第十八話《小さな旅人》
夜になり、とうとう一人になった。メリルとセイディは、カエ・サンクから師匠が戻ってくるまでのあいだイスール・ベルに滞在するのだと聞いたので、もう数日前の別れとは違い、寂しい何物かがわたしを責めることはない。
この日の食堂の手伝いはいつになく忙しかった。町じゅうの人がやってきたのではないかと思われるほどだった。客足がピークを迎えると、食器を片付け、一足先にお父さんから夕食を受けとってリビングへ入るのが常のこと。食堂の方からは話し声と食器のぶつかる音がする。薄暗いリビングに絶えず流れ込んでくる光もまた、なんだか侘しいものだった。
マッチを擦って、テーブルにあるロウソクの一本へ火をつけはしたものの、夕食には手をつけず、じっと、網戸の向こうで吹いている風のために揺れる、そんなロウソクを見つめていた……
「まだ食べてなかったのか」と仕事を終えたお父さんがやってきた。
「一緒がよかった」わたしは力なく言ったきりだった。
お父さんがどういう表情だったか、もう思い出せないけれど、わたしの夕食と、自分の持ってきた夕食を取り換えたこと、それだけは覚えている。
その日は暑さのためか寝つきが悪く、わたしはベッドの上で幾度も寝返りをうったのち、とうとう諦めてしまった。ヴラジーミルも、昼間ほど活発ではないけれど眠れないらしかった。疲労は必ずしも安眠への扉を開いてくれる鍵とは言えないらしい。
どうせ眠れないのだからと、わたしは窓から海の方を見やった。この日は満月だった。海も町もすっかり暗くなっていて、倦怠的雰囲気の上で光っている月は、物憂げで、物語で言うところの王女――民衆より高い場所で民衆を見守り、何者にも等しい光を分け与える……そんな民衆の中に、王女の片思いの相手がいる。ちょうど、王女が姿を海に映しているあのあたりに。しかしその揺るぎない姿が、心ない人々の陥穽により歪曲を迫られ、王女は波の切れ間にぽつぽつと涙をながす……そんな空想は、もう何度目になるだろう。そうやっておとぎの国への入り口を常にひらいているような景色を前にしても、心躍らず、いまよりも幼い時分に憧憬を抱えて眺めた景色にいよいよ倦んでしまい、安っぽい好奇心がわたしを追い立てる。
考えることはあった。もっと遠くへ、それも、お父さんやお母さんでも知らないような場所へ行って、そこで荘厳な景色を眺めて――そう、そんなことを考えたことはある。今になって、欲求の陰影に光が伸びてきたのだ。わたしから見れば甘美なもの、他から見れば悲しげで、単純な一つの欲望。本棚から本を取りだす一瞬時に詰め込まれた小さな探求心が、夜になって明瞭にわたしの心へ浮かび上がる――あの月と同じように……そしてあの月の涙は……
かすかに楽の音が聞こえた。我にかえり、音をたどって山の方を見る。あまりに小さく、聞いたというよりそんな気がしたくらいのものだったわたしには、その刹那に音は消えたかに思えた。でも、落胆と同時にまた楽の音が聞こえてきた。
「アトリエの方からだ!」とわたしは小声で言った。
寝間着のまま靴を履いて飛びだそうとすると、肩にヴラジーミルが飛び乗るのが分かった。けれどこれには構わず、しかしもう寝ているであろうお父さんを起こさぬように階段を下りて、家を出た途端にわたしは駆けだした。もちろん、あの音色はわたしには得体のしれないものだった。弦楽器の音であるとしか分からない。ただ、こうしなければと胸が騒いだだけのこと――あの穏やかな海も、燦然とした月でさえもが、もう自分の背後にある。
