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第十二話《レディシュの少女》


 昨日、何も知らなかった十五のわたしは、目に見えないものを大切にしながら眠りについた。特別なことではない。人はだれもが、目に見えないものを好む。それは目で認められるものが、消失と常に隣り合わせであることを無意識的に理解しているからかもしれない。目に見えないものはこれに比べ、失くしたことに気づきにくい性質がある。加えて、失くしてしまったと勘違いを起こし、苦悩してしまう。わたしとお父さんは勘違いをしていたのだ。ようやく、気づくことができた。本当に美しいものは、どれだけ傷つこうと――元に戻らないヒビが走ろうと、永劫を経てなお消えない輝きを放つものなのだと。


 もうすぐ、わたしは十六歳になる。去年は喜べなかったけれど、今なら、会えないだけで胸が苦しくなる人がいるのだということを、満ち足りた心で抱きしめることができる。


 なぜか人は、偉大な人がなくなると、命日と呼ばず記念日として祝い事をする。お母さんはわたしにとって――お父さんにとっても――偉大な人だった。だからわたしも記念日に祝うのだ。わたしたちは大いに笑うことだろう。お母さんが死んだことをではなく、お母さんに会えないだけで、どれほどの痛みを残された人が感じ、それを癒すには、どれほどの笑顔が必要であるかをあらわすために。


 そしてわたしは、記念日のささやかな飾りつけに、一枚の絵を描こうと思うのである。


 アトリエに行き、師匠と二言三言、挨拶を交わしてキャンバスに絵筆を走らせる。音を必要としない世界の中にわたしはいた。刺激臭がして、開け放った窓から風が吹き込むと、わずかに潮のにおいがやってくる。パレットに視線をおとし、引き伸ばされた絵の具が無上の輝きをその表面に浮かべているのを見つけるまで、わたしは窓の外の夕日に気づかなかった。


 安らかな日々が続いたある日の午後。わたしがヴラジーミルを伴ってアトリエに行くと、師匠はおらず、わたしの描きかけの絵の前で、一人の女の子が座っていた。もうほとんど出来上がっているわたしの絵。それを女の子は静かに見つめていた。肩までかかった赤毛が宝石でできた繊維のようにきらきらとしていた。白いブラウスに包まれた肩に触れている毛先だけは巻き毛だった。女の子の横顔を見るに、わたしには同じくらいの歳と思われた。


 わたしは女の子を扉の隙間から見ていた。というのも、普段、ノックをすれば返事をする師匠の声もなく、扉には鍵もかかっていなかったので、警戒からおそるおそると云った格好で中を見たのだった。イスール・ベルには赤ん坊や物心ついてまもない子どもばかりだったので、わたしはなんとか彼女と友だちにならなければと考えた。でも、わたしが扉を背にして閉めると、絵の前の女の子は驚いたようにこちらを振りかえり、一瞬、猟奇的な目がわたしを見た。鮮やかで艶のある黒い目だった。わたしは息を飲んでその場で化石したようになった。


「やっぱり考えすぎかしらね」と女の子はため息をこぼしながら「あなたがメイリークね。ボルステインから青い女の子だって聞いていたけれど」女の子の目はちょっとだけ柔らかくなった。


 師匠の名前が出て、わたしも落ち着きはしたけれど、彼女の黒い目が苦手になりだしていた。


「あたしもボルステインの弟子なの」彼女は椅子から立ち上がって、わたしの方へ近寄りながら言った


「警戒しないで。目つきが悪いって言われたりするけれど」


 わたしはずっと、近づいてくる彼女の目を見ていた。それは違和感を覚えたからだった。黒一色に思われた瞳の中に、ちらちらと赤が揺れているような気がして、わたしは彼女の言葉を聞いてもいなかった。そして女の子がわたしのそばまでくると、いよいよ謎が解けた。


「目の中に花が咲いているみたい」とわたしは半ば魅了されたように呟いた。女の子の黒い目――瞳孔のまわりに広がっている赤い花びらの模様を見つけたのである。それが両目に六枚ずつあるなんて!


「すごく綺麗な目……」そう言ったとき、わたしからはすっかり苦手意識がなくなっていた。


「わかった――わかったから」と女の子は一歩後ろに下がりながら「今まで人の目を凝視して失礼って言われたことないの?」


「ううん。これだけ見たくなったのは初めてだよ」


 女の子は指先に巻き毛を絡ませて目を閉じ、わずかな時間でひらいた。彼女の目をもっと長く眺めていたいというわたしの欲求は、そのわずかな時間に丹念に練りあがられたと言っていいだろう。


「あたしはメリル・ヴォーティエ」と彼女は淡々とした口調で言った「いちおうはボルステインの一番弟子だから、あなたからしたら姉弟子ね」


 わたしと彼女――メリルはそれからいくらか話をしたけれど、しだいにわたしたちは初対面の人間関係で出しうる限りの話題をすべてやり終えてしまった。沈黙が気まずかった。


「あなたの絵」とメリルはだしぬけに言いだした「家族の絵よね。あなたと、あなたの両親?」


「そう。最初に描く絵だから、いろいろ迷ったけど」わたしたちは描きかけの絵の前に立った「これがいいなと思って」


 お母さんを中心に、わたしとお父さんが並んでいる、それだけの絵。お父さんとお母さんの笑顔を描くのはためらいがなかったけれど、自分の笑顔を描く段になると気恥ずかしかった。


「愛されているのね」メリルは羨ましそうに絵を見ていた。


「メリルだってそうじゃないの?」


 これはまた、わたしの無知だったのだ。


「愛されていた。でも、あたしはメイリークと違って、嫌いなのよ」


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