第二十話《山百合》前編
もう何も考える暇はなかった。
なんとか寝ついて浅い眠りから覚めた後、リライナは二、三時間だけ夢を見たが、その内容を思い返すより先に、今日こそが命日であると分かった。また目を閉じるのは容易に思われたのにしないまま、それどころか、彼女には意識がはっきりしているものの、自分がこうして窓際から見ているものがすぐに現実のそれと結びつかなかった。
彼女は窓辺へ籐椅子を持ってきて膝を抱えて座っている。背もたれに身をゆだねずときどき体を前後に揺らしては、籐椅子のきしみに耳をすませる。そうして眺める揺籃の地には喜ばしい退屈がひしめきあっていた。住宅の密集地から見れば少し高い場所に建っている彼女の家は、実際、町の展望台と言われても飲み込めるほど眺めがよかったし、彼女は部屋から町を眺めるのが昔から好きだった。だが昨日までは倦んでいて、なんとも退屈だったのに。今日だけは特別なのかもしれない。そう彼女は思った。
悲しいと感じられるものは何ひとつなかった。何度も追憶のうちに母親の存在を求めてきたし、そういう奇妙な感覚の中に姿は見いだせるのに呼びかけても微笑むだけの存在を、というよりも、そうする他に孤独を打ち消すすべを知らなかったはずなのに。彼女にも信頼の観念があり、時として狂熱的なまでの信頼をあらゆる事物へ寄せてしまうのに、このぼんやりとした存在に対して向けている信頼は、はっきりと、ささやかだった。ときおり風が彼女にそうするように気まぐれで、彼女が今、胸のうちで呟いているように『きっと、わたしからは見えず、姿しか感じられないところで』くらいのものだった。
しばらくすると、港へ数隻の漁船が帰ってくるのが見えた。あたりはまだ薄暗かったが、彼女には遠くで仕事をしている豆粒ほどにしか見えない彼らの表情さえ、明瞭に受け取れるような気がした。活気にあふれ、重たい荷物を抱えながら食いしばった歯の隙間で大漁を噛みしめている彼らの顔が。
命日だからといって特別な思いつきをするわけではなく、彼女はいつもしているような習慣のままに行動した。山の向こう側でもう日が頭を覗かせているらしいのを明るみだした夜空の中に見いだして、ふと、そこへぽつんと一つ取り残されている星さえも見いだしながら、「また夜に会おうね」と彼女は静かに言ったりした。
身内には不思議な力が感じられる。病魔に蝕まれているときにある気だるさ、遅々とした回復への一歩一歩……それに似た感覚が。しかしそれは、身近な死によって自分自身がなにかを悟った気になりたがっている人間の感覚に近しかった。彼女にも、うぬぼれがあった。といっても、彼女はまもなくそれと気づいて、自分の卑しい思想が次第に嫌になりながら静かに一筋、涙をこぼした。人間が葉であるところの幹へきわめて自然的な力で傷が入るとき、葉はようやく自分が木であるように感じられる……もはや彼女は、少女というよりも人であった。なし崩しや妥協などでは言い表せないこの効果はまさしく生長である。そして彼女は間違えなかった。はじめから腐っている種子などありはしない。どんな卑しい言葉で遊ばれようとそれは変わらない。
無論リライナも自虐的な思想と縁がなかったのではない。特別なものはなく、ただ、気まぐれな風と尊大なるうえ希望あふれる絵と、愛する両親がいるばかりだった。けして、楽しいことばかりではなかったし、彼女も自分の生を呪い目で見る世界には厭世的……いや、外は見ているのだ。しかし、自分を見つめるときは自分の目で見なかった。鏡を前にどこか他人事のような仕草をとるあの操作的客観視の中に彼女はしばしば自分の姿を見いだした。
もう鏡はなくなった。母親の死は間接的な作用をしたが、最後に鏡を打ち壊したのは彼女であり、指で少しつついてみるだけで足りた。自分を管理する立場に身を置いて、自分の意志が満足するには不満な成果を身体的自己へ負わせることで、深刻な傷を精神的自己へ、少なくとも直接は負わせないための処置をリライナもはやくから行い、鏡はそのために必要な代物だった。
だが、彼女にはもう風がある。人生の指標と打ち立てた夢、大海より広く感じられる心をくれた父、迷わぬようにといつも胸のうちで彼女を導く母も。そしていまや、隣を歩いていきたいと思える友がふたり。これだけで、どうしてまだヒビの入った鏡を大切にすることができようか?
