第二十八話《もうすぐ風が来る》
人の心よりいくらか季節の揺らぎは鈍いものだが、それでも目まぐるしいことに変わりはなかった。紅葉は雪をいただき、荒々しい風が雪の手を引くと、そこにはあの美しい花が芽吹いていたりする。だがそれもやがて散ってしまって、今では青々とした山が、遠目に見れば一種の木を抱えているに過ぎない季節になっていた。とはいえ、もう暖炉の薪を割らなくてもいい季節だったので、コルネリアは少し暇を持て余すようになっていた。
それは彼女だけではなかった。というのも昨日、メレンスの町を大雨が通り過ぎ、濁流が橋を押し流してしまったので、隣町に材木を運ぶ労働者の多くは仕事が出来ず、橋が直るまでは、彼らも同じく暇であったから。
そういう町の人たちがなにかやり切れない顔であちこちに点在しているのを横目にするのは、彼女にとって心地が良かった。なぜなら、彼女には暇になったときにすることがあった。
この頃、メリルとセイディはイスール・ベルに行っていて、彼女はメリルのアトリエの掃除を任されていた。アトリエに合鍵を使って入り、毎日毎日、床や壁、窓に至るまでの掃除をせっせと行い、それを終えて、イーゼルに立てかけてあるメリルの絵を眺める。メリルが依頼で描いた絵ももちろん彼女は好きだったが、そこにある絵はどれも戯画で、仕事とはかけ離れたものの魅力が感じられた。コルネリアはひそかにそれらを「メリルさんの絵」と呼ぶのを楽しんだ。そして一枚、一枚と絵を眺めて、それぞれに感想を口のうちで述べていると……急に侘しい気持ちになって、ソファに腰かけた。
「もし、わたしがパルクト語をまた話せるようになったら」そう彼女は思うのだった。
だが、もう簡単な言葉しか覚えていない。数か月前からメヌエ語を話すようになったセイディに翻訳を頼めば、少しはメリルに気持ちが伝わるかもと思いはしたが、芸術に理解のある彼女は、それはならぬと自ら拒んだ。なぜといって、詩が翻訳で失われるのと同じように、気持ちも翻訳によって失われるものであったから。コルネリアは、これをしっかりと分かっていた。
感想を思い浮かべるのは止めることにした。どうやっても、口から出ていくのはメヌエ語であり、あの人に伝わる言葉ではないのだから。何度も彼女は想像の中でメリルと会話をする自分を思い描いてきた。が、想像の中で、あの人はメヌエ語を喋る。そうしている自分がひどく嫌で、またふさぎ込んで、ソファの上で膝を抱え、「もしも、もしも」と念じるくらいしか出来なかった。
幼い彼女に、これ以上のことは出来なかった。獲得の経験より、喪失の体験が色濃い彼女において、すべての想像は想像に過ぎず、現実に伸びてこないで、光さえ帯びない。理想は見えるのに、橋がなかった。ならば呼びかけよう。しかしなんと言えば? わたしの言葉は伝わらない。振り向いたとて、それだけで、またあの人は背を向けてしまう。ならば、わたしに出来ることはなにか? これより先に彼女が自力で踏み出せることはなかった。
彼女はアトリエの中を歩き回った。
ふと目に留まった本棚に、埃らしい影があるのを認めた。そこでコルネリアは、早く絵を眺めたいがために、本棚の掃除を投げ出していたことを思いだした。
すぐさま、本棚の掃除にかかり、一冊ずつ取りだしては埃を落として、することもないのだからと、だんだん大掛かりになりながら、本を次々に積み上げていった。
そこで、一冊の本を見つけた。
「……緋色の翅」と息を飲みながら、パルクト語で言った。
彼女はこの本を知っていた。なぜなら、これは両親がメヌエ語の教本と一緒に買ってきた本で、両親は覚えやすいようにと、単語をパルクト語に翻訳して彼女に聞かせたのだったから。
掃除は終わった。積み上げられたままの本に囲まれて、コルネリアは夢中になって本を読んだ。嬉しくもあり、また楽しく、また悲しくもあった。言葉をいちいち口にしながら、彼女は両親の唇の動きを思い出さずにはいられず、それが去ると、またパルクト語を話せるのだという確信がやってきて、それも去ってしまうと、あの緋色がやってきた……懐かしい悲しげな、あの色である。
「お父さん……お母さん……」
彼女は思い出した。パルクト語の発音がどうであったか、メヌエ語に出会う前の自分が、どんな少女であったか。……
コルネリアはメヌエ語こそが両親との思い出の最たるものと信じていた。だがそればかりではなかった。パルクト語――否、両親とのあいだに交わされた言葉のすべてが、人生において、日の光と成りうるものと分かった。それを忘れ、メヌエ語ばかりに固執して、あまつさえパルクト語がぎこちなくなり、最後には簡単な単語ばかりになってしまっていた自分を、少しばかり恥じることにした。
人間の精神はときおり、荒れ寺になって、どんな清い風も、また荒々しい、ちょうどこの季節に彼女のうえを通り過ぎていく颶風でさえも、ただ懐に一種独特の劣等に似た哀しみを想起させるだけの代物になる。どんな良薬も、多ければ毒だ。風は毒に違いなかった。背を押され、視線を流し、日暮れはゆっくり疎ましくなるけれど、それでも彼女は明日を願うのだったから。だがそこで、彼女は思いとどまった。なぜ今日は卑しく、明日はいつまでも清純に見えるのか。はたと気づいたのはそんなときだ。本をめくり、夢中になるあまり彼女の中で知らず知らずのあいだに出来上がっていたきわめて安っぽい感情。現実、矮小な時間の連れ、彼女の精神に生を問いかけるもの。そう、彼女は人になろうとしているのだ。
本を追う指は汗ばんで、まぶたは少し重くなって、積み上げたままの本を戻すのにはちょっと億劫になってからようやく、コルネリアは顔を上げた。




