第十話《ふたりの思い出》後編
父の乗った船が難破したとの知らせが届いたのは数日後の早朝であった。それから捜索隊が出港して帰ってくるころには、町じゅうが通夜のように静まりかえって、朝市で見かける活気のいい漁師も、魚を目当てに港へおとずれる、普段、薄茶色や紺色の服で着飾っている婦人たちも、全員が喪に服していた。喪失とはこういうものだとでもいったふうなくもり空で、それがしばらくして、雨となる前に晴れ間を覗かせた。雨の恐怖が去ると、皆は自分がなにをすべきかきちっと心得ているようで、港へ行き、見つかった四人(難破船の乗員は総勢二十人)の遺体と共に船から出てくる捜索隊を出迎えたのである。
一人目の遺体はジェシー・オプキンス。町では酔いどれだの酒豪だのと呼ばれていた男。謎めいた男で、家族があるのか、そのうえ雨の日でも広場でテントをはって寝ていたので、この町に家があるのかさえ、だれも知らなかった。ただひとつ、彼の人柄の良さを思えば、大勢が涙を拭うはめになった。酒に飲まれようと、彼は暴力などとは無縁の男で、だれかが話しかけても、海での思い出を大げさな調子で語り始めるくらいのものだった。
二人目はケニー・アレル。彼女と交友関係にあった人間は数えきれなかった。二、三日ののち、彼女には大陸全土から「哀悼の意を表する」との手紙が寄せられた。政府のあるカエ・サンク。最東端のテイスルーズ。これには全員が驚いた。彼女はおれに、大陸の港という港で漁をしてまわり、イスール・ベルの海がいちばんだったからここに移り住んだのだと、聞かせてくれたことがある。数日前に浜辺でパトリシアに語った空想の入り口――はてしない空想へといざなってくれる門の前で、彼女の言葉はいつも、そんなことをいましがたおれの隣でだれかがささやきでもしたように聞こえてくるのである。――「海はけっして一つなんかじゃない。空だって同じことだ」
しばらくケニーの遺体を、膝をついて見ていた。健康的な小麦色の肌や青ざめた唇。濡れた額、頬、髪――ふやけたようにたよりなくなった手。この手に何度か痛い目にあわされたことがあるのを思い出すと、無意識にケニーの手を握っていた。自分の体の熱が奪われているような気がした。足がふるえて、首筋がやけに熱くなる。ついで、だんだんと目の前にいる人を、なにか人とは別の、得体のしれないものに……――人間の関係性が如実に表れるのは、いつだって死んだあとなのだ。
「あなたの知り合い?」と、パトリシアがおれの横にしゃがみこんで言った。
おれは、彼女はこの場に現れないと思っていた。そうでなかったら、ケニーの手を慌てて離すこともなかっただろう。だが、この悪趣味な展示会となりはてた港の一角で、おれを咎めるものはだれもいなかった。
「親しくしていた」と、おれは抑揚のない声で言った「海の話をするといつも――」
パトリシアが好むと好まざるとにかかわらず、おれはケニーとの思い出を語りはじめた。そうしなければ、自分がケニーを人として捉えていられないとでもいったふうに――どうしておれは、彼女を「これ」だの「それ」だのと呼びたがっているのだろう。……
そうしているうちに、また足元が冷えてきて、晴れ間が消え、雨が無情に降りだしていることに気がついた。町の人は皆、家へと帰ったらしく、あとにはおれとパトリシア、四人の遺体。それと捜索隊に編成された数人の漁師――彼らはまもなく船の方へ消えていった。
思い出を語っていた口を閉ざし、おれはケニーを見、それからパトリシアを見た。もし、彼女がこのとき、あの浜辺で見せたようなつつましやかな情熱のこもった目をケニーにではなく、おれに向けていたなら、一文無しの物乞いさながら悲しげな顔を前にして、何をささやいてくれただろう。
パトリシアは目を閉じて、開き、また長く閉ざしてしまった。
この数日のあいだ、おれは満足に眠れないでいて、しじゅうまぶたの裏に埃を詰められたみたいな寝不足を感じ続けていた。ぼやけた視界には何もかもが現実的で、また時折、幻想的に映る。すぐそばで横たわっているケニーを現実的とするならば、パトリシアの長いまつ毛が半ば湿ったように輝きながら、潮風にさらされ、まぶたの上に幽かな影をおどらせているのは、えもいわれぬ安らかな心地にしてくれるものだった。