昼頃、リライナと父親は墓参りへ行った。なにも二人のあいだで取り交わされなかったし、しじゅう黙りあったままだった。
リライナは絵を胸に抱えていた。このとき初めて父の前に自分の描いた絵を持ってきたが、それを見せながらいくらか気持ちを潤色して表すことはしないままで、あたかもこういう時には当たり前にだれかが携えている花でも抱えているといった格好だった。父親はちらちらと絵が目に入るたびに見入らずにはいられなかった。でも、そうしてなかば夢中になっているうちに自分の持参した山百合の花を手から滑り落としたりしないだろうかと我にかえるのだった。気まずいような雰囲気がなんどか二人のあいだを風の形をして静かに過ぎた。けれどその実、精神の浅瀬で父親と彼女は密接に関わっていた。なぜといって、彼女のほうでも父の持っている山百合が気になっていたし、その香気がほんのかすかに鼻をかすめていく気を起こすたびに、我にかえって、墓を見つめなければならなかったから。寄せては返す波と同じに、あちらに手を伸ばし、それから自分の方へ返っていく。気まずいのはこの波が重ならなかっただけ、そんな些細なことだった。
父親が墓前へ花を供えた後、彼女も絵を墓のそばへたてかけた。空手になった彼女は手を後ろで揉み合わせながらじっと黙っていた。
「浜辺にでも行こうか」と父親は思いついたように言った。
リライナは小さくうなずいて踵を返したが、そう言いだした父はずっと墓の方を眺めていた。彼女は父親の視線を追いながらそれが絵を見ているものと気づいて、羞恥と知り合った。呼びかける勇気は口までは上がってこなかった。彼女が父親を気づかせるには手を握るくらいの思い切りが必要だった。彼女はなんとか父の手を握った。その手は汗ばんでいた。それでようやくリライナは、父がどれだけ山百合を大事に持っていたのかわかったのである。
浜辺へ行くまで手が離されることはなく、お互いがお互いのしたいようにしあっていた。同情ではなかった。手放すことが気まずかったのは事実だが、いつでもそうできるだけの用意が双方にはあった。
まさしく夏であった。季節だけでも、母親のことを想起させるには不満はなかった。山の方に見える入道雲や、そこから下りてきているようなわずかな清涼、それから砂をさらって家に帰ってはまたこちらへ足を伸ばしてまたいくつかの微笑めいた音を立てながら帰っていく波。すべてがすべていつでもそうであるのに、あの日、母と浜辺を歩いていた時も、ひょっとするとこんなふうだったのかなと彼女には思われた。そうして思い出の漠然とした細やかな線へゆっくり色付けしていくのは心地よいものだった。
ふと、今朝はどんな夢を見たか彼女は思い出してみることにした。この頃彼女の見る夢といっては、やたら煌びやかな蛍を、群れからはぐれたらしい一匹を、どこか知っているような知らないような山野の中で追いかけるだけの夢であったり、全く知らない島の浜辺でやたら背の高いヤシなどの前でイーゼルへキャンバスを立てかけておきながら一向に筆が乗らず、ついには砂の上へ寝そべり、そして、砂の上と思っていた場所がいつの間にか海になっては、彼女を深く深く沈めていく……そんな夢が多かったし、彼女はそこから、時に冒険的な、時に叙情的な、その他些細な感情から心理的刺激までを見いだすのであったが。
今日の夢は違った。少なくとも、冒険的ではなかった。アトリエの中、ずっと彼女が気がかりにしていた自分の絵が、母の胸に抱かれていたのである。しかし始めのうちリライナは母親と気づかなかった。というのも、彼女の知っているアトリエはあまり面白みがなかった――床は寄せ木細工で、壁もまたそうであったし、見慣れるまではたしかにどこか浪漫に満ちている気さえされる家だったのに、いまやもう単にアトリエと呼ぶにすぎず、精神の憩いの場ではなかった。そんな場所で母と気づけなかったのはひとえに山百合のおかげだった。無味乾燥な室内は山百合で埋め尽くされていた。それは一連に入り口に立っているリライナの方へ顔を向けて、風が吹いているらしく、うなずいているような、手招きしているような仕草であった。リライナはそれを見つめながら、一面に咲いている山百合のあいだを歩きにくそうにしながら奥へと進んでいった。ちょうど花々の中央にその人は立っていた。思いがけない幸福。すっかりリライナは受け入れていたのに……母親にはもう会えないのだから、歩き続けて遠くへ行こうとしていたのに。
