第二十四話《まだ風のない日々に》後編
その晩、セイディはドーア氏の前でギターを爪弾いたが、感想を聞くまでもなかった。夕食の席でのことだったが、彼はしばらくすると食事に手をつけるのを忘れ、自分の手の甲を口に押し当てて鼻をすすりだした。少し離れた席でそんな彼を見ていたメリルは、口を手で隠しながら微笑んだ。なぜといって、彼女はドーア氏が芸術かそれに似た類の感傷的な事物に触れたときに垣間見せる、こういった、道楽というよりも、感動に浸っているのだというきわめて分かりやすい仕草を見るのが心地よかったのだ。
しかし、感動の色を湛えていたのはドーア氏だけではなく、同席していたコルネリアという少女も然りであり、彼女に至ってはもっと分かりやすく、まばたきをすれば零れそうな涙を目にため込んでいた。この娘は芸術に対しての向き合い方をきちと心得ていて、それが彼女の性格にいくらか顕著にあらわれ、彼女を実年齢には似つかわしくない落ち着きで彩るのだった……彼女はまだ十を数えなかった。
メリルとしては、セイディの演奏を聴かせたあとで、ドーア氏に彼女の宿と食事の提供を頼もうと思っていたけれど、そこまでする必要はなく、ドーア氏は曲が終わるとすぐ、二階の空き部屋を使うように、厩舎に空きがあるから馬はそこを使っても構わない、そう告げた。それから彼は曲の余韻も消えないうちに食事を平らげて、給料の計算だのなんだのと言って自室に戻っていった。顔はひたすら恍惚ととろけていた。
食卓に残された三人は、だれから口を開こうかと相談するように目配せを交わした。わけてセイディは、自分は厄介になる身なのだとやけにかしこまった格好で部屋中を見回した。
部屋にとりたてて珍しいものはなかった。部屋の隅に炊事場があり、二、三のすすけた釜が置いてある。隣には食器棚があって、グラスも皿も逆さに置かれ出番を待っていた。部屋の電球は一つだけで、部屋の中心から離れると、だんだん暗くなっていき、それらの家具や食器は寂しい光沢をまとった。彼女らの座っている椅子ときては、木目調の模様こそ美しかったけれど、彼女らの体には硬すぎた。
「旅をしているの?」とメリルが言いだした。
「はい。そう長くではないですけれど」セイディはメリルの赤毛と目の中に赤い翅のような花弁をした模様があることを見いだしながら、徐々にうっとりとした口調になって行った。それから話しているうちに緊張を解いていこうと思って、どこを旅したかなどと語ってはみたが、緊張は解けたものの、一つの疑問が出来てしまった。けれどその場で口にするのはためらわれたので、メリルと同じ部屋で、自分の布団にもぐるまでは黙っていた。
「あの、一つお伺いしても?」口にしてはみたが、声にはまだためらいがあった。
「ん? いいわよ」
「コルネリアちゃんのことなんですけど」言いだして、疑問が一つではないことをセイディは悟るのだった。
「あの子がどうしてパルクト語を喋らないのか、とか?」
メリルは言って、セイディはまさしくと頷いた。
食事中、コルネリアが話すときに使っているのは、第一言語のパルクト語ではなく、第二言語のメヌエ語だった。パルクト大陸の西側に位置するウィールズ地方では古来からある言語であり、実際、パルクト語がメヌエ語より簡潔である点、大陸全土の尺度で測ればそちらの方が流布している点を挙げて、政府が書類や交易の円滑化を図るべく、パルクト語を第一言語と定めるまでは、大陸の西側でよく使われていた言語だった。といって、もう百年単位の昔話で、第二言語と言われていても、今は書物の中にひっそりと佇んでいるくらいの言語だった。
「町長さんは、パルクト語を流暢に使っていましたから、ちょっと気になって。町長さんの娘さんなのですよね? コルネリアちゃんは」
「書類上は、ね。事実は違うのよ」とメリルは小声になりながら言った。「あなたが思っていることは、前にあたしも思ったことよ。あの子は実の娘じゃなくて養子。捨て子だったって聞いたわ」
「それは、町長さんから?」セイディは口ごもりながら言った。
「ううん……コルネリアから。あの子、まったくパルクト語が喋れないわけじゃないの。養子とか、捨て子とか、本当のお父さんじゃないとか、そういう簡単な言葉は話せるわ。自分からは話さないけど、人に聞かれたら、あの子はそう言うの。どこでメヌエ語を覚えたのかは教えてくれないけどね。町長なら詳しく教えてくれるかもしれないけど、あたしからは言えない。部屋と食事まで頂いているから」
メリルも布団に入り、セイディは黙るしかなかった。
布団を口元まで引き上げながら、セイディは虚しく、天井を見た。それから横を向いて、窓の外を見つめて、『こんな空を今まで見たことがあったでしょうか?』と寂しいような気持ちになって、口の裡で呟いた。
