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第三十四話《死の残り物》後編



 アリスの死に苦悶している暇はなかった。世界はいよいよ、彼の目に映る娘の姿、その安らかな希望をさえ奪いにかかった。


 医師はあと数時間で到着するはずだった。彼に出来ることはただ祈りながら目を離さないことだけで、他に出来たのは自分を恥じるくらいのものだった。彼は守れなかったのだ。妻の残したもの、妻の最後の面影であり、華々しい希望の申し子である我が子、コルネリア・ドーアを。


 こういう時でも、人間の道が潰えることはない。しかし、道はたしかに消えないのだが、一歩先には大きな崖が現れる。大地が割れるのだ。そうなれば後ろを見て、自分が陸の孤島にいないのを確認しなければならない。そうして一瞬、安堵する。彼はようやく、死の観念を取りだすことができた。それを自らの手でつかみ取ることができるのにも、やがて気がついた。


 それでもなお彼を地上にとどめるものがあるとすれば、ひとえに愛だった。これまで彼に与えられたもの、芸術やアリスの愛やコルネリアの存在やが、あまりに美しいために、一人残されていく寂寥に耐え、二人の墓前で、彼は手を合わせることが出来た。


 この後に彼はもう一つ過ちを犯した。それは寂しさを紛らわせるために人に優しく努めたことだった。労働者に以前より以上の厚意を示し労いながら日々を過ごした。すると、労働者にとって彼は、呪われた一家の生き残りなどではなく、人情にあふれる信頼に足るメレンスの町長ドーア氏となっていった。


 ある日に彼は、経済的に余裕があるものへ政府が送り付けてくる食糧難の子どものリストを手に取った。彼がそのリストを見るのは至極当然の流れである。


 ある名前が、彼をとらえた。


 それがコルネリア・マーレイだった。


 はじめはたしかに、彼はコルネリア・マーレイをコルネリア・ドーアの代わりとして迎え入れた。コルネリアが夢中でスープを飲む仕草も、すべて彼の過去を癒すものだった。だがそうしてコルネリアと娘を結び付けている自分に、だんだんと嫌気がさしてきた。



 ドーア氏はコルネリアの様子をうかがいながら、続く言葉を練っていた。コルネリアは行儀よく椅子に座ってドーア氏を見ている。顔は不機嫌というよりも真剣だった。


「寂しかったし、身勝手なことをした。おれは救ったのだと満足もした。責任も、最初のうちは一切なかった。でも……」とドーア氏は言いながら、机の引き出しに手を伸ばした。「これが届いたんだ」


 彼が取りだしたのは何枚かの紙で、コルネリアは受けとった。それは手紙だった。



 親愛なるドーア氏へ

 この手紙はどうか、あの子には見せないでください。これを読んでしまえば、あの子は自分の生について疑いを持つに違いないのです。あの子、コルネリアは実に感受性の強い子です。いつからか、あの子はそんなふうに育っていた。私と妻は図書館で働いていましたが、コルネリアはいつの間にか、そこにある本をあらかた読み終えてしまった。これも、親として子どもと接することの出来なかった私たちが悪いのです。もっと、あの子には外で遊ばせるべきだった。そうすれば、年相応にはしゃぎ、年相応に怪我をして、年相応に泣きわめいてくれたのでしょうが、もう遅いのです。私たちに出来たのは、コルネリアを芸術のなんたるかに、無論私などに神髄の心得などありませんが、触れさせることしか出来なかった。メヌエ語を教え、メヌエ語の本を与えました。幸か不幸か、これが私たちに出来た、唯一の親らしいことです。コルネリアに夢を見せました。揺るぎない人の道であり、芸術の道です。ですが、もっと、遊ばせてやりたかった。たとえば海に行くのです。そうしてやりたかった。しかし、私が病気を患い、コルネリアを食糧難リストに並べなければならなくなって久しく、旅はおろか、満足な食事もさせてやれなかった。これは親のすることでしょうか? ですが、コルネリアには生きてほしかった。年相応に生きてほしかった。だから、コルネリアがメヌエ語の本を持っていくと言いだしたときには反対しました。もう、おまえには必要のないものだと、言いました。今となっては、なぜ持っていくことを許さなかったのかと自問する毎日です。ですが、もう遅い。もう、あの子はあなたのもとにいるのです。充分な食事を与えていただくだけでも、私たちは満足です。それなのに、まだ悔いが残っているのです。あの子は元気ですか? なにかしてやれれば良かった。親らしいことを。どうかお願いです。私たちの代わりに、親が子どもにするようなことを、どうかしてやってはくれませんか? 身勝手です。それを許してください。あの子は繊細です。人より悩み、人より喋らない。人より傷つき、人より夢を見ます。そんなふうに、育ててしまいました。

