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第二十二話《ナッツと花》



 お父さんはわたしが旅に出ることを許してくれた。わたしの口は返事を口に出来ず、それからしばらく、出来るだけはしゃがないように、ヴラジーミルを指で撫でながら誤魔化していた。この心地よい指につつかれるような感触はなんだろう? なぞられる不快感じゃない。胸のうち側でなんどか壁を叩いている何者かの存在を認めることはあったけれど、それらはいずれも、これほど心地のいいものではなかった。わけてこの感触が強まるのは寂しい時だった。穏やかで遠慮のない指圧が肉体の壁を内から撫ぜる――吐き気に似た喧騒は必ずわたしの耳を聾してきたはずなのに……今は音が聴こえる。不器用な風の指揮の上で、わたしの音が聴こえる。ああ、充足たる幸福、それがこんなに胸を苦しくさせるなんて!


「墓に飾った絵は、本当にリリが描いたのか?」とお父さんは言った。「いや、なにも疑うわけじゃないんだ。感想を言うつもりもない。でも、本当にリリが言ったように自分と向き合い始めているのだという印象があった。……だが、リリには一つだけ覚えておいてほしいことがある」


 お父さんはそれからわたしの手を取りながら、


「いいかい。父さんたち家族は、人並みに幸福で、人並みに不幸で、だれとも同じように歴史がある。これから旅に出るリライナは、きっと望もうが望むまいが、いろんな人に出会う……その人たちにも歴史があって、それを変えようとする権利はだれにもないんだ。悩むことになるかもしれない。悲しむことになるかもしれない。強引に立ち入っちゃいけないよ。助けを求めない人もいる。でも、そんなときにリリができることが一つあるんだ。それはね……」お父さんはわたしの手を両手で包みながら付け足した。「そばにいること。その人が救いを求め手を伸ばした時に、握り返してやること。これだけなんだ」


 口調に感化されておとなしく頷きながら、念入りに見つめて口の動きまで、覚えてしまった――言い終えたと分かって視線をあげたときに気づいた、お父さんの優しく細まった目と共に。……


 あとになって――その日にいよいよ眠るときになって――から思い返すと、どうしてお父さんがそんなことを言いだしたのか分からなかった。単に心配からくる助言だったのかさえとうとう分からず、考え疲れたわたしは「知らないことがまだたくさんあるってことだよね」と天井に向かって独語した。


 すぐには眠れなかった。いまになってようやく不安らしい影が見え隠れしてきたのだ。不穏ではなかった。熱烈でもなかったし、どちらかと言えば遠慮がある仕草で、あの浜辺で幸福がそうしたように、その影が、今度は頭の中で出番を今か今かと待ち構えているふうだった。その仕草が恥じらいを帯びているのを感じながら、いつもなら黄緑色の軽蔑で眺めるはずなのに、そんな気分じゃなかった。わたしは踊りたかった。そう、わたしは舞台の上で幸福のお仕着せを身にまとい、誕生日の楽の音で踊っている。両手は空いて、寂しくて、あなたを招いてみたくなる。


「楽しもうよ、リライナ」とわたしは、だれかが返事をするかもと期待しながら言った。


 虚空に指を差し出して、この指とまれと誘ったけれど、応えたのはヴラジーミルだった。彼は面白そうなものを見るような顔をしてわたしの指にしがみついた。そんな彼のしたいようにさせながら、わたしは窓際へ、そこに置きっぱなしにしていた籐椅子に腰かけた。できるだけヴラジーミルに振動が伝わないよう努めて。


 それからずっと、眠気がはっきりとしてくるまで、町の景色を覚えようとしていた。なぜといって、普段、見慣れているせいでふと思いついた格好でそういう景色をまぶたの裏で想起させようとすると、ただ海が広いことしか覚えていない自分に気づくのだったし、もうじきわたしは旅に出る……旅先で寂しくなったら、この景色を思えば少しは紛れるだろうと思ったから。……そう、きっと、すぐにわたしは寂しくなるに違いない。


「これから旅をしたら、お母さんみたいな人に出会うかもしれない。でも、似てるだけ。お母さんじゃない。みたいなだけ。だから他の港町に行ったって、イスール・ベルに似てるだけで、ここじゃないんだ」


