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第十七話《落ち着かない心》


 まもなく、わたしたち三人はわたしを先頭に森の中をあちこち歩きまわった。なんとか、二人にはこの町の緑について少しでも興味を抱いて欲しかったのである。裸根のごろごろしだしたいくぶん険しい道を、わたしは慣れた足取りで、セイディはなにかそういう遊具で遊んでいるとでもいった調子で、メリルはなんとも歩きにくそうな格好で歩いていた。それからときおり木々のあいだから風がやってきて、土、草の青臭いにおいと綯い交ぜになった潮のにおいとが、わたしたちの鼻をかすめていった。


 アトリエからは遠く離れたはずだった。潮のにおいは次第に強くなる。それなのにわたしの心は、どれだけ遠く離れようとも、一瞬たりとも、アトリエでイーゼルに立てかけたままにしているあの絵のことを思っている。描きあげればすべてを笑顔のうちに秘められると勘違いしていたかもしれない。画家の道を踏み出すための生贄かなんぞのように、わたしは自分の一番大事にしていたものを、あとから振りかえると簡単にさらけ出してしまったのではないだろうか……しかし、どうであれ、あの絵に手を加えたり、描きなおしたりすることはこれより先、一度も起こらない。いわばわたしは、夢、だれもが最初に手にしたときには荒れ地であるところの土壌へ水を撒いたばかり――そして、先日になって一つの種をそこへ蒔いたばかりなのだ。わたしはこれ自体を、そうでなくてもこれに似た感情を知っている。辛抱強く、けして焦らず、あくる日も水を撒き、見張っていなければならない。そうしなければ、夢の土壌へだれかが踏み入り、そこへわたしが種を蒔いていることも知らず、手頃な土地だと言って無慈悲なクワを振りかぶるかもしれない。


 険しい森を抜け、わたしたちは浜辺へ出た。


「私は山中にある町で育ちましたから、海はあまり見たことがありません」大きく深呼吸をしたのちにセイディはこう言った。彼女の顔にいくどもあらわれる朗らかな笑みを見るのは心地が良かった。


「イスール・ベルの海は良いですね。おだやかで、海を見ているというよりも、生きた彫刻でも眺めているようなのですよ」


「あたしには、ただの海に、見えるけど……」メリルは肩を上下に動かしていた。


 幾度も見てきた、そしてその度に胸のうちでちょうど鏡のような水面に落ちた雫が起こす、あの波紋のように広がっていく心地よさをいつもならこの海辺で感じるものだけれど、今日ばかりは違った。白波が見せる輝きも、海鳥のたからかな声も、わたしの心へ手を伸ばしこそすれ、触れるにはおよばない。代わってわたしをしじゅうときめかせたものは、三人で砂の上に腰をおろし、それからそこで二人が聞かせてくれるわたしの知らない町だの風景だのといった些細な情報だった。わたしは目を閉じて二人の話に耳を傾け、木組みの家、水路をボートで行き交う行商人の姿を思い浮かべ、はっきりしない輪郭の中にけばけばしい色を塗りたくった。


 想像に耽り、次第に頭が重くなった。わたしは服に砂のつくのを気にかけるそぶりもしないまま、砂の上で横になった。すると、わたしの中で静かに口をひらくものがあった。それは記憶から疑似的にもたらされた既視感であり、そこで語りだしたのは、お母さんと出会ったときのお父さんだった。


『ひょっとすると、他の町を想像しながらわたしが今こうして横になってなにか落ち着かなくなっているのと同じように、お父さんもこんな気持ちになっていたのだろうか?』そんなことを考えながら、わたしはいかにも真剣な目を空へと向けていた。揺籃の地で、純粋なもの、それでいて激しいもの、それでいてあたたかな感触のものが、行き詰まった感覚と交互にやってくる――お父さんもこんな感覚を抱きながら空を眺めていたのかな。……


「巣から空でも眺めているみたいですね」言いながら、セイディはわたしの顔を覗き込んだ。


 それまでずっと目に力を入れて空を眺めていたために、わたしにはそういう彼女の、その夏を思わせるような生き生きとした緑色の目の中に、自分の姿を見た……というよりも、そんな気がされて、またそこに映ったわたしは、なんとも寂しそうな目をしていた。


「あなたはもう画家なのよ。外に出る理由なんて、他にもいくらかあるでしょ」とメリルもまた、わたしの顔を覗きだした。


 わたしがメリルの目を見たことは言うまでもない。赤い花は、いつでも綺麗だった。


 またわたしは空を見たけれど、先ほどよりも二人がわたしの方へ身を寄せているために、視界の横で赤と金の髪が揺れているのが分かった。それが分かると、情熱、探求心、それから心地のいい夢、時として失意、時として希望を持って宿主をもてあそぶらしいそれを、わたしは自分の中に、ありありと感じだした――ああ、こんなところにわたしの心があるなんて!


 それから日暮れになるまでのあいだ、わたしたちが暇になった時間はただの一度もなかった。まず二人をわたしの家へと招いて、お父さんに紹介した。お父さんは食材の仕込みなどをしていたが、いったんその手を止めて、なんだかぎこちなく、落ちつきのない格好で飲み物と茶菓子を出した。聞こえとしては娘の知り合いというより友だちのように扱われることを二人は受け入れてくれた。茶菓子の共に談笑をまじえ、しばらくするとまたわたしたちは外へ出た。念願かなって、新鮮な興奮を身内に感じながら二人に町を見せることができた。これまでには、たしかに一度もない経験だった。まったくこの町について知らない友人に港や市場や噴水広場などを見せるだけで、局地的情熱が芽生えもしたけれど、わたしよりか幼い子供のような、あのはしゃいだ雰囲気を滲ませるには至らない。それというのも、そうして二人を連れまわしているあいだじゅう、どこか切ないまでに幸福な、見慣れた土地の安心からくる不安――いたって静かなもの、それでいて印象深い、一種焦りに似た感覚に打ちひしがれていたのである。……


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