のことで、なにかを感じようとしても難しかった。
「顧みられない皇子が、続弦というなら、対手に庶人の児女もあり得ようが、一人となられた今はなあ……労心が消えぬ」
老医伯は、遠い宮城に視線を向けた。
「徐小君……月季さんは、本草学に通じてはおるが、おっとりとしたひとで、貴族の令媛としても古奥でな……なんというか、その、西街に名を知らしめた、杜家の玉女とはまあ違うというか」
「そ……そんなに?」
「いやもう、違うな。違う。見ているものが違う。花を贈られて余香を求めるか、回味を求めるか、まあそれくらい、違う。我らが一人が、朱蕣の管教に耐えられるものかねえ。朱蕣には、幸せになってもらいたいのだがなあ」
老爺が大きく肩を落とす。朱蕣を後宮に送り、心を占める思いは、実は韶華と同じであったらしい。
「朱蕣の俊哲さは、照白……おまえさんたちの太父に似ておるよ。御史台の下で地方を巡っていただけに、強い男であったが、好心でもあった。なにしろ、ふらりとやってきた小子を照料し……気派な丈夫にしたのだからなあ」
笑う声に楽しさと別のものが混じるのは、気派な丈夫が、今は子への情に凝り固まった怪、痩せ女にしか見えないからかもしれない。
「お父さんはともかく……老公公って、御史台の官吏だったの?」
「淑英女士から、聞いてなかったかね。照白大人は、監察御史の判官でな、地方では、坏人どもにかなり恐れられたそうだ。脚を傷めたので、辞めたとか……」
「官吏だったって知ったのも、日前なんだ……恐れられたって、言われてもなあ」
ほとんど知らない祖父について、韶華が僅かに聞いたのは、父親に負けず劣らず溺愛孩子だったということだ。
殊に、死に際まで繰り返していたという「孫の貌が見たい」については、香青路でもよく知られており、朱蕣が生まれるまで、あとひと月というところで亡くなったために、今では西街の差点事件の前十位に入っている。
(御史台かあ……もしも生きてたら、わたしは、望舒党なんかできなかったよね)
あるいは、追いかけ回す側になっていたかもしれない。
「けど、街のひとにも言わなかったんだ。判官だったこと」
「照白大人は、昔のことをあまり語らなかったしな……それは、知らなくても良いことなのだろうよ……さあ、行くのは、あの家だ。だが、あそこで見たことは」
「言わない言わない。美人が泣いていても、見なかった振りをするよ」
「そういう場ではないぞ……居るのは男ばかりだ」
それはそれで嫌だなあと思いつつ、韶華は抱えた荷を見下ろした。
函は硬い音を響かせ、薬より医療用具が多いことを思わせる。これは、男たちの治療に『使う』ものだ。
どう使うのかは分からないが、決して見て楽しいものでは、ないかもしれない。
(尹大医は疾医だし、いきなり切ったり縫ったりは……しないだろうけど)
主を呼ぶ、使丁の戻りを待つ間に、老医伯が振り向いた。
「さて、成心で大学を休むよう頼んだのだし、おそらく、おまえさんの知己はおらぬと思うが……いいか、今のおまえさんは、牢騒少女ではないぞ? よく似た別の児女だからな?」
「またその別名っ……つまりここ、どこかの寮なのね? それなら言ってよ、化装くらいしたのにっ。わたし、太学も四門学も、行くには行ったんだよ」
「寮ではないのだが、そうか……四門学にも行ったのか」
誰かに同情を寄せる顔色をして、医伯は大息を吐いた。
それを見て、老医伯の質をよく知る韶華としては、終わりまで随伴をすることを決めた。
このまま帰ることも、耳房から出ないという選択もあるにはあったが、韶華が現れるなり、四門学で罵声を浴びせてきた郎子たちの貌から高傲さが消えるのを見れば、来て良かったと思う。
ただ、疾医であるはずの医伯が、男たちの歯を抜いたり削ったりするのは、なぜか分からなかった。




