もしかして、ライチ
さすがに、娘の隣で致すのは教育に悪い。私達は昼間ハナと過ごした場所に来ていた。おもちゃが溢れる一角は、キッズ用のプレイマットを敷いている。ここならば、横になっても背中やお尻が痛くない。
「主婦の生活はどう?」
「暇すぎて馬鹿になりそう」
「仕事好きだったもんね」
「そうでもないつもりだったんだけど」
「まだ気を張っているのかも。ずっと頑張り続けてきたんだ。ゆっくりしなよ」
ありがとうと返事をしたかったのに、私の口から出たのは喘ぎ声だった。それが他人のものみたいに感じて、私は動揺を隠すように夫の背中に手を回す。
「いつもより、興奮してる?」
心当たりがありすぎた。でも、その対象は夫ではない。だって、夫が話しかける前から私の身体は準備万端だったから。
「そうかも」
嬉しそうな顔を見るのが辛い。でも、本当のことなんて言えない。知らない女の子を家に上げたことは、きっと怒らないだろう。夫はそういう人だ。私の交友関係が狭すぎることをいつも心配しているから。だけど、それ以上の心の悩みは打ち明けられるはずがない。ハナに話したのもたまたまだったし、きっと今後は誰にも話す機会はないにちがいない。
生理的な涙が流れた。私は「もっと」と強請った。
セックスはコミュニケーションだと思っている私にとって、身体を繋げることも頭を撫でられることも、そう変わらない。私には、慰めが必要だった。
期待していなかったものが心の中に舞い込んで、ふといなくなってしまった喪失感。これを埋めるには、そうするしかなかった。
その一方で、ハナならどんな顔をして喘ぐのだろうと考えてしまい、余計に悲しくなって目頭が熱くなった。きっと夫は、久しぶりの触れ合いに私が嬉しくて泣いているとぐらいにしか思っていないだろう。
◇
事件があったのは翌朝のことだった。
私が寝ているのは夫婦の寝室で、ベッドを三つくっつけている。左に夫、右に娘。ここまではいつも通りだ。
「あれ、これ何?」
私より早く起きた夫が、布団から身を起こしながら何かを枕元から拾い上げる。夫が眠い目をこすりながら、その手の中にあった小さく折り畳まれた紙を開いていく。
「もしかして……」
それは、前日にハナが描いたもの。あまりに上手すぎるその絵は、リアルなだけにいかがわしさは半端ない。紙の上の女性は美しいだけにアート的な要素もある。とは言え、そんなことを寝室に持ち込んだ理由として押し通せるわけもない。しかも、表情や描かれた女性の手先がなまめかしすぎて、明らかに情欲を煽動する目的が透けて見えた。
羞恥で死ねる、と思ったことなんて初めだ。いや、既に死んだかもしれない。
自分の目を覆いたいのは山々だけれど、覆いたいのは夫の目。どうして良いのかが分からず身体を硬直させていると、ついに夫が二言目を発した。
「なんだ、先月の園だよりか。捨てるよ」
夫は紙をクチャクチャに丸めると、ベッド脇にあったクズ籠に放り込んだ。どうやら、夫が紙を広げた際に表に出たのは、女性が描かれていない方だったらしい。
あからさまにほっとした顔をするといらぬ懸念を抱かれそうなので、私はそっけなく「ありがとう」を言うと、娘を起こしにかかった。すると、寝室を出ていこうとする夫が何気なくこちらを振り返る。
「昨日寝るの遅かったのに、もう少し寝かしてあげなよ。今は保育園行ってないんだし」
時刻はまだ午前五時半。それもそうかと納得してしまう。やはり冷静を装えていないようだ。私はクズ籠を遠目に眺めながら、寝室のカーテンの遮光性の高さに感謝していた。
昼になった。
娘はナポリタンを食べて口元を真っ赤に染め、服にはオレンジ色の無造作な柄がついた。もうこれは外へ着ていけないだろうなと思いながら、洗面所で浸け置き洗いする。財産が急激に増えて、働かなくても余裕で食べていけるようになったが、こういった庶民的感覚や習慣はそうそうなくならない。元々根がケチで貯蓄大好き体質の私は、舞い降りた幸運を未だ家のローンの返済ぐらいにしか活用できていないので、贅沢が身体に染み付いていないのだ。
初めは働かないのに生きているなんて、それだけで間違ったことをしているような気持ちになった。でも、働かないのは楽だ。うるさい上司も使えない後輩や部下もいない。納期もなければ、雨の日も無理に出かけなくていい。楽な方に流れるのは人間の性だと信じている。
娘と二人だけの午後はゆっくりと過ぎていく。
午前中、近所の公園の滑り台で遊ばせたのが功を奏したらしく、娘はうとうとし始めた。昼寝の時間だ。私は昼寝用の布団を広げて、そこに娘を横たえる。この子は、私よりも美人になりそうだと思った。
そこへ、インターホンが鳴る。また夫が趣味で集めている本か何かが宅急便で届いたのかもしれない。そう強く念じる必要があった。まず、私の中で急激に支配力を強めていた彼女の幻影を頭から追い出す。できるだけいつも通りを心がけて、玄関横の壁にある小さな液晶モニターを覗いてみた。
「カナさーん、いるんでしょー?」
ハナだった。
衝撃的ということはない。それよりかは、咄嗟に生唾を飲み込んだ自分に驚いた。期待していなかったなんて嘘はつかない。もう会えないのだろうか。また来てくれるだろうか。もし来てくれるとしたら、それはいつだろう。次に会った時にも、ハナは私を受け入れてくれるだろうか。そして、ハナを受け入れられるだろうか。と、思考が巡ってずっと止まらなくなって、もう何時間も経つ。でも、ここまで自分かハナを渇望していたなんて。
その反面、とても怖くもある。伊達に社会人を長年やっているわけではない。最低限の常識や社会的通念は十分に理解してしまっている私にとって、もうハナのことを頭の中で考えることだけでさえ罪だった。私はそれでなくても社会の隅っこに三角座りして縮こまって生きているし、それがとても良く似合っていると自負している。そんな自分が好きだし、これがベストのはず。これ以上何かを望むと、必ず別の何かが崩れてしまう。だから、大人であり、一児の母親であるはずの私が毅然とした態度を取らねばならないのは分かりきっていた。
居留守を使おうか。そう思いながらも、昨日ぶりなのにかれこれ十年来の旧友に会えたかのような感動が胸を支配して、全く言葉にならない。結果的に声が出ない。
「カナさーん! あれ、いないのかな? ねぇ、お土産もってきたよー。見てみてー」
モニターに、赤紫の大きな粒が映し出された。
「もしかして、ライチ?」
あっと思った時には声が出てしまった後。慌てて口元を覆うも、私の瞳は正直だ。ライチを入れたビニール袋を持つハナの手と、いたずらっぽい笑顔に釘付けになる。
「なんだ、いるんじゃない。早く入れてよー」
あまり騒がれるのは困る。住宅街での噂は、あることないことが尾ひれとなって、瞬く間に広がっていく。だから、仕方ないんだ。ハナをもう一度家にあげるのは、どうしようもないことなんだと結論づけた。
胸が高なる。自分の本音に気づく。期待してしまう。
やっぱり私は狡いのだ。




