第二十三話《まだ風のない日々に》前編
セイディがメレンスの町を訪れたのは冬のことであった。彼女はヴィンセントと共に旅をしながら、町を転々とし、行く先々の町の酒場などでギターを弾いたりなんぞして、その興行で得た路銀などを宿代や食事代にあてるのだったが、けして食べ盛りの少女を飽満にし、それなりに老いているとはいえ、馬一頭の食事を賄えるほどの収入は、どの町でも得られなかった。ほとんどは宿代に消え、残ったお金はヴィンセントへの労いに使うのが常であり、そのための空腹や眠気を我慢するのを、些細な事と片付け、甘んじて受け入れるのがセイディ・メルヘン・ポートという少女であった。
メレンスの町はそれまでの町に比べて、活気にあふれてはいなかった。だが木材加工の職人が多く住まう町で、労働者は比較的に多く、楽器を鳴らすものは一人もいなかった。そこで彼女は当初、ここに楽の音が響いたならばどれだけ人の心は安らぐだろうと夢見ずにいなかった。
結論として、町の人々は楽の音を欲していた。彼女が酒場でギターを爪弾くと、みながみな、口をつぐむことを礼儀とわきまえ、それからぬるい酒を口にしては、会話もせず、耳は彼女の楽の音のために空けておくのだったが。……
「もっと賑やかな曲をお願いできないか!」そう彼女に言う者があった。
彼女はその要望に応える曲を知らないではなかった。彼女はギターをいくらか激しく鳴らした。それは彼女にとっては不慣れな曲だったが、ノコギリで木を伐りながらその音に合わせて昔ながらの職人の歌を口ずさむことしか知らない者にとっては、たいしたものだった。酒場は賑わいを覚え、人々は肩を組むことを覚えた……だが、彼女は静かに弾きたかった。
その晩、ある程度の収入はあったものの、セイディは宿をとる気にはなれず、ヴィンセントのための野菜と自分のパンを一つ買った後、ひと気のない場所へ行った。まだ弾き足りなかったのである。
メレンスの町には牧場が一つあった。そこは酒場からは離れた場所に位置していて、もの静かに馬屋の窓から漏れているランプの明かりが、それがぼんやりとしていればいるほど、彼女には優しかった。彼女はそのまま、馬屋が見える道端の木陰に申し訳なさそうに腰をおろしながら、パンを一口かじった。
「故郷が恋しくなりますね」と彼女はヴィンセントを見上げながら言った。
ヴィンセントは同意するように首をもたげて彼女に顔を寄せた。その顔を指で撫でながら、彼女は故郷について思うのだった。
セイディの家もまた牧場だった。鳥や牛、馬などを飼っていて、目の前にある牧場よりは少しばかり小さいものの、その故郷では名の知れた牧場だった。彼女の曽祖父が一代で築きあげた牧場を彼女の父が受け継いで、そして、そこの馬屋で彼女はヴィンセントと出会った。初めは姉弟であったが、今では兄妹になっている。そういう意識はちらちらと朧気であったが、ヴィンセントがちょっと偉そうにいななくなどすると、彼女は姉の立場を守ろうとした。といって、鞭を彼女は好まず、ちょっと彼の目の前にあからさまな不機嫌顔で現れたりするくらいのものだったが。それもこうして旅に出て、半ば寝食を共にするような関係、友だちのような関係になると、しだいに薄れていった習慣であり、いまでこそ彼女は、不機嫌顔の代わりに、彼の声を聴こうとするくらいに落ち着いた。
雪は降っていなかったが、寒いことに違いはなく、パンをかじっているあいだにセイディの手はかじかんでしまっていた。だが弾き足りないこともまた事実であったから、彼女は迷わずギターを手にして爪弾きだした。だれの目も気にする必要はなく、彼女は自由に好きな曲を弾いた。季節も風も咎めず、ヴィンセントは笑っているような顔のまま目を閉じた。セイディもゆっくり目を閉じていった。寒さを忘れた。空腹を忘れた。曲だけを頼りに、彼女はさらに深く目を閉じた。
だから彼女は、近づいてくる人影に気づかなかったのである。
セイディはいつの間にか眠ってしまったが、すぐに体を揺するものがあった。ヴィンセントではなかった。……