次に彼女が口を開くまで、おれはとことん乞食のような心持になっていった。あらゆる羞恥心を忘れ、したたかな、そのうえ貪欲な姿勢を自尊心で塗り固めたならば、およそ彼女の理解が得られないことをまで、ねだっていたかもしれない。
「ねえ、エリック」彼女はうっすらと目を開けながら「ここにお父様はいたの?」と言った。
これを聞いたときから、おれは乞食などではなく、寂しげな青年へと変わった。
「あなた、お父様を探しに来たのではなくて?」と、パトリシアは今度こそ、おれの目をはっきり見ながら言った。
「ここにはいない」と、おれは言った「まだあっちに二人いる。でも、だれもおれの肩を叩かなかった――それが証拠さ。もしここに父がいたら、全員がおれを父の前へ連れて行って、感動の再会を目の当たりにしてまた涙をながして――」そこまで言って、なんとも苛立たしげな調子で喋っているのに気がついた。……
「……嫌いだったわけじゃない。嫌いだったら、三日も浜辺で、父さんを待ったりしないんだ」と、口を衝いた言葉は、いかにも年相応であった。あわれで、みじめで、一人が嫌で、わがままな、ただの子ども。
雨が地面を揺らし、静寂の中で奇妙な憔悴をたたえた目をしたまま、おれはパトリシアを見ていた。
「あなたはいろんなことで悩んでいる。見ていればわかるわ――だってあなた――私と出会ってから一回も笑ったことなんてなかったもの。私の名前を聞いたときだって、笑ったりしなかった――あんなに気持ちいい風が立ったのに」彼女は残念そうに言いながら微笑んでいた「あなたは白い水。そこへ黒い悩みが垂れてきたら、あなたは自分が濁ったことを悩むの。そうしてしまうのはあなたの心が綺麗だから」
落ちついた彼女の声はやけに小さく感じられて――きっと雨のせいだ――おれは無意識に体を寄せて、耳をそばだてていた。このときの自分は、彼女の言葉には言外の意味があると考えはしなかった。このときはただ、彼女の声に魅了されていたのである。内容も、意味も、気づいたのはもっと後のことである。微かにあった彼女への信頼は、もはや不動のものとなっていた。
おれはいちど冷静になって、自分がもう酒を飲める歳になっているのを思い出した。そこからは単純だった。パトリシアの泊まっている宿へ行き、食堂でカウンターの席に腰をおろして酒を頼んだ。始めのうちは一杯だけと決意して――しかしこの決意は無駄になった。付き添ってきたパトリシアもまた酒を頼み、彼女はなんのためらいも見せず一気に飲み干したのである。なぜか胸のどこかで彼女は酒に強くないと決めつけていたおれにとって、それは喜ばしい裏切りであった。ここまで信頼を寄せたくなってしまうと、おれは不穏な考えに至らずにはいられなかった。
『ひょっとすると、彼女はおれの求めるものをわかっているのではないか?』そんなことを口の裡で呟いてまもなく、酒がまわってすべてを忘れ――そう、すべてを忘れ――二人分の酒が目の前に運ばれてくる頃には、ありとあらゆるものが輝いて見えた。食堂の全体の照明を担うのには薄いたったひとつの電灯が、日の光であるかのようにまばゆいばかりとなって、カウンターに二本、五つほどあるテーブルに一つずつ置かれたロウソクの火は、どれも揺れることなく灯っていたのに、おれとパトリシアの間で燃えているロウソクの火は、どちらかが息をつくと、ここぞとばかりに激しく揺れだした。
パトリシアは片肘をついて手に顎を乗せ、ロウソクを眺めていた。横合いから彼女の目を盗み見ると、あの海の中で、灯台のようになって揺れる火が映り込んでいる。濡れたまつげが呼び起こすものは、星冴ゆる夜空――波の静かな海に浮かぶ妖精の踊り子。
ついに自分の居場所さえにわかには分かりかねるくらいになってくると、
「このロウソクが消えたら、どうなるのかしら」と彼女がだしぬけに曖昧な口調で言いだした。
「二人とも家に帰るんだ。君は泊っている部屋へ、おれは実家へ――ひとりで」とおれは言ったけれど、意識はまだおとぎの国のただなかで、憤りと憔悴を探す旅に出ていた。
「いいえ、きっと素敵なことが起きる。そうは思えない?」パトリシアはこちらへ身を寄せながら、なおも小声で言った「ロウソクが消えて、雨が止んで、するとどこからか楽の音が聞こえてくるの。それにあわせて――私とあなたで踊って、心地いい風に吹かれる」
彼女は意識の絶対的な先導者になっていた。無根拠な自信の理由をたずねることはしなかった。
「もしそうなったら――私、あなたのお気に召すかしら?」