彼女のこれまでの旅は単調なものだった。町に行って、酒場や広場で興行をして、宿をとり、食事をし、また次の町へ……その流れの中に人間の複雑な関係性や感情が入り込んでくることはなかった。メリルやドーア氏、コルネリアがそうであるように、彼女にも、言葉のないところに言葉を見いだす力はあった。だが、それは未熟な力で、気配を感じはするがそれを言い当てるほどの明晰さはなく、あるはずの言葉へ空白の札をかけ、悩みの箱へ入れておくことしかできない、侘しい力だった。なにを自分は望んでいるのか? 自分ができることは、すべて余計なお世話であるというのに……そうやって片付けることは容易かった。これは怖いもの知らずや世間知らずな者にありがちな図々しい衝動であったが、彼女には、自分がギターを弾いていた時の、あのコルネリアの表情が忘れられず、愛おしかった。笑顔でセイディの楽の音を聴くものはいくらでもいた。泣く者は一人もいなかった――だがコルネリアは泣いた! あの表情は感動からくるものに違いない。ドーア氏も確かに泣いていたようだったが、彼はもう十分に歴史のある大人で、そうしているのはあまり興味をひかれなかった。セイディをとらえたのは、まだ年端もいかないコルネリアの涙に他ならない。
通例、涙は追憶の轍である。セイディは曲の感想を求めているのではなかった。求めたのは、コルネリアがなにを思い出したのか、なにがコルネリアの目を潤ませたのか、それに興味があった。その壁が言語であり、コルネリアの身の上であるだけのこと。……
あくる日、セイディはメヌエ語の教本を探しに、隣町までおもむいた。ここに帰ってくる証として、ヴィンセントをドーア氏の牧場に残して。
メリル・ヴォーティエはアトリエにいた。そこで彼女は、真っ先に新しいキャンバスをイーゼルに立てかけるのだったが、絵の依頼はなく、なにか構想が浮かぶこともなかったのでソファへ腰かけて足を組み、昨日も読んでいた本を膝に広げた。室内は肌寒く、暖炉の薪に火をつけて間もなかったので、本をめくる彼女の手は震えていた。
アトリエに音はなかった。春であれば、少しの風で葉の擦れあう音がするに違いないと思われるほど、アトリエは林に食い込むような建ち方をしていたけれど、こういう、葉が落ちて、枝が血管のようなおぞましい造形をむき出しにしている冬などにおいて、そんな音すら、アトリエにはなかった。
そして、急に窓がきしむ音がすると、彼女は顔を上げずにはいられなかった。
窓から中を見ていたのはコルネリアだった。彼女が窓へ寄りかかったのだと分かると、メリルは安心した。コルネリアは目が合っていることが分かると窓の下へと姿を隠した。
「怖がることないのに……」
メリルは本を閉じて本棚に片し、それから扉をひらいた。
「ほら、えーっと、中に、入ったら?」呼びかけようとして、急な寒さのために満足な身振りも出来なかった。
コルネリアは窓際で座り、黙ったままでいた。メリルは彼女の前にしゃがみ込んで、自分より小さな彼女の手、かじかんでいるその手を両手で包み手の甲をさすり、そこへはーっと息を吐きかけた。するとコルネリアは不思議そうな目でメリルを見た。その茶色い目に微笑みかけて、メリルは室内を指さした。コルネリアは静かに頷いた。
メリルは彼女の背中を押しながら室内に入って行き、その最中、彼女の肩にかかった茶髪の所々にきらきらと光るものを見つけたので、そっと空を眺めた。もう雪が降っていた。
暖炉の前で二人は座り込んだ。話し合うことはなく、なにか二人でする遊びもこれといって浮かばないまま、二人は暖炉の中で薪が立てるあのぱちぱちと骨でも鳴らしているような音に耳をすませながら、わけてメリルは、小さくも深い、大きいけれど不明瞭なものを抱えて、そんな薪のすることを、物憂げに眺めていた。しばらく彼女はそうしていたが、ゆっくり視点を変えていって、ついに薪の中心を見つめだした。その目は不安に細められ、暖炉の前で力なく揺らいだ。『薪が燃え尽きたら、薪が燃え尽きたら』そう口の裡で呟いた。彼女は願った。あの薪が燃え尽きた時、自分がなにか、壮大でなくとも構わないから、コルネリアと笑い合える術を見いだせるように、そんなふうの願いをした。
薪が燃え尽きる前に、まるで労働者が仕事終わりに吐く息かなんぞのように、三、四つの赤々と光っている火の粉がふたりのあいだへ吐き出された。それは背後へ通り過ぎて、メリルはそういう火の粉を目で追いながら、傍目にはちょっと後ろが気になったのだといった自然的な仕草で振り返った。彼女はそこで、いつ構想が浮かんでもいいようにと、真新しいキャンバスをイーゼルに立てかけたままでいたことを思い出した。火の粉はいつの間にか消えていた。
コルネリアは彼女の肩をつついて、暖炉を指さし、次に新しい薪を指さした。まだ体は冷えていた。メリルは小さく頷いて、薪を新しく暖炉にくべて火をつけた。そのあいだ、メリルは考え事をしていた。彼女の願いはすでに叶っていた。そして今度は、どうやったらコルネリアを絵の題材として椅子に座らせることができるだろうと、思案しなければならなかったのだ。……