メレンスの町の外れに、メリルがハーケンから与えられたアトリエはあった。一日の多くをメリルはそこで過ごした。絵を描く日もあれば、椅子に腰かけて本を読んでいる日もあったが、アトリエに寝泊まりするような設備は設けられていなかったので、夜になると彼女は依頼で絵を描いてから親しくしている町長の家をたずねるのだった。
町長のドーア氏は大柄でひげを蓄え、頭には何本か白髪をまじえた男で、おおげさな身振りやなんでも早口に言ってしまう性急な性質を兼ね備えていたため、彼を知らぬものには魯鈍な印象を与えてしまうが、実際にはメレンスの町の牧場で肉の売買やら作物の収穫を行い町の収益のほとんどを担っている男であった。少なくとも、牧場に雇われている者で彼への不満と言えば、少々の大声だけであり、彼に相談をする者はあっても、提案をする者は一人もいなかった。
そしてドーア氏は芸術愛好家でもあった。蒐集家とはいかないまでも、言葉のないところに言葉を見いだす感性も備えていた。ドーア氏は始めハーケンに絵の依頼をしたが、ハーケンは絵の依頼を弟子であるメリルに任せた。ドーア氏はそれ以来、彼女の絵に心酔したため、アトリエに家具が充分にないことを了解すると、自ら部屋と食事の提供を約束したのだった。
ともかく、もうじき夜になると分かると、メリルは本を閉じアトリエを後にした。牧場までは少し距離があったので、寒さも手伝って、彼女は早足に道を歩いた。
すると、楽の音が聞こえてきた。寒空の下で人の意識がゆるやかに明かりを求めるように、この時のメリルも楽の音に近づいた。
だが楽の音の根元に光はなかった。いな、ありはしたが、それはもう消えそうな弱々しい光であった。木陰に横たわって少女がギターを弾いている。そばには一頭の馬がある。
メリルはその少女の前に立ち止まって、足の寒さをかばおうとしゃがみこみ、そうして少女のしていることを物珍しそうに見ていた。
メリルは少女の指先に目を奪われ、ひとたびささやかな風が吹くと、今度は彼女の髪に心を奪われた。乾燥してよく澄んでいる夜の中で、少女の髪はほとんど白く見え、それは長い髪で、毛先にいくにつれて徐々に白くなり、ついには銀になったが、それが根元ではいくらか青みがかって、風に揺らいだ梢のまだらな影が穴の開いた灰青色の帽子をかぶせていたりする……メリルにとって、それは妖精以外の何者でもなかった。というのも、彼女は先ほどまで、こういう、楽器を楽しげに弾いている妖精の出てくるおとぎ話を読んでいたのだった。
楽の音が止むと、妖精は少女に戻った。少女が寝たのだと分かったメリルは、慌てて彼女の体を揺すった。
「こんなところで寝たら、風邪じゃすまないわよ」
メリルは細くひらいた少女の目に向かって囁いた。
少女はしばらく黙っていて、目を開いては閉じ、開いては閉じしたあとでようやく、
「……いえいえ、すみません。ちょっと気持ちよくなっていまして」
彼女の目が緑で、それから申し訳なさそうに光ったものだから、メリルは咄嗟にあることを思いついた。
「あなた、宿とかないの?」
「えっと、まだ決まっていません。といっても、お金がないわけではなくて……」
少女が考え込むように町の中心、酒場や宿のあるあたりに目を向けるのを見ると、メリルはなんとはなしに同情の念が湧いた。メリルはすでにこの町のほとんどの人間に、芸術への理解、強いては最低限の感性、雨が降ったら空が泣いたと感じられるほどの詩的初歩の感受性すら備わっていないことを承知していたのである。
「あたし、今から町長の家に行くの。あなたも一緒に行きましょう? 芸術の理解はある人だから、きっと、あなたのことも気に入るわ」
メリルがそう言うと、少女は目を巡らせ、ギターに指をかけたままの自分に気がつき、照れくさそうにギターを抱きしめた。
「あの、名前はなんというのですか? 私はセイディ・メルヘン・ポートと言います」
「メリル・ヴォーティエ。あたしはそう言うのよ」