はたして、アトリエに近づくにつれ、音色は強くなっていった。わたしは何度か町を訪れた吟遊詩人がこういう甘やかな楽の音を爪弾いているのを耳にしたことはあるけれど、今日ほど惹かれるものはなかった。音源が近づいている予感がして、走ったために息を切らしながら、向かうまでの小道の木々にいちいち寄りかかり、焦らぬようにと自制し、その都度、漠然とした期待をつのらせてはまた次の木へと身を寄せる……さしずめ、今のわたしは絵本の中の、笛吹きに誘われた少女の一人であった。
音色が鳴りやむより先に、わたしはアトリエにたどり着いた。そこで見たものといっては、黒い馬の背中に並んでとまっている青や黄や緑などの色をした小鳥が数羽――そしてそれらが一連に見つめている先で弦楽器を爪弾いているセイディであった。
セイディは目をつむって、アトリエの軒先に一人で座っていた。小鳥も馬も、昼に見るよりも恍惚とした表情に見えて、見知っているはずのその場所も、夢の中でここへ訪れているように不思議な興奮と自分でさえ知らないような――これまで身内にありながら奥の奥で黙っていたきわめて熱烈な、きわめて情熱的な沈黙を見出してしまう……そんな場所へと変貌を遂げていた。それも、わたしと同じ一人の少女の手によってである。
馬に歩み寄り、わたしは観客になった。馬とわたしとは本日のうちに一度も触れ合いを持たなかったし、ほんのちょっと互いの顔を見合ったか見合ってないかくらいの関係であったが、わたしがおもむろに馬の前足に背中をもたせかけても、馬は落ち着きはらった態度で、そういうわたしのもたれるがままに委ねていた。馬は自分にもたれているものを確かめようとでもするように首を曲げて、ちらちらとわたしの顔を見る。なんとはなしに不安そうな表情を浮かべるので、首の下から上へと腕をまわし、それから努めて優しく、片手で馬の首をなかば抱きしめるようにして撫でていた。
あえかなる旋律はしばらくわたしたちを、耳よりも深い精神的な面にまで響き、文字通り芯から楽しませた。セイディはやがて楽器を爪弾くのをやめるときまで目を瞑ったままで、いざ目をひらいたときは、思わぬ観客の姿を前に一瞬はっと夢から覚めでもしたように口をぽかんとだらしなくした。
「ずっと?」とようやくセイディは小さく言った。
わたしがうなずくと、馬の背中に乗っていた小鳥がセイディの足元へおりていって、それから彼女の顔を見上げて喝采か催促かどちらともつかない声で鳴きだした。
「実を言いますと、私はこのギターとそちらのヴィンセントと共に旅をしているのです」彼女は馬へと手を差し出して言った。
「ああ、ヴィンセントって言うんだ」とわたしは恍惚たる余韻より抜け出せないまま言った。
すぐさまセイディの年齢をたずねそうになって口元でとどめる。年齢という浅ましい基準の上でしか人の行為を偉大なものであるかを判断できない自分がとうとう嫌になった。問題に上がる事柄のほとんどは、その真相に深く根を張っているところの事実、彼女はやった、わたしはやらなかった、それだけなのである。そこで年齢がなんの意味を持つのだろう。
「もうすっかり打ち解けていますね」
まだヴィンセントの首を抱きしめたままでいたのにようやく気がついて、セイディのなにげなく言ったきりの言葉に若干の気恥ずかしさをみいだした。そうして彼の首から手を離してみると、急に手のやりどころに困って、なんとか後ろで手をもみあわせることに落ち着いて、すると、先ほどより彼の前足に背をもたせかけている感覚がはっきりとたちのぼってきた。
小鳥が彼女の足元で先ほどよりも騒々しく鳴きだした。
「ずいぶんと深い時間になりましたから、続きは明日にしましょう」
本当に言葉が分かりでもしたように、小鳥たちは各々の住処へ帰っていったらしく、雑木林の中へちりぢりになって飛び去っていくそんな彼らを、やけにぼんやりとした視線で追った。