だれか立っている。それくらいだった。だが、やがてその人は彼女のこれまで言われてきた中で一番優しい口調で、一番印象深い言葉で、
「ねえ、リリ。笑って」と言うのだった。
リライナが顔をあげると、あの絵を大切にしながら立って嬉しそうに泣いている、母の姿があった。
夢はそこで終わり、だからこそ彼女はこの日、窓辺で静かな情熱の涙をながしたのであるが。
いまさら思い出しても、ただ笑顔になれるくらいのものだった。
彼女は父親の隣で座りながら、膝の中へ笑みを隠しながら濃青色の海を見つめていた。海の面に反射した光は眩しかったが、またそれが快かったし、父に内緒で母との思い出をまた一つ秘密にできるのも、いささかの背徳感を見いだすにせよ、快かった。すべてがリライナには思いがけなかった。母親の出てくる夢を見るのも、夏がこれだけ爽やかなのも、命日なのに笑っている自分も。
「誕生日おめでとう」と父親はようやく笑いながら言った。
リライナはこの言葉を父が言いだすのを待っていた。といって、なにか返事を前々から練っていたのではなかった。彼女は絵やこれからのことで頭がいっぱいだったし、自分のことなどどうでもよかったけれど、いざ祝われなくてもかまわないと身構えていると、わけてこんな日には、簡単な言葉でもいいからと彼女の稚い一面が震えだして、口にはしないまでも、ようやく自分の誕生日だと自覚するのだったから、父親の言葉はなにより嬉しかった。
これ以上望まれることはなかった。海と空と、風に、まぶたの裏で思い出せる山百合の香りがある。だが、彼女の胸から旅立ちの観念は失せなかったし、輝かしい日の中にあって、ときおりちらつくそれを見いだすと、むしろ見知らぬ土地へのあこがれは強まっているらしかった。
「あの。……お父さん」と彼女は父親を相手にするのにいくらかかしこまった調子で口をひらいた。けれど続く言葉はすぐに出ては行かなかった。呼吸は大きく、吸うたびに海が押し寄せてきて耳障りな音を立てた。白波の中に言葉は消えていった。陸の海底に彼女はゆっくりと沈んでいく。息苦しく、心細くもあった。
父親は黙っていた。
数分が経ち、なおもリライナは心細かった。
急に頬になにかが触れた。彼女がそこへ指をやってみると、ヴラジーミルが張り付いているらしかった。その湿った土に似た匂いが鼻をつくと、彼女はとうとう喋りだした。
「わたしね、旅に出たい」
彼女の口ぶりの真剣さが、いわゆるお出かけや旅行などではなく、ましてや近所の町にとどまらず、大陸を相手にして言っているのだと父親にはわかった。それも、ずいぶん長い期間であることも。……
これを聞いても、父親はしばらく黙ったままで、これがリライナを不安にさせた。なぜといって、旅立ちの観念を意識に上らせるたびに、彼女の冷たい一面が彼女を親不孝者と叱責するのだったし、反対されるのではないかと怪しむ側面も、冷たい一面と束になって彼女の翼をむしっていくのだったから。不安がまた彼女をうつむかせると、ヴラジーミルは頬から離れ、そのまま彼女の肩に居座った。
海には際立った日差しが休みなしに下りてきて、そよ風は絶え間なく、木々の葉影は浜辺に踊り、ひととき彼女の心をとらえて、あの見慣れたものに感じる停滞の煩わしさで襲った。
すぐそばで鼻をすする音がした。彼女は父が泣いているのだと思って、顔をあげられなかったが、しばらくしてそれがため息に変わったので、徐々に父親の方へ視線を向けた。彼女はそこで見入ってしまった。父親は涙を一筋走らせているのに、口元では笑っていた。
「むかし、パティにもおなじことを言われたよ」
リライナは父が母を愛称で呼ぶのが新鮮だった。これまで一度も、彼女の聞こえる範囲でそう呼んだことはなかったし、その発音のなんとも気恥ずかしげなのが、目に映る父の姿をいくらか若返らせた。




