第五十五話《Because of you》メリル編Ⅴ
ジェローム・ヴォーティエの死を悲しむ者は、メリルだけではなかった。村人は全員、彼について思い出の形で語ることが出来るばかりか、メリルを慰めることもできた。同情は人を苛立たせるが、何よりも寂しくさせる。
「握ってくれる?」メリルは兄を丘に埋葬したのちに、ずっと墓の前に佇みながらセイディにそう言って手を伸ばした。
セイディは黙って彼女の望むとおりにした。いざ握ってみるとその手は汗ばんでいて、握り返してくるそぶりもなかったので、セイディは彼女の手が離れないようにしっかりと握った。
この死はあまりにも早すぎた。彼の年齢もそうだが、メリルやセイディ、リライナの旅の最中に起きる出来事にしては……不完全な友情の途上で起きうる様々な出来事の中でも、これはあまりに重く、早かったのである。
彼女たちは何を持っているだろう? 等しく三人共が持っていてあこがれているものがあったろうか? 夢……いいや、メリルの夢は、もう墓の中だ。
「もっと、兄さんって呼びたかったな」メリルは独り言のように言うのだった。
セイディは迷った。言葉をかけるべきか、黙っているべきか。もしかけるのであれば、どんな言葉を? あの人なら、どんな言葉で彼女の手を握るのだろう。……
セイディは、迷った。
「すみません。こういう時になんて言ってほしいのか……分かりません……」
「……いいの。何も言わなくて」
彼女は手で目元を拭いているらしかった。
セイディは、できるだけそういう姿を見ないように努めている。
もう雲は晴れている。日がもうじき沈む。帰る場所はどこだったろうか。
「あたし、どんな顔してリライナのそばに帰ればいいかしら……」
「リライナさん。メリルさんが出て行ってから、ずっとメリルさんの目を描こうとするんです。ちょっと怖いくらいに夢中で……。待ってます。今もそうやって」
「それで、なんとかしようと追いかけてきたの?」
「いいえ。ただ卑怯だなって思って」セイディはきっぱりと言った。「私に一緒に旅がしたいと言わせた後で勝手に出て行くなんて、卑怯だなって」
「じゃあ、勝手に出て行って帰ってきましたじゃ、もっと卑怯ね」
「それが卑怯でも、私は嬉しいです」
しばらくして泊まるかどうかの文言が取り交わされたが、二人とも帰る方針でまとまった。
夜道は危険であるような気がされたが、メリルがこのようにセイディの背中に頭を押し当てるのに自然的印象を持たせるのであれば、ヴィンセントの背に乗るのが望ましかった。わけて秋の初めの夜風は、肌寒くはあっても涙を乾かすのが早かったし、ほのかに心さえくすぐるものだった。
「寂しい思い、させたのよね」メリルはぽつりと言った。
「そうかもしれませんね」
「あたし、あの子になんて言おう……」
メリルは不安だった。またおぞましい衝迫も、はじめに比べれば力を減じていたにしても、おさまったわけではなかった。そんな彼女の頭では、唯一の謝罪の言葉しか出てきそうにない。彼女は別れ際に見たリライナの目が気になっていた。まさしく、自分は簡単に済ませられない大事をやっているのだと感じさせるあの眼差しが、その言葉一つでは足らないような気を起こさせるので、彼女はそんなことをセイディに言ったのだったが。
「あの人は、許せる人ですよ」
セイディは前を向いたまま、しっかりヴィンセントを歩かせている。慣れたもので、彼女には景色を楽しむ余裕があった。そしてこの余裕のおかげで背中にもたれかかっている重みが一段とはっきりするのを、感じることが出来た。
二人がサンルズにたどり着いたのは、朝方近くのことだった。澄んだ空はまだ黒く、点々と穴がある。そこから金と銀の光が十字に伸びているのを、眠くなった目で二人は見た。
朝一番の貨物船に乗り、サンルズへと渡った。ヴィンセントの足取りが、やや遅いように感じられる。ひづめの音を聞くと、歩調は速いように感じられたが、それは今しがたアトリエの姿をとらえたメリルの緊張が高まり、いささか心臓が大きく鳴っているからだった。
「私が先導しますから」とセイディは小声で言った。
ヴィンセントから降りて、セイディを先頭に、メリルはアトリエへ入った。
二人はそこで、キャンバスを前に一人で絵を描いているリライナの姿を見いだした。
それは狂気の姿だった。リライナの周りには、何枚もキャンバスが転がっている。そのどれもが、一面に無数の目が描かれていた。赤い六弁の花の咲いた目が、いくつも描かれている。だが、狂気と思ったのは束の間だった。メリルはすぐに、この転がっている目のすべてが、何か人の目というには幻想的で、そう呼ぶよりも宝石と考える方が近いような気がされたのである。
しばらく友人のなんとも我を失ったふうの姿に半ば感動して突っ立っていたメリルの背中を、セイディが押した。
メリルの足は遅く、キャンバスを避けて彼女に近づくには、長い時間がかかった。
彼女のそばにメリルは立った。だが彼女は気づいていないようにずっとキャンバスに絵を描き続けている。描かれていたのは、目のみならず、口や鼻や耳や、頬のわずかな赤らみさえありありと、メリルの顔が描かれていた。
考えてきた。どれほど自分が彼女に冷たくあたり、拒絶的な言葉を言ったのか、どんな目をして別れ際に彼女を見たのか、ずっと考えてきた。しかし、これほどの衝撃とは思いもしなかったので、メリルは一言目に何を言うべきかいよいよ思い出せなくなった。それでも黙りつづけるわけにはいかなかった。
「リライナ」とメリルは呼びかけた。
リライナは筆を止めて、メリルを見上げた。怒っているふうではなかった。だがちょっと時間が経つと、また顔をキャンバスのほうへ向けるのだった。
「あの――」またメリルが呼びかけようとした時だった。
「知ってる。お父さんからそう聞いたの」とリライナが言いだした。「人には歴史がある。強引に立ち入っちゃいけない。わたしにできるのは、手を握り返すことだけだって」
「あたしは……」
「もう会えないような気がしていた。……これが早すぎるお別れになってしまう気がした。だからね、思い出せる限りにメリルのことを描こうとしたの。もういちどメリルに会えるなら、きっとわたしは、夢のように思うはずだから……」
なんて自分は馬鹿なことをしただろう! そうメリルは思った。彼女はいつもこのようであり、しかしこのようでありながら、自分ではそれに気づかないままで、そうやって待っていたのだ。
「ごめんなさい……あたし、あなたにひどいことを……」
何度か泣いた中でも、これが一番ひどかった。喉が腫れるようで苦しく、力なく足を折りメリルは彼女の膝に頭を置いて泣いた。感情の颶風に順応する術を人間が元来有しないために、慣れず、いつだって涙は純粋に川の真似をして流れる。
「おかえり、メリル。すっかり夢中になっちゃった。わたしね、ちっともメリルの目を、思った通りに描けなかったんだ」




