第五十話《Because of you》セイディ編Ⅴ
この夜、メリルは眠れなかった。というのも、セイディが出て行ったあと、何もやる気が起きずちょっと気を許すと去り際のセイディの顔が想起されたので、日課の読書もしないで一日の大半を眠りに費やしていたのだ。夜になるまでに浅い眠りを無理に繰り返したので、何度か夢を見て、もう背中が痛かった。ずいぶん自分の声すら忘れるほど黙ってもいた。
そこに、階下からアトリエの扉がひらいて閉まる音が聞こえてきた。はじめは昼間からどこかに行っていたあのいけ好かない微笑のハーケンが帰ってきたのだと思っていたが、次いでやってきた階下を登る音の軽い足音を聞いた――鼻をすするような音も、わずかに混じっていた。
これはセイディの足音だ。そうメリルは思った。薄目を開けてぼんやりと階段のほうに目をやる。陰から馴染みのあるプラチナブロンドが出てくるのを見て、メリルはすぐに目をぐっと閉ざしてあたかも眠っているふうを装った。そうして次第に目にこもった不自然な力で自分の演技を悟られるように思ったので、徐々に弛緩していった。すると、途端に大きくセイディが鼻をすするのを聞いた。風邪なのかそれとも泣いているのかよく分からない啜り方だった。だが、セイディはゆっくり彼女のほうに近づいているらしく、音はますます大きくなり、それ以外の口と鼻から息が激しくもれる音が聞こえてきた。
メリルは出来るだけそれが耳に入らないように、ごく自然に寝返りを打って背を向けた。夜も暑かったので、唸り声が演技の質をある程度まで高めたが、セイディには関係がなかった。
セイディはギターをそばに置いて、メリルの寝ているベッドに膝をついて上がった。それから彼女の背中に頭を押しつけて泣いた。
「……セイディ?」そうして声を出すのが久しぶりだったメリルの口調はまさしく寝ぼけたようだった。
上体を起こそうとしたメリルの腰にセイディの腕が回ってきた。それから背中にさらに強く頭が押しつけられた。メリルは彼女が喋りだすまで待っている。セイディは言葉が出せるようになるまで待っていた。
「……ずっと、旅がしたいです――メリルさんと、リライナさんと! いつか終わったって、また始めて、ずっと! 一緒に!」
どれだけ単純な言葉は胸に響くだろう。曲を用いて遠回しに人の胸を打つことを、この時のセイディはしなかった。知っている曲の多くを遠ざけた。どれも彼女の気持ちを表すのには中途半端で、それが中途半端に彼女を焚きつけ慰めの手で耳をはじこうとしようものなら、かなりに拒んだ。中途半端な思想で心に触れようとするくらいなら、黙っていてほしかったのだ。
メリルは何も言わなかったが、彼女の腕をはがして向き合い、潤んだ緑の目をあの花の咲いた赤い目で見つめた。唇は薄くなって微笑んでいる。
だがこれ以上に並行して何かしら優しい言葉を吐くことはできなかった。なぜといって、メリルは彼女のそういう、身振りや表情にときおり表れていたが言葉にそうそうならないでいたところの純真な様を、初めて耳に感じとったのだったし、氷が解けるように微弱な感動を禁じえなかったから。
何がセイディの中でこのような作用を引き起こしたのかを考えるのは、二の次よりもさらに次の話だった。
翌日のことである。セイディは明らかに晴れやかな気分でサンルズの広場に行った。もちろんギターは背負ったが、これはいざ背負わずに町に出ると背中が少し寂しいような気がするからだった。無理に弾こうとは微塵も考えなかった。セイディの音楽に対する尊敬と畏怖の念はあらゆる事物がそうであるように、昨日今日の産物ではない。ギターに惹かれ、ヴィンセントの手綱を引いた時には、もうしっかりとした茎が伸びていた。莟が膨らむのには長い時間がかかったが、すっかり花がひらいてしまえば、やるべきことはそう多くない。
彼女は広場に腰かける。そこは日陰でややひんやりとしていた。それで、これならばまだ日向の方が心地良く、光に目がくらむのも喜べるのではないかと思い、彼女は日向を探して身を移した。そうしてじっと、もしこの広場をライカが通りかかって目が合いでもすれば、手招きをしようと考えながら待っていた。もしも、もしも……実際、そんなふうに思い描いているのが楽しいだけで、理想が現実にならずとも、まったく構わなかったのに。
「お姉ちゃん!」と、待ち望んだ相手が彼女の背後から声をかけた。
「あ、ライカさん。お買い物ですか?」セイディは友人が友人にする親しみを込めながら言った。
「うん」とライカは目を細めながら、「昨日はお兄ちゃんと喧嘩したから。ちょっと気分転換に……もう仲直りしたんだけどね。長く続かないの、お兄ちゃんとの喧嘩って」
ライカが何事もなかったように言うのを聞きながら、セイディはこの少女の強さを思った。
「隣、座っていい?」
「はい。お隣どうぞ」
こうして二人は並んで日向に座ったが、ライカの側には今にも日陰ができそうになっていた。ずっと日向を見つめていれば、緩慢な傾きにも、建物の隙間から伸びている光が刻々とさらに細く伸びていくのを見ることが出来る。時折、一羽の鳥の影が穹窿からやってきて彼女たちの足元を通り過ぎて行った。だが二人は互いの呼吸や首の動きに目が眩んで、そんな光には目もくれなかった。
しばらく気をうかがって、セイディは次のように切りだした。
「ギター、弾いてみませんか?」
彼女は背負っていたギターをライカに差し出した。
「いいの?」とライカは戸惑いながら、でも彼女の期待を裏切るまいとして受け取った。
それから見様見真似で持ってみたが、どうにもしっくりこなかったのでセイディを見た。セイディは口では何も言わずにライカの腕や指を持って基本的な位置に持っていく。そうして言われたように音を鳴らしてみると、不思議にもライカは楽しくなった。わけて薬指に伝わる振動はやけにライカを興奮させた。
きっとどんな出来事も、始まりはこれほど微々たるものなのだ。
ライカ・オブライエンは、夢中になってギターの一音だけを何度も鳴らした。
セイディ・メルヘン・ポートは、彼女にできるだけ多くの音を教えた。
これは日暮れまで続いた。ライカの物覚えの良さが幸いして、一通りの音が広場に聞こえるようになっていた。
「そのギター、差し上げます」とセイディが言いだした。
「え、でも、そうしたらお姉ちゃんはどうやって生きていくつもりなの?」とライカは数時間のあいだに出来上がった信頼のために遠慮なく言った。
「なんだか突き刺さる言い方ですね……。ご心配なく、実家に帰れば、もう一本ギターがありますから、大丈夫です。それに……」セイディは微笑んだ。「私がギターを弾くのは、泣きたい時でした。でも、しばらくはギターが無くてもしっかりと泣ける気がするのです。……あなたのおかげで」
二人の腰かけている場所は、もうすっかり日陰になっていた。
そこは明日、また日向になる場所である。




