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もしかして、パンチ

 娘はさっと起き上がったかと思うと、一直線にハナの元へ向かっていった。そして、彼女の脚のすねに小さな拳をコツンと当てる。

「もしかして、パンチ?」

「ハナ、もう帰って」

 娘は、ハナの足元に転がっていたお気に入りの絵本を抱え込むと、再び部屋の端へと足早に駆けていく。途中、散乱したぬいぐるみで転びそうになるのを見ていると、自然と溜息が漏れた。ハナは虚ろな瞳で娘の動きを追っていたが、やがてそっと目を伏せる。

「うん、またね」

 私は、庭先に放置していたハナの靴を拾い上げて、玄関のポーチに移した。ハナは表情を消したまま、それに自らの足をねじ込む。トントンと爪先を床に打ち付けて靴を足に馴染ませると、自分の家みたいに鍵を開錠して出ていった。

「いってらっしゃーい」

 娘の間延びした声が狭い玄関ホールに響き渡る。私はフローリングがやけに冷たく感じて、自分の身体がまだ火照っていることに気がついた。

「おかーさん?」

 娘がこちらを見上げてきた。はっとして、慌てて玄関のドアを開ける。家の前の道。ハナはちょうど自転車に跨るところだった。自転車の後ろの泥除けには、近所にある県立北高校の赤いステッカーが貼ってある。ハナは、私が妄想で作り出した2・5次元の女の子ではなく、生身の実在する女の子だったのだ。

 私は最後まで手は振らなかった。

 けれど、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、娘の手を繋いだまま立ち尽くしていた。


     ◇


 『またね』という言葉は残酷だ。それを分かっていながら使う側の人間でいたはずの私が、いつの間にか使われる側に回っていた。

 私は女の子が好きだけれど、男性経験も少なくはない。男性は女の子と比べて明らかに魅力に欠けているものの、人間や生き物として傍に居るのは面白かったり楽しかったりすることも多々ある。ただ、せっかく毎度同じような掛け合いをして、探り合いをして、苦労して構築する関係が、すぐに退屈なものに変わってしまい、決まって私から『またね』を繰り出すのだ。

 もちろん、『また』なんて二度と来ない。すぐに相手もこの事実に気づく場合もある。それでも『また』なんて言うのは、体裁だけでもそれまでの関係を美しいもののように見せかけておきたい大人の事情があるからだ。

 思い出に赤いリボンをかけて、大切に押し入れの奥に仕舞っておく。寂しくなったら、リボンを解いて当時のことを臨場感そのままに思い返して、目の前の雑事や悲しみから逃避する。もしくは、いつか本当に『また』が来るかもしれないという、ありえない可能性を相手に滲ませることで、自分を綺麗な存在として演出する。

 どちらにせよ、私は狡い。

 そんな私が『またね』と言われて、初めて気づくことがある。本当に『また』が来るんじゃないかと期待してしまうのだ。

 家には、女性の絵が残された。ハナの残り香。

 どこの誰かも分からない。知っているのは、その年頃らしい瑞々しい姿と性癖、そして特技だけ。ハナが再びここを訪れない限り、二度と会うことはないだろう。

 私は部屋に戻ると丸椅子の淵を撫でた。つい五分前まではハナがこの椅子に座っていて、この淵には柔らかそうな太股が触れていた。デニムのタイトスカートだというのに、足をきちんと閉じて座らない彼女の下着は丸見えだった。不機嫌そうに頬を膨らませていた横顔が頭から離れない。

「一目惚れか」

 もしかすると、それは私の方だったのかもしれない。私は普段、家に他人を上げたりしない。よく世間話をする近所の人だってあげたことないのに。私は『独占欲』という言葉が脳裏を掠めて、慌てて首を振った。

 相手は女の子で、しかも女子高生だ。もし、うっかり様々な条件が重なってしまっても、私は彼女を汚すことは許されない。

 では、心の中では。心の中でも、彼女に触れることはいけないことなのだろうか。

 久しぶりに難しいことを考え始めたせいか、目眩がした。とりあえず、今夜はハナに倣って、ハナの絵を枕に敷いて寝ることに決めた。夢でハナに会える気がして。もしかすると、ハナは夢の中でこの絵の女性のように、私に向かって身体を開くかもしれない。その時には……その時のことだ。


 夕方になって、夫が家に帰ってきた。私は専業主婦になってからというもの、夕飯だけはきちんと作っている。必ず温かい一汁三菜を用意し、家族揃ってテーブルを囲む。

 夕飯が終わると、そこからはベルトコンベアに載せられた工業製品の製造工程の如く、一日は過ぎていく。夕飯の片付け。翌日の朝ごはんの用意。娘とお風呂に入った後は、娘の歯に仕上げ磨きを施して、絵本を読むか歌を歌うかしてから寝かしつける。娘が寝息を立て始めるのは九時過ぎで、今夜もなんとかママ業を達成できたと思った瞬間、疲労が身体に襲いかかってくる。

 娘の隣で横になると瞼が重い。そのまま眠ろうかと思った瞬間、肩をトントン叩かれた。

「今夜は、だめ?」

 夫だった。私は振り返って数度瞬きをする。

「いいよ」

「じゃぁ、しよう」

「どこで?」

「あっち」


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