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第十九話《泉》



 リライナは数日間ろくに眠れなかった。というのも、母親の命日が刻々と近づいていく感触が、日ごと日ごとに強まりながらそっと彼女を蝕んでいったのだ。首を絞めつけられるような感触。といって、決してどれだけ割り切ろうとこみ上げてくるあの冷静な性格をした哀愁めいた感情は、だんだんと清々しさが受け取れるほど、きわめてゆっくりと、強固な縄などではなく綿かなんぞのような柔らかな形をなして彼女を襲う……ちょうど霧の中を歩くときの、あの奇妙な息苦しい感覚である。


 雨は降らなかった。母親の命日の前日、その朝に、リライナのそういった気だるい感覚は彼女を海の中へと招き入れた。人は魚になり、建物は珊瑚に変わり、樹木は海藻の森へと姿を変えた。彼女はこの感覚を生まれもった真摯さで受け止め、自分がこの中で生活しているのだという事実が波のように問い続ける、それから自分の横を平然と横切る魚たちを胸のうちで細い線をもって描こうとするときに訪れる場違いな自分の姿……その姿でさえも、彼女は受け止めた。だが、彼女は自分と比べて他人が息苦しそうなそぶりもなく優雅に泳ぐ姿をそうしてしばらく見つめ続けていると、とうとう我慢がならなくなった。もちろん、彼女は目を閉ざさなかったし、耳を塞いだりもしなかった。


 そんなとき彼女の救いとなったのはアトリエにいる二人の友だち、メリルとセイディ、ふたりは今のリライナにとって人魚のようであった。少し前には絵を描くために通った道を、リライナは友だちに会うために歩いていた。そういうときのいつものように、ヴラジーミルは帽子の中にいる。


 雑木林に囲まれた細い道を歩き、アトリエに着くとリライナは、ある時はセイディに、ある時にはメリルにといった具合に、他の町、それも出来るだけ遠くの町について聞かせてほしいとねだるのだった。隣町について聞いたとしても彼女が胸を躍らせることは容易であったのに、こうして出来るだけ遠くと告げるのは偏に稚い心のためである。あの、どんなときでも箱の中身をたくさんの宝物であふれさせておきたいという一種独特な独占欲の、その延長線上にこの行為はあった。しかし子どもの例にもれず彼女も飽満の感覚を知らなかった。友だちが聞かせてくれる町への感動は逓減していくばかりとなって、静粛な焦燥が姿を現す。


 さらに悪い方へリライナを歩ませたものは優しさであった。彼女の母親譲りの何者にも等しく両手を広げて立っているような揺るぎない優しさ、この場合においてそれは気遣いや憂慮と言い表すことのできる形で彼女のうちに座り込んだ。


 町からの旅立ち。ひとり、残される父親の姿。


 無意識に彼女は心の中で筆をとった。数日のあいだに何度もそうするときがあり、パレットに絞り出す色は決まって暗く、まぶたの裏で耽溺のうちに描き上げられる絵はいたましい父親が一人で立つ厨房の風景であるというのに。


 彼女はうつむいていた。これまでにも幾度も彼女を発作的に襲ってきた物思いがやってきたのだ。


 遊び疲れてもなお遊び続けていたい子どもが夕暮れによくみせる、あの陰鬱的な惜別に似つかわしい悲しい表情。これを見出したのはメリルだった。彼女は面倒見がよく、わけてリライナには峻厳な態度で接しようとはしなかった。今のようにリライナがうなだれて、ぼんやりと見れば閉じているような口、よく見つめていれば物憂げにややひらいて息を吐いているらしい口を見ると、そっと彼女の背中を撫でてやるくらいのものだった。


 ちょうど微笑みの練習でもしだしたように、リライナは少し寂しいぎこちない笑みを浮かべたまま、メリルの目をかすかに覗いた。というのも、雨が目に入ったときみたいに彼女の目に映るものはやけに漠としていた。しかし、どんなときだって彼女の目を見るのは快いものだった。そういうときのいつものようにあの赤い花、目の底で大切に芽吹いて鋭いようでその実どこまでも滑らかな形の花。この目から視線を逸らすと、リライナの心はたちまち秋になった。些細な勇気が芽生えて、やおら顔を持ち上げてみると、メリルの花がゆっくりと夏のようなあたたかさで彼女を包んだ。


 快いだけで終わりはしなかった。生まれ育った町でこれまで彼女を楽しませてきたはずの、それから何度も彼女が前を向くための一助となった、揺るぎないように感じられてきた甘美な感動へだんだん倦怠の念をみいだしているのと同じに、メリルの花にも、だんだん倦んでしまったら? 見慣れてしまったら?


 そうしたらきっと、そこに咲いてこちらを手招きはしているもののまったく関心がなくなってしまった花へ人がするように、なんだ花かくらいの気分で通り過ぎてしまう日が来るのだとしたら?


 彼女はすぐに目を逸らさなければと思った。なるべく不自然にならぬよう努めながら、目をふせ、顔を離す。また息苦しくなった。


 リライナは夜になるまでアトリエにいた。といって、三人がそろって一つの物事に時間を費やすことはなかったけれど。彼女は窓辺に立って、外でヴィンセントの背中で寝そべっているヴラジーミルやら空やらを眺めていた。


 メリルはソファに寝そべって本を読んでいた。セイディは部屋の掃除とギターの手入れをしていた。ふたりはまったく無言のうちにリライナを気にかけていたから、いま自分のしていることにはあまり集中できずに、それから気にかけているというよりも、あの子は窓辺で何をしているのかしらといったさりげない仕草で、彼女の方にときおり目をやった。


 あれだけ遠い町の話を聞いて目を輝かせていたリライナが、緩慢な流れでゆっくり、快活とあこがれを減じていくのを身近で見てきた二人は、どうしても彼女のことが気になった。わけてメリルは情熱的だったし、少なくともセイディよりは彼女を知っていると自覚しているために、いくらかの迷いが拭えなかった。というのも、メリルは感傷の沼に足を踏みいれた人に対し適切と思われる言葉を持ち合わせておらず、こうして彼女を放っておくのが、なによりも自分が彼女を見捨てているふうな格好に思えてならないのである。


 だが、メリルに出来ることは何もなかった。そしてリライナにも、どうすることもできなかった。


 誰しもが、なかんずく希望に満ちみちている人の中で流れている想像の小川は清く川底まで透いて見え、そこへ知らぬものなら無価値として遠ざかる艶やかな石をみいだす。むろん、だれもそれを宝石だとは思っておらず、宝石の域へ高めようと努めるわけでもない。たしかなことは、石を大切にする行為の上に、芸術という文化があること。しかしリライナの中にあるのは川ではなかった。それはまさしく鏡をはったような小さな、小さな泉。清らかでほんのりと青みがかったそこにも石や水草が豊かだったのに、彼女は焦りと憤り交じりで水底へささくれだった枝を突き刺しかき乱してしまった。彼女がそうするまで泥でさえ美しかったのであるが、今ではもう、舞い上がった泥のために泉はひどく汚れていた。彼女に必要なものは、ひたすら耐え難きを耐える強さと、善しとも悪しともつかない時間の流れであった。


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