 わたしにとっては、甘美な時間だった。旅立ちの前のワクワクした感触と、ひんやりした寂しさが一緒になって去来し、いつしか意識さえ、遠のかせていく。……


 あくる日。朝食を済ませたわたしはアトリエへ足を運んだ。外にヴィンセントの姿はなかった。加えて、メリルとセイディの姿もなかった。微かな賑わいすら感じられないアトリエを前に落胆しながら中に入ると、師匠がソファに腰かけて、前かがみになって額の前で手を握り合わせていた。


 わたしが声をかけると、師匠は顔をあげた。眉間にはわずかに皺が寄っていて、ひげがうっすらと生えていた。


「ひと月、僕が留守にしているあいだに、君があの絵を描き上げられるのか不安だったが、すっかり描き終えていたみたいだね」と突然出かけて行ったはずの師匠は経緯も謝罪もなしに言いだした。


「師匠。留守にするなら言ってくれてもよかったじゃないですか」とありもしない憤りを演じてわたしは言った。


「急な呼び出しだった。僕に言えるのはそれくらいなんだ」それから師匠は、わたしから顔を逸らし、揉み合わせた手の隙間で、「もしあの人の言うことが確かなら……」と言って、「君は旅に出ようとしているだろう?」と疑うようなまなざしでわたしを見た。


 少し驚いて頷いてみせると、師匠はさらに考え込むような様子で、さっきよりも深く額に手を押し当てた。


「カエ・サンクでなにかあったんですか?」


 そばに行って、気に障らぬよう小さい声でたずねて師匠の横顔を盗み見ると、これまでわたしに見せたことのない恍惚とした表情をしていた。似た表情は知っていた。わたしになにかを問うてくるときの微笑であったり、絵を教えているときの優しい厳しさであったり――だが似ているだけに過ぎない。次いでわたしならどんなときにこんな顔をするだろうと考え出して、やがて一つの場面に行き着いた。それは新鮮な感情で、昨日にもした顔――幸福を噛みしめているときの表情だ。


「いや、それは大した問題じゃないんだ」師匠はやおら立ち上がりながら、「ともかく、旅に出るのなら準備をしよう。メリルとセイディには会ったね? 二人にはメレンスの町で旅の準備を進めてもらうよう言っておいた。もっとも、君が旅に出る前提の話だったが、無駄にはならなかったみたいだ」


「二人も一緒なんですか!」


 わたしはそれを聞いただけで満足になって、師匠の表情のことなどは忘れてしまった。少なくとも一瞬時の敷居をまたいだ後では、旅に持っていくものだの、旅先でどんなことが待っているだろうとはしゃがずにはいられなかったのである。


 きっと、師匠の顔が不穏で危機的な顔であったなら、わたしは他人事ではいられなかっただろう。わたしは弟子で、師匠の絵にあこがれ、この道に踏み出したのだ――いわばわたしは船出したばかり、同じ港を目指して港から漕ぎ出したのだから、帰る場所には灯台がなければならない。わたしが船乗りであるところの灯台こそが師匠なのだから。


「君の準備が済んだら、明日にでも出られるようにしておく。構わないね?」


「……はい。わかりました」


 元気よく返事をしたつもりでいたけれど、自分の声の微妙な震えに驚いた。旅立ちはこれまで、計画に過ぎなかったのだ。一度として現実に忍び寄るそぶりもなかった感覚が、目の端にちらちらと揺らめいて、まもなく本当に自分は旅立とうとしている――この実感を、今まで絵本の中で青い少女がそうしようとしているのだというふうに眺めてきたのに……それが自分なのだと気づいた。


 わたしは旅にあこがれていただけで、それに向けてなにかしてきたのではなかった。といって、荷物選びがまだなのではなく、旅立つ瞬間に向けてのことであるけれど。お父さんをヒトリ、置いていくのだ。それを分かっていながら、わたしは安心を与えられるような言葉を、少しでも考えようとしただろうか? いや、許可をもらえばそれでいいと思っていた。でも、お父さんはそうじゃない。どこかで、旅に出るわたしを誇らしく思ってくれるはずだと思い込んでいたんだ。