 イワン・マーレイより



 コルネリアは読み終わると、懐かしい父の筆跡にあこがれて字面を指でなぞった。手紙のあちこちには、濡れて渇いたような皺があった。


「ずいぶん遅くなって、手紙が届いた。もう納屋で絵画を見せて、絵の依頼をした後だった。初めて、責任を感じた。そのうえ、どうすればいいのか分からなくなった。親らしいことだなんて言われても……」


「あの、ドーアさん」とコルネリアは顔を上げた。折りたたんだ手紙を両手で自分の胸に押し当て、なおも真剣なまなざしを向けて。


「わたしは、娘さんの代わりですか?」怯えた口調であったなら、ドーア氏も気に障ることを避けるくらいのことは出来たが、彼女の口調はやけに落ち着いていた。


 ドーア氏はしばらく黙って、それから彼女を見たが、その目はあまりに眩しすぎた。都合のいい言葉も出てこなかったので、彼は頭に喋らせるのをやめた。


「もう少し……愛する時間が欲しかったんだ。髪を撫でたり、乗馬を教えたり、体を洗ったり、食事の作法を教えたり、汚れた口もとを拭ったり、薪割りを教えて、釣りを教えて、料理を教えて、寝るときには本を読んでやって、起きたらおはようと言いたかったんだよ。誕生日に本を送ることもしてやりたかった。……許してもらえなくても、それがすべてなんだ。でも、君は愛されている。そう君が思えなくても、君は親からずっと、ずっと思われているんだ。これだけ愛されている子に、あの子の代わりをさせる? どうしてそんなこと……」


 彼の声は震えた。さながら泣きはじめる寸前のように。


「わたしは、ドーアさんを責めたりしません」コルネリアはドーア氏に抱きつきながら言った。子どもが親にするような無邪気な仕草で。


「怒ったっていい。君に娘の面影をすり込もうとしてきた。たとえ助けようなんて情があったにしても、おれのしたことは――」


「――責めたりしません」コルネリアは頑なに言った。


 ドーア氏に今度は力強く響いた。それでまた、この幼い体のうちにある円熟した力の源が親からの愛なのではと怯えるのだったが、押しのけることはしなかった。なぜといって、彼はまた夢みたのだ。娘が生きていれば、今ごろ、彼女と同じくらいの大きさで、同じような子どもらしい仕草をしたに違いなかったし、彼はそうされる日を待っていた。未練の形式で残されたあこがれが、感覚として、骨と肉をつけて現実にやってきた今、彼はただ落ち着けなくなった。


「強い子だ……本当に、なんて強い子だ……」


「昨日は、泣いていました。過去にも、たくさん泣きました。だから、明日は笑いたいんです」


 コルネリアは尻つぼみに声を消していった。その言葉の終わりにあった微妙な震えを彼が思い返しているうちに、堰を切ったように彼女は泣き出した。……


 不安を誘う事象に理由を与えることで人は安心する生き物であるが、この晩にコルネリアがした行動を裏付ける理由はなんであったろうか。年相応の純粋な孤独は彼女の身の上でさらに高められたし、多くうつむきがちの日々だったのに。この時代に自分が世の中で一番不幸なのだと思う子どもは少なくない。だれもが幼少期にとらわれ、自分にこれから起こる偶発的な行事はすべて、過去が形を変えて目の前に現れたように感じる。過去が生きている? そんなことはあり得ない。花が枯れて歪んだ前進思考を持ち出す人間はいつも、これで花に水をやるなどとしなくても良くなったと言いだす。はじめにどうやって花を植えたのか、考えようともしないのに。


 しかしコルネリアは昨日よりも不幸になったと考えはしなかった。むしろ、ようやく自由が手に入ったと思うほどだった。


 彼女は父親の手紙を手にしたまま布団にもぐった。ロウソクを消した後で、読み返したくてたまらず手紙を広げた。ロウソクを消してしまっては、もう読めないものと思いながらもしてしまった、ささやかな行為であった。だが、目にせずともあの輝かしい甘美な感動に身を沈めるのは容易に思われるほど、あれは彼女の胸に焼き付いて、いまもなお優しい響きを持っていた。まさしく言葉通り、父の言葉のままにやってきた感動に光を添えるものがあった。あれはなんと言ったか? おお、あれは月だ! 彼女は寝返りを打ち、窓の外に銀の明かりがあるのを認め、さてそれから手紙を見た。空白には銀の微塵が散りばめられ、安っぽいインクの不純物が星に似た光で応えだした。地上の星を前に、頬上に流れ星の輝いたのは、言うまでもないことである。



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