第三十七話《Because of you》リライナ編Ⅰ
コッツウォー地方のサンルズと呼ばれる町は、湖の真ん中にあった。中心にある塔や小舟の数にリライナは目を奪われたが、すぐに我へ返って、自分がなにゆえ旅に出たのかと考えずにいなかった。なぜといって、小舟で漁をする人の姿や船着き場、また不意にやってくる魚のにおいが、絶えず彼女に故郷の姿を想起させたのだったから。
『ここでわたしは絵を描かないといけない』彼女はだれにも悟られないように、自分でもよくは分からない焦りを感じながら思うのだった。
メレンスで彼女は筆をとらなかった。
最後にキャンバスを前にしたのは、もう遠い日である。
そう、この時になって彼女は夢がいくらかぼんやりとしかけているのを見いだした。だから彼女は、旅の理由を思い出す前に、たとえ刹那の逡巡であったにしてもまずは、夢がなんだったか、それを問わねばならなかった。
「サンルズにはアトリエがある。そこを拠点に、しばらくは滞在するとしよう」そうハーケンが言った。
「……はい。分かりました」
アトリエは居住区と呼ばれる区画にあって、メレンスとイスール・ベルのよりかは大きかった。かなりに大きいのではなかったが、四人が宿屋を探さずに済むほどの寝具がそこにはあった。
分担して幌馬車から荷物を運び出しながらアトリエの奥に運ぶ途中に、リライナは箱に大きな布をかぶせてあるような家具がアトリエの隅にあるのを見いだした。それで彼女は、筆の入った箱を抱えたまま、不審がるような様子でその家具に歩み寄るのだったが、いざ箱を脇に置いて、件の家具の布をめくってみると、それは何枚かの絵に違いなかった。風景画や肖像画、戯画的なものから写実的なものまでがそこにあり、端にはどれもハーケン・ボルステインの名前を見る。彼女の理想がそこにはあった。輝きに目を細め、魂のほとりで手を引く強大な力が。……
それを見た後で、リライナが落ち着けるはずはない。夢がこれ以上に遠ざからぬよう、彼女は歩まねばならなかった。呼吸が明日を招くように、夢を求めるならば、夢を追う以外になにができよう? 彼女は願ったりしない。ただ、無理にでも幌の下で筆をとろうとしなかった自分を悔いる。リライナ・メイリークとは、そういう人である。
彼女はアトリエで筆を取った。セイディが提案したサンルズの散策を断って。
アトリエには彼女とハーケンが残された……いや、ヴラジーミルも彼女の帽子の中にいた。けれど、ヴラジーミルはナッツの催促の他にすることをしなかったし、ハーケンもまた彼女を気遣い、椅子に座って物音を立てぬよう努めている。
まさしく危うい。どんな構想も彼女を気に入らず、筆に誘われることはなかった。まるで荷物が詰まっているように頭は重いのに、取りだせるものは何ひとつない。
線は糸くずのように細く、筆は震え、震えきって、色でさえが薄い。もうじき消えてしまう。憐れな少女がひとりきり。
「…………」
彼女は筆をキャンバスから離して、絞ったばかりの絵の具がだんだん干からびていくのを、じっと見入っていた。ちょうど糸の切れた人形の生気のない目をして、年老いた樹木の枝葉のように手足が垂れる……否、樹木ならばきっと、年老いたといってもこのように垂れることを知らないのである。それならば彼女は? そう、中身のない枯れた名のない花に違いない。
無意識にも煩悶のうちにこそ彼女の体は呼吸を続ける。だが、ふと視界がはっきりとなりはじめると、また白紙のキャンバスを前にしながら息苦しくなる。これが初めではないにも関わらず、この無遠慮の怪物、言葉を知らない怪物の毒牙――芸術に隣り合う者は大事なものを奪われていくのが定めである。初めに彼女は、大事なものを捧げた。愛され、なにより愛した母親の影……絵の中に彼女は母親の影を置いてきた。それは今、遠い場所にある。もう空さえ違うような場所にある。
うつむくことに妙な安心感を覚えた彼女は、そうしながらちょっと唇を噛みしめてみるとよりいっそう落ち着いて、自分を、少し夢を見すぎた少女のように思えるのだった。だが不思議なことに、いとも不思議なことには、彼女がそうして意識をキャンバスの上から肉体の中へ戻しかけると、構想やひらめきもなしにまた筆を取りがちなことだった。打ち上げられた魚のように口を動かして、また筆を垂れ、それからまた筆をあげる。
人生を尖塔の頂より眺めても、人生の底で尖塔に憧れようと、彼女が寂しい人間であることに変わりはない。
夕食のあとで、リライナはまたキャンバスの前に座り込んだ。ハーケンとメリルは彼女の後ろで黙りあっていたが、しばらくするとメリルは寝室に消えていった。寝る前の一言さえ憚られるらしかった。
真夜中。アトリエに一人の来訪者が現れる。それはハーケンの知人であるらしく、メアリー・デシャネルと名乗った。
「まったく。一声かけてくれれば早起きして酒でもごちそうしたのに」とメアリーは言った。
「一人で飲むのは?」そうハーケンが親しそうに言った。
「当然、嫌いよ。酔いつぶれたらバーのマスターなんて、私の肩を叩きながら、お嬢ちゃんお嬢ちゃんって言うの。まあまあなご挨拶。おかげで後味が悪いったらこの上ない!」
リライナはキャンバスから筆を離して二人の会話を聞いていた。
「それで、この子はだれ?」とメアリーは彼女を見ながらハーケンに言った。
眼光が鋭かったわけでもないのに、リライナはいくらか怖気づいた。黒髪に白のメッシュが入った前髪の隙間からそうして自分を見ている彼女の眼は奔放で無邪気なのに、しばらくすると自信に満ちているのが感じられる。それはリライナにないものだった。
「ぼくの弟子だ。名前は――」
「弟子! 弟子! おお、なんだかうずうずする響きなのは分かるけどさ!」とメアリーは高揚を隠さずに言いながらリライナのそばへ駆け寄った。そこでしゃがみ込むと、なにか好奇心をそそる文献を見でもするように、子細にリライナの体や服を見る。
「ちょっとくすぐったくするよ」
「え? あ、あの……」
リライナがなにか言うより先に、彼女はリライナの足を触りはじめる。それから彼女は、リライナの靴を脱がせ、石膏でも塗りたくるような手つきでまんべんなくリライナのふくらはぎや足裏を触る。
やがてメアリーはリライナの肩に手を置いて、それから彼女の指先までを自らの指で撫ではじめる。
それが終わるころ、帽子からヴラジーミルがメアリーの顔面めがけて飛んだ。どうやら安眠の邪魔でもされたらしく、しばらくは大の字でメアリーの顔に張り付いていた。
「ごめんなさい! もうヴラジーミルったら!」リライナは慌ててヴラジーミルをはがした。
「ちょっと驚いたけど平気。熱烈な歓迎としておこう、うん、そうする」
メアリーはヴラジーミル越しにリライナの目をじっと見入り始め、それからふいに疑るような目の細め方をするので、リライナは次に触られるのは顔に違いないと身構えて怯えたとでもいったふうに目を閉じるのだったが、いつになっても頬に手が触れることはなかった。目を開けてみると、メアリーは微笑んでいるきりだった。
「自分がどんな目をしてるか分かる?」と言いながら彼女はぐっと顔を近づける。「私もその目になったことがある」