「きっとお父さんなら……」


 昼前にアトリエを出て、雑木林の中をふらふらと力なく歩いたのち、木陰に隠れて小川をはさんだ向かいにある家を眺める。厨房の陰で仕込みをしているお父さんの姿を見つける。


「もし、旅先で……わたしが死ぬようなことがあったら……」口から出る度胸もなかった言葉は、口の裡を痛々しく撫でて喉の奥へ入って行った。


「寂しいのひとつくらい、言ってくれてもいいのにね」


 木陰に座り込んで、帽子の中のヴラジーミルを捕まえて同意を求めてみるけれど、彼はおやつの時間だと勘違いするだけだった。


「余分にあげたら、またわたしの髪にナッツを隠すでしょ?」と指でからかいながらわたしは言った。


 彼のそういう相も変わらずの立ち振る舞いには、ときどき冷静を思い出させる要因がある。励ましているつもりはないのかもしれないけれど、幾度となく励ましてくれているような雰囲気を見いだす。といって、実際には、わたしが励ましを求めているだけなのだ。


「はい。一つだけだよ」


 ナッツを一つあげると、彼はそれを口に含んでからもう一つと手を伸ばしてきた。てっきりその場でかじりつくと思っていたわたしは疑いの目を向けながら、しぶしぶもう一つナッツを差し出した。


 すると、ヴラジーミルはわたしの手から飛び降りて、雑木林の中へと走っていった。


 呼び止めようとして、思いとどまった。彼は帰ってくるのだという確信がどこかにあったのと……


「ヴラジーミルにも、家族っているのかな?」


 もしそうなら、彼も旅立つ前の挨拶に行ったのではないかと思えて、友だちとして、妙に感化された気になった。


 わたしはそれから、木陰から抜け出し、これから始まるすべてのことが、この小川の橋を渡ることにかかっているのだと慎重になって、念入りに一歩一歩と家に近づいていった。『そうだ。わたしは帰ってくるのだから、その時のために、練習をしておこう』そう思い立って、やけに緊張して、口の開け方さえ忘れたような格好でしばらく戸口に立ちすくんでからようやく――


「ただいま、お父さん」とわたしは言った。



 翌日。山百合のにおいは強く、明け方近くの消えかけの月は和やかに、細々とちぎれた雲の隙間で、豊かな銀光の挨拶をするのだった。カバンに画材、ポケットの中は空にして、小瓶にナッツ、あとにはわずか、稚い心ひとつだけ。……


 軒先でわたしはお父さんと向き合った。でも、なぜだかそこに、お父さん以外の姿を見いだせる気がした。お母さんじゃなかった。それは旅立たないわたしのイマージュで、彼女はいまも、不安の顔色で舞台裏からこちらを見ている。寂しげに彼女は手を伸ばした。意識の中で、ゆっくり彼女の手を掴みながら、


「行ってきます。……行って、帰ってきます」


 それから手を振って、わたしはアトリエの方へ歩き出した。ちょうど曲がり角にある一本の木を見つけて、あそこまで歩いたら、もう振りかえることができなくなるのだと思うと、まだ許されると思って、何度か名残惜しそうに振り返って手を振ったりして、そのたびに遠ざかるお父さんの姿を焼き付けながら、とうとう曲がり角に来た。わたしは最後と意気込んで、両手を大きく振った。お父さんはまだ見えるところに立っていた。そんな姿を見つめながら、今は別れの挨拶として手を振っているけれど、次に手を振るときは、これが帰郷の挨拶になるのだと感じだして、物悲しくなって、両手はだんだん下がっていった。


 言葉は発しなかった。無意識に荘重な足取りになり、わたしは曲がり角を進み、ついに、家も、お父さんの姿も見えなくなった。それだけで、まだ数歩しか歩いていないにもかかわらず、まだ見慣れた場所であるにもかかわらず、どこだか遠くの、故郷によく似た雑木林の中を歩いているような気持ち、一種特有の新鮮な気持ちになりだして、目新しいものを見る感覚で、周りの木々を眺める。


 そういう新鮮な心で木を眺めていると、これまで認められなかった木に気づいたりした。それはカイノキだった。


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