第十五話《うみねこ》
師匠が政府のあるカエ・サンクにでかけ、ひと月ばかりアトリエを留守にするらしいとメリルから聞かされる頃には、もうわたしはキャンバスの前から離れ、窓際で、そこから見える海だの山だのを眺めやっていた。おそらくはお互いが感じあっていたであろう、あの気まずいような雰囲気は、もう見るかげもない。とはいえ、これは気まずさが同情にすりかわっただけで、面と向かって互いの顔を見つめられないのはあいもかわらずであった。
うみねこの声を遠くに聞いていると、もう、そこここの道や山の端などで陽炎らしいものが立っているのを認める。そうやってようやくいたって夏らしい景色を目の当たりにして、これから春には遠慮気味だった生命、花や虫、動物、気に留めることのないあの、名があることすら知らず一生を終えてしまいそうな、あんな草やこんな草だって、元来そなわっている無遠慮な力でもって、わたしの目にはより青々として映るのかな。……
途方もない華々しい予感ばかりに半ば酔いつつ、窓がまちに飛びだしたヴラジーミルにナッツの入った小瓶を取りだした。
「あの絵のこと、聞いてもいい?」とメリルがわたしの横で言った。
彼女の口調はややためらったかに聞こえて、先ほどまでわたしが彼女の胸の中で泣いていたのを思い出さずにはいられなかった。刹那的にめばえた気恥ずかしさから、わたしは左腕で頬杖をついた――できるだけ不自然に見えぬようつとめながら。
わたしが小さくうなずくと、
「どうして、あの絵を描こうとしたの?」メリルは遠慮してか、優しく聞こえるように意識してなのか、低い声音で言った。
「よくわからない」とわたしはいくらか間延びした声で言いながら、落ちつきなく視線をあちらこちらへとやっていた。「描きたいなって思ったもの、他にもあったの。でも、だんだんと欲求がうすれていったの。……外ばかり見ていた。本当に描きたいものが、自分の中にあったのに。そんなことに気づいたの」
言い終えると、ヴラジーミルがナッツを小瓶から一つ取りだしたのが見えた。彼のそういう姿を認めると、わたしは彼にいたずらをしてやろうとおもいいたり、指をゆっくり伸ばした。すると、わたしの指が自分の頭に触れていることにはまったくかまわずナッツをかじりつづけていた。途端、わたしは自分がいくぶん寂しいものででもあるかのように感じはじめた。わたしはため息を吐いた――ため息、と言えば重苦しいようではあるけれど、きわめて些細で、だが、自分はいまなんとも含みのある息を吐いてしまったのではないだろうかと漠然たる思考がめぐる程度だったので、意識の消息は、杳として知れなかった。
メリルがわたしの背中をなでるのが分かった。自分がどんな顔をしているのか次第にわからなくなっていく。ひょっとして、メリルから見るとわたしは悲しげな顔をしているのだろうか? 懐疑的な念にうながされて、自分の顔を隅々まで意識した。笑ってはいなかった。
「大丈夫。もう泣いたりしないよ」とわたしは申し訳なさそうに口をひらいた。
「ううん。あたしのわがままだから」メリルはなおもわたしの背中をなでていた。
わたしはそんな彼女のしたいようにさせていた。
「……リライナって――」とメリルが言いかけたとき、もう赤の他人同士ではないのだと、わたしは思った。
「気を悪くしないで。ただ気になったから。あなた、ほんとうに魔法は使えないのよね?」
「うん。使えないよ」
「でも……」とメリルはなんだか言いにくそうにしながら、「あなたといると、自分がまるで詩の中に迷い込んだ気分になるわ。天窓を見ているときだって、さっきだって……」
言葉は尻すぼみに紡がれ、しだいに窓がまちの下へと落ちていった。
「もっと違う話をしましょうか」メリルは急にとってつけたような調子で切りだした。
それからわたしたちの会話は、師匠がカエ・サンクに向かう道程で通る町のことなどであった。わたしは聞き役だった。メリルはほとんど休みなしに、それらしい抑揚もなしにすべてをあっさり語り終えてしまう。隣町、そのまた隣町。話題と内容の単調さをわたしは気に入りだした――と、それもつかの間のことで、ゆっくりと会話に余白が目立ち始める。やりようのない気遣いが感じられるほどに強まってきた。そんなとき、ヴラジーミルがナッツに満足しその場で寝そべっているのを見つける。今度はわたしから話さなければと思った。
「ヴラジーミルって言うの。わたしの友だち」
わたしはヴラジーミルを指さして紹介した。
「そう。すっかりあなたに懐いているのね」と、なんともしゃべり疲れたといったふうに小さく息を吐いてメリルは言った。
なんとかここから話を続けようと試みたけれど、会話はそれきりになってしまって、無理にこの場を留めようとするのはどちらからともなく止めて、すべてを窓外の木々が無数の梢を差し交わし、まるで時間をわたしたちから取り払おうとでもしたように隠していた夕日のきらめきにゆだねることにした。
「ボルステイン。あなたにはなにも言わなかったのね」
「うん。でも、いつもこんなだよ」
「あたしも、会ったときから気まぐれな奴だとは思ったわよ。今朝なんて、隣町のあたしのアトリエまで来て、カエ・サンクに行くからイスール・ベルのアトリエで妹弟子に会うように言われたの」
メリルはわたしと並んで窓がまちへ腕を乗せた。いつからか頬杖をやめていたことに気づいた。
「それから、牧場に預けていた馬に乗っていったわ」
「馬?」
「ええ。それも知らなかったの? まあ、あいつは自分のことなんて教えようとしないから、無理もないかもしれないけど――」
そこまで言いかけて、メリルはなにか窓外に気になるものを見つけたらしく、身を乗り出してアトリエの前に通っている小道を見つめだした。わたしがそれに倣って小道に目をやると、ちょうど黒い馬が雑木林の影から現れた。馬には見慣れない女の子が乗っていた。
その女の子は慣れた手つきで馬を操っていたが、歳はわたしと同じか一つか二つ下に思えるほど幼かった。
「セイディ!」とメリルが女の子へ手を振りながら呼びかけた。
「なかなかおかえりにならないので、迎えに来ました。日が暮れたら帰れなくなってしまいますので」
セイディと呼ばれた女の子は、わたしたちが身を乗りだしていた窓のすぐそばで馬から降り、これといって埃もついていないズボンを何度かはたいた。遠目にはそれらしいとしか思えなかったけれど、こうして間近で見ると、彼女の髪はプラチナブロンドだった。
セイディ・メルヘン・ポート――と彼女はまもなくわたしに名乗り、頭をふかぶかと下げる。頭をあげると、目が緑に輝いていた。
「また近いうちに会いましょうね」
わたしは外に出て、女の子と一緒に馬に乗るメリルを見守った。外へ出てみると、いまさらながら本当に夕暮れなのだと実感して、胸の中で幽かな、微笑ましいような寂しさを見出した。
「うん。近いうちに」そう口にするのは心地がよかった。
それから雑木林の影に二人が消えていくのをながめていた。最後、メリルの髪が消えかかった一瞬だけ、わたしは呼吸さえ忘れて目に力を込めて見入った。
「わたしたちも帰ろう」とわたしはなんとなく深呼吸をしながら言った。
なにに疲れたのか、ヴラジーミルは肩のうえでやけにぐったりとしている。




