第四十六話《Because of you》セイディ編Ⅰ
セイディはすべてのことに率先して身を投じる気質があるだけで、器用ではなかった。サンルズにやってきてから二日目、朝食の席で彼女ら三人――ハーケンは朝から姿を見ないことが多かった――は食卓を囲んだ。
三人で決めた本日の炊事当番はリライナだった。
セイディは彼女の浮かない顔が気になって、彼女が魚を三枚に下ろしたりするのを間近で見ている。確かにはっきりとリライナのことを気にかけているけれど、なぜこうしてそばに立ちたがったのかは彼女自身でも分からなかった。野菜や魚はまるごと焼いてかじるくらいの料理感覚しかない彼女よりはるかにリライナの調理技術のほうが勝っていたし、だからこそ失敗するとも思えなかった。
『どうして私はリライナさんのそばに?』セイディは自問して、次第に場違いな自分の姿を意識した。『そうです。私にできることは何も……』ゆっくりと、彼女は後ろに下がっていった。
これを椅子に座って見ていたメリルはじれったい雰囲気に業を煮やしたので、ちょっと苛立った格好でセイディの後ろに立った。そのままメリルはセイディの肩を持って、そこで何かしら言ってやろうとしていたのに、そんなものは、いざそうして肩に手を置き、彼女の肩が自分の胸よりやや下にあるのを認めると、瞬く間に失せてしまった。
「それで! 今日は何を作っているのよ!」メリルは誤魔化そうといささか焦った声で言ってしまったが、セイディは呆気に取られていて、リライナはちょっと驚いたくらいで、どちらも彼女の顔を見るまではしなかった。
「お魚、焼いてみようと思って」
リライナはいつもと同じように何気ない微笑を浮かべるのだったが、友人の二人にはこれに影があるように思われた。メリルはもっとじれったく思い、セイディは何もできず自分の肩に触れているメリルの手にだんだんと力がこもってくるのを感じるしかなかった。はじめは錯覚のような感じだったが、そのうちに彼女の力に確信し、自分の背が少しずつ縮んでいくふうの力に戸惑ってなお、やはりセイディは何もできなかった。
午後、リライナが彫刻家の工房へ行った後でセイディはギターを背負って、ヴィンセントと共に町を歩きにいった。メリルは彼女に「歩くなら一緒に」といったふうの提案をしたが、彼女はやんわり首を振った。
音楽や詩のことであれば誰かと競おうなどと考えなかったが、彼女は他の分野で比するのを辞さなかったので、このサンルズの景観を……いやもっと前のメレンスの町の景観でさえ、彼女はリライナほど体を使う喜び方をできなかったのがなんとも気がかりで、当然のように自分を優劣の後者に貶めた。だが、これは彼女が彼女自身を嫌いであるとか、また自信を失いがちな気質があるというのではなかった。この時代に同年代の友人とこれだけ触れ合う環境にいることがそもそも珍しいのも、ゆえに彼女が同年代の人と触れ合うのを少し不得手に感じがちなのも事実だったが、今の彼女の状態はなんとも単純だった。
セイディは、リライナに憧れの名で恋をしていたのである。
事実彼女は自分の髪の色や目の色だって好きだったし、誇るともなく誇っていた。だが身内にある普遍的な想念と経験の数々に辟易して、もっと自分が不幸であったなら、もっと低い場所で木々を見上げるような身分であったなら、詩や曲も重厚さを増すに違いないと思うのだった。だが、こういう想像に異を唱えるものも彼女の身内にあった。彼女は人並み以上に他人と人生を交わらせた両親に日頃から『他人には自分より千倍も不幸な人がいるのだ』と教えられて育ってきた。このような言葉で育った彼女はいつも溌溂として労苦にもいくつかやりがいを見いだせる性格を手に入れたが、人に悩みを打ち明ける行為を想像の抽斗からクズカゴへ投げてしまったのである。悩みは弱みであり、それを口にするのは、私はあなたより不幸な身の上なのですと暗に言っているのと同じことのように、彼女は思うのだった。
しかしリライナは、彼女より確かに不幸であるのに、他人の不幸に悲しみ、幸福の海で息継ぎをしている。もしあの物憂げな唇から詩がこぼれる日を想像すると、なんとも恐ろしかった……いや、セイディにこれほどはっきり断言できる力はなく、まったく違うものか、ほとんどすべて似ているけれど根本が明らかに異なるものをリライナが持っているのを漠然と思い、あるいはそういう印象を受けているに過ぎなかった。
