精霊と王
目が覚めると日は高く昇っているようだった。
天蓋のカーテンは下ろされており、眠る前には開けっ放しだったからベルンハルトが下していったのだろう。白い精緻なレースのカーテンからは防ぎきれない程の明るさなので、昼前なのではないかと予測してアンナは体を起こした。
寝たまま泣いていたのだろう。瞼が腫れぼったくて気持ち悪い。
「ベルンハルト」
小さな声で試しに呼んでみた。普段ならば、すぐにノックの音と『おはようございます、姫様』と現れるはずなのに、やはりというかなんというか何の反応も無かった。
アンナはベッドから降りて、寝着を脱いでいつもの赤と白のワンピース姿になった。部屋をそろりと抜け出ても誰もいない。いつも古城は静かだけれど、こんなに静かなのは不思議だった。
とりあえず居間へ行くことにして、長い階段を降りていくといつも通りいい匂いがしてきた。少し時間が遅すぎるけれど、朝ごはんの香り。アンナの足は自然と早くなり、扉を開ける。
ピカピカに磨き上げられた大理石のテーブルの上にはいつものように清潔なテーブルクロス。中央にはオレンジと黄色のバラが飾られており、朝食の支度がされていた。
「クロワッサンに、ベーコンエッグ。それにグリーンサラダ…美味しそう」
きちんとバランスを考えられた食事。グラスにはミルクが並々と注がれている。しかし、用意したであろう当の本人の姿が見当たらない。アンナは考えあぐね…普段と同じようにテーブルに着いた。
幼い頃、ベルンハルトに教えられた通りに両手を組んで、そっと瞳を閉じて食事の前の祈りを捧げる。
「この地を守り給う、精霊ディオヌスよ。その偉大なる加護に感謝し…」
「ふふっ、姫様は私がディオヌスだと分かっていても、食事の前の祈りを捧げて下さるのですか」
堪えきれない、といった様子の声が背後から聞こえてアンナはばっと後ろを振り返る。
先程までは確かに誰も居なかったそこには、いつもの燕尾服を着たベルンハルトが腕を組み、扉に寄りかかってじっとアンナを見ていた。普段の彼ならば絶対に扉に寄りかかったりはしない。背筋をシャンと伸ばして立っているのに。
「…ベルンハルト?」
ディオヌスなのか、ベルンハルトなのか。どう呼ぶべきなのか少し悩んだが、アンナはベルンハルトと呼んだ。
「いいえ、姫様。私は…精霊ディオヌスのなれの果てですよ」
自嘲気味にベルンハルトは答えた。黒い瞳が伏せられた。
「姫様。朝食を取りながらで良いので、昔話を聞いて下さいませんか」
アンナは頷いた。食欲なんて無かったけれど、とりあえずナイフとフォークを持つ。そうでもしないと永遠に話してくれなさそうだったからだ。卵にナイフを入れたアンナを見て、ベルンハルトはゆっくりと口を開いた。
*****
昔々、あるところに精霊が一匹おりました。その精霊はあまり力が強くなく自我というものもありませんでした。精霊は、海の中で漂って生きていました。長い年月を暮らしていたのですが、どこを間違えてしまったのか。いつの間にか元居た世界ではなくて他の世界に迷いこんでしまっておりました。
海の中で育った精霊は、世界を渡る時に大きな魔力を得てしまったようでした。そしてただ漂っているだけだった精霊はその力によって自分の意志でやりたいことができるようになったのです。自我を得た精霊はその力を持て余し、森の中へと隠れました。その奥深くには清廉な湖があり、精霊はそこに住むことに決めたのです。
精霊の巨大な力は森を狂わせました。元々、この森に暮らしていた哀れなクマの獣人は精霊の魔力に触れて獣の姿しか取れなくなりました。獣人の姿を狂わせるほどの力だったのです。
精霊の力が強くなる月の出る夜には、元居た世界の海と世界が僅かに繋がります。しかし、完全に繋がるわけではないので精霊は帰れません。
とても悲しく思いましたが、森の木々の間を泳ぐかつての仲間たちの姿は精霊の心を少し癒してくれました。永久に交わることはできなくとも見守ることはできたのですから。
そんな折でした。この土地の異変に気が付いたレアトリア王が視察へとやってきたのです。人に会うのは初めてだったので孤独だった精霊は喜び、小さな城を作って王を迎えました。獣のままでは困るでしょうから、城では人の姿が取れるようにそこでは力が少し封じられるように工夫して作りました。
レアトリア王はとても情の深い人物でした。戻れなくなった精霊にとても同情し、この森を国の管理下に置くことと、誤って獣人たちが立ち入らないようにしてくれると言ってくれました。
人が居ないのは少し寂しいと思いましたが、獣人たちにはこの森は毒です。うっかり立ち入って獣になる人々を見るたびに精霊の心は痛んでいたので、とてもありがたい申し出でした。少し寂しいけれど仕方ないと。
そして、そんな孤独な精霊の為に王は約束してくれました。
「満月の夜に私を呼んでくれれば、話をしに来よう。孤独に暮らす貴方の心の慰みになればいいが」
精霊はその言葉を喜んで受け入れました。満月の晩にはレアトリア王を招待すると。その際には自らもてなしをすることにしました。
精霊とレアトリア王は長い年月をかけて親交を深めました。精霊と呼ぶのは味気ないと、名前まで付けてくれたのです。
精霊はこの王国を守ることにしました。侵略しようとする敵が入ってくればその森で惑わせ、豊かな水源で国を潤しました。豊かな森の水は海へと注がれ、やがては海の生き物にも恵みを与えました。
しかし、レアトリア王はただの獣人です。王は老い、命の終わりが見えてきました。それでも、だいぶ長生きをしたほうなのだよと王は笑いますが、精霊にとってはほんの一瞬でした。嘆く精霊に王は約束してくれました。
「私の子どもたち、いや。子孫から、貴方が話し相手を一人選ぶといい。選ばれた者には事情が伝わるようにしておくから」
そこから長い年月が経ちました。孫、ひ孫までは良かったのですが、段々と話が歪んできてしまいました。選ばれた者が王になると。
確かに、精霊は話し相手を一人選びます。それは魂の色がかつての友に似ているかで判断しているだけで、別に王を選んでいるわけではないのに。
気が付くと、彼はすっかりこの国の一部になっていたのです。かつての友が尊重してくれた精霊はもう居ません。今更すべてを投げ出すわけにはいきません。
疲れた彼は、かつてこの森で獣になってしまったクマの獣人の姿を借りて、森の番人として思い出でいっぱいのお城で暮らすことにしたのです。時々はディオヌスとして役目を果たしますが、彼の神殿はいつも空っぽでした。
自我を手に入れた精霊は、自由を失いました。
次話、精霊とお姫様




