騎士の決意
しばらく庭園を歩いていたはずなのに、気が付くと部屋の中にアンナは立っていた。先ほどの金髪の騎士が鎧を脱いだ姿でソファに座り、膝に肘を付けた姿勢で頭を抱えていた。
「…クマおじさん、大丈夫?」
“クマおじさん”と、ごく自然にアンナは呼びかけていた。しかし、その問いには当然答えはない。騎士はゆっくりと顔をあげた。アンナにそっくりなその青い瞳は苦悩を浮かべている。
「もう、兄上はダメだ。何を言っても聞き入れて下さらない。あのように怪しげな連中を招き入れて…」
彼の言う兄上をアンナは知っている。このラカーユ国の国王だ。そして、この金髪の騎士は王弟であり、騎士団をまとめ上げる騎士団長…ベルハルト・ドゥ・ラカーユ。
クマおじさんと呼ぶと「ベルハルト叔父様と呼べ」と言われていたが、長い名前を上手く呼べずに“ベルンハルト”と誤って呼んでいた。難しくて、何度も言い直しても呼べなかった。結局クマおじさんと呼んでいたっけと懐かしく思う。
「…クマおじさん」
アンナは決して触れることのない手をそっと伸ばす。苦悩に歪む顔をそっと包み込むように。
「…最近では侍女どころか、昔から居た騎士連中も暇をもらって逃げ出す始末、もはやこの国の未来はもう無い」
騎士は立ち上がる。鎧を再び身にまとい始めた。準備していたのであろう、大きな袋は色々なものが入っていてパンパンだ。それを担ぎ上げて扉へと向かう。
どこへ行くのか。もうアンナは分かっていたけれど、人気のない王宮を足早に進む騎士の後を小走りで追いかけた。
お城の一画。ここには王弟と言えども立ち入ってはならない場所のはずだが、彼は手慣れた様子で警備の目をかいくぐって入る。王宮の奥深く―――姫君の住まう後宮へと足を進めて行く。
アンネロッテの寝室の前には警備の騎士が二人立っていたが、ベルハルトの姿を見ると安堵の表情を浮かべた。一つ敬礼をしてから、小声で話しかけてくる。
「ベルハルト殿下…とうとう行かれるので?」
「ああ。アンネロッテをこのままここに置いていくわけにはいかぬ」
「ベルハルト殿下ならば、必ず、姫様を連れていかれると信じておりました!」
この二人の騎士も知っている。おやすみのキスをしてはいけないと言われていたが、アンナはこっそりと二人におやすみのキスをしてから寝ていた。先に声を掛けた方が、優しくて礼儀正しいディール。明るくて少しドジな方がザックだ。
「アンネロッテは?」
「姫様はゆっくりとお休みです。この国がこんなことにならなければ…おかわいそうな姫様」
「騎士も侍女も随分と減りました。代わりに得体の知れない連中が増えましたがね。王も何故あのような者たちの言うことを鵜呑みにされるのか…」
「ザック。口が過ぎるぞ」
ディールの言葉にザックが口を閉じる。ベルハルトは苦い表情を浮かべた。
「いや、当然のことだ。俺がもっと諌めることができれば…」
王の近くに現れた連中は、少しづつ、少しづつ、王の心を絡め取っていった。遠征へと出かけたベルハルトが戻って来たとき、少し気が弱いが心の優しい王だった兄はいなくなっていた。元々政略結婚だったアンネロッテの母はさっさと国元へと逃げ帰ってしまい、アンネロッテはこの広い王宮で一人になっていた。
胡散臭い連中は、アンネロッテを儀式に使えと王に進言しているらしい。可愛い愛娘はたった一人だけだ。今は拒んでいるが、それももう時間の問題だとベルハルトは判断した。
今日、この闇に乗じてアンネロッテを連れて亡命することに決めたのだ。彼の愛馬は準備を済ませて待たせてある。目立つから単騎で行く予定だ。
とても危険だが、命に代えても可愛い、何の罪もない幼い姪だけは連れ出すつもりだった。
寝室へと入ると、幼い姫君はぐっすりと眠っていた。掛布で丁寧に包み、ベルハルトは小さな彼女を抱き上げた。アンネロッテは何事かむにゃむにゃ言っていたが、ぎゅうと抱き着いて再び眠ってしまった。ベルハルトの険しかった顔が少しだけ緩み、抱き上げる手にぎゅっと力がこもる。
***
夜の闇に乗じて馬を出したが、どこからか情報は漏れてしまっていたようで、すぐに追っ手がかかった。王宮の中には味方の方が少ない状態なのだから、想定はしていたが早すぎる。
ベルハルトは追っ手を斬り払いながら馬を進めた。アンネロッテが落ちたりしないように自身と紐でくくってある。
何度か追っ手を振り払い、王宮を遠くに望める小高い丘まで進んだところで、待ち伏せをしていた敵に矢を射られた。アンネロッテを庇ったベルハルトの右肩に矢が深々と刺さり、次々と飛んで来た矢は彼の背中、横腹へと、そして騎乗していた馬にも刺さっていく。
馬が怯え、いなないた。愛馬を落ち着かせようとベルハルトが体を動かした時だった。
「クマおじさん?」
胸中の丸めた布団の中から、彼の大切なお姫様が不安げな表情で見上げていた。いつから目が覚めていたのだろう。優しい、深い青い瞳をしている。正気だった頃の優しい兄にそっくりだ。
「大丈夫、怖くないからな、アンネロッテ。必ず、お前は幸せになるんだ」
ベルハルトの顔を流れる血に気付いて、カタカタと震えだしたアンネロッテを抱き寄せ、ベルハルトは馬から落下して彼女を庇って着地する。
わっと襲い掛かってくる手練れに囲まれた彼の頭上を巨大な影が横切った。明るい三つの月が遮られ、一瞬真っ暗になるほどの大きさに、追っ手の足が止まる。その一瞬を見逃すベルハルトではない。剣を振るい、数人を斬り倒すがすぐに距離を取られてしまう。
「ちっ。そう上手くはいかないってことかよ」
もう、立つ気力もほとんど無い。どんどんと血が失われていくのが分かった。クマおじさんと叫び続ける悲しげな声に、大丈夫だからと言い続けた彼が最後に見たのは、遠く見える故郷の城が白銀の竜により氷漬けにされた瞬間だった。そして、それが真っ二つに割れた瞬間…彼と彼女を嵐が襲った。
雨と風の嵐ではない。魔力の嵐だ。ただし、魔法にもなっていない、もっと原始的な力の奔流。それに押し流され、ベルハルトとアンネロッテは意識を手放した。
それらをアンナは黙って見ていた。頬を涙が次々に流れていくが、拭う気にもなれなかった。これは過ぎてしまった過去なのだと、彼女には分かっているのだから。
どこかの世界で起きた、悲しいおはなしですね。
次話、騎士と精霊