結局、セイディは他人の不幸にあこがれる性質があり、これが恋にすり替わり、悩みになり、打ち明けたいが、打ち明ければきっと旅が終わってしまうと危惧するので、しばらく黙って町を歩いた。ヴィンセントはいつでも顔色をうかがえるようにしたかったのか、ぴったりと彼女の隣を歩いた。
『あの不幸が私のものだったら、もっと楽の音の高みに行ける。詩の高みにだって手が届く……魔法もなく生まれて、必要としてくれるのは両親と牧場の牛やヴィンセントだけ――でも彼らだって、おじいさんが牧場を作って柵で土地を囲まなかったら、きっと自分たちで生きて行けたはず。そうなればおっとうとおっかあだけが残る。でも二人は私を愛情の曇り硝子から透かして見ている。そんなんじゃない、私の求めている視線は……』
彼女は少し考え疲れると、サンルズの広場にある石段に腰かけた。彼女は日向に座ったが、広場の中心にある尖塔の影がすぐ隣に出来ているのを見いだすと、少し腰を浮かせて日影に移った。細かい石が手にこびりついた。白く濁った小石が皮膚に食い込み、まるで内側から生えてきたものであるかに見えるのは気味が悪かったが、指ではらえばぽろぽろと落ちたので、最後には面白くなった。
セイディは十四であり、彼女の世界は今こそ広がりつつあった。精神がこのような変貌の印象を与えようと試みているとき、彼女は温い廃油の湖に体を浮かべている想像を無意識に手繰り寄せがちだった。岸辺や島が近くにあれば怯えなかった。視点をいじってだんだん遠く高い場所から自分の体を見下ろす映像を思うと、突発的な胸やけや吐き気に襲われた。それらは本当に突発的であったけれど、中途半端な加減のある暴力で、よりいっそう強い力で立ちのぼって彼女を完膚なきまでに打ちのめすものであれば悔いもないと思われるのに、事実それほど絶対的ではなかった。これまでにも何度かセイディをこの力が襲った。だが最後に残っているのは、吐き気などの苦痛ではなく、ちょっと人を恋しく思う気持ちくらいであった。
セイディはおもむろにギターを胸に抱えた。手が空いているのがなんとも耐え難かったので。
「あの! 吟遊詩人の方ですか!」そう小さい女の子が駆け寄ってきたのはまもなくのことだった。
セイディは急なことに驚いて背筋を伸ばした。目の前にいた少女は自分より遥かに幼く、黒い髪に日に焼けた肌をしている。セイディをもっと驚かせたものは、少女の瞳の宝石に似た光であった。
「はい。えっと……一応は、そうです」吟遊詩人の肩書きに後ろめたいものを感じだしたような頼りない口調で彼女は答えた。
だがこの少女には遠慮がないらしかった。
「すごい! すごいねお姉さん!」
少女がどうしてはしゃいでいるのか、セイディは分からなかった。
そうしてしばらく困っていると、少女の連れが歩み寄ってきた。
これは背の高い、頑固そうな癖毛でどことなく陰のある男だった。
「ライカ。あまりはしゃぐと迷惑になるよ」と男は言った。
セイディは少しこの男に怯えてヴィンセントに目をやったが、ヴィンセントは耳を前に向けて関心を寄せていた。
「いいじゃんこれくらい! ギターを弾ける人なんて滅多に会えないんだから」ライカと呼ばれた少女は親しげに臆することもなくそう言った。
「すみません。妹のライカがはしゃぐのも、たしかに仕方がないことなのです。彼女は音楽が好きで、吟遊詩人に少しあこがれがあるので」
ヴィンセントが関心を示しているのであれば、この男はけして、陰があるにしても性格が悪いわけではないのだろうと考えながらセイディは、申し訳なさそうに笑った。
「お姉さん名前は? あたしはライカ・オブライエン。こっちはお兄ちゃんのエドワード」
「私は、セイディ・メルヘン・ポートと言います」
この名前が人に与える印象をこれほど胸が早鐘を打って構えていることはついぞ一度もありはしなかったので、セイディは向こうが流れを引き起こすのであれば身を任せようと思った。唯一、信頼できるヴィンセントが拒んでいないのだから。
「じゃあお姉さん。良かったらあたしたちの家でギター聴かせて! お代はあたしのお小遣い半月分。ね、いいでしょ?」




