第1章 出会い(1)
枝葉に閉ざされた空は気づけば深い藍色へ変わり、森の奥は冷たい夜気に沈んでいく。アオは小さな光球を浮かべて羊皮紙の地図を照らし、記された地形と周囲の景色を何度も見比べていた。風に乱れた桃色の髪が汗ばんだ頬に張り付いても、今は気にしている余裕などなかった。
「おかしいなぁ、この辺りに『朽枝の星祷院』があると思ったのに……」
前方に横たわる苔むした倒木を見つけた途端、つい先ほどもここを通り越した記憶が蘇り、胸の奥から重いため息が漏れる。街へ戻ろうにも、どちらへ向かえば森を抜けられるのか分からない。アオは腰に提げた小型の魔導具を取り出し、魔力を込める。すると、方角を示す紋様が青白い光となって浮かび上がった。
焦る気持ちを抑え込み、再び地図へ目を落とした、その時だった。背後の藪から、低い唸りが森の空気を震わせた。
弾かれたように振り返った先で、暗がりから巨大な影が飛び出した。月明かりに照らされたのは、硬い鱗に覆われた狼──。
目前まで迫った牙に、思考が凍りついた。
視界を覆う巨体だけが奇妙なほど緩慢に見える。土を蹴り上げる前脚も、唾液を散らす牙もやけに鮮明に映るのに、足は地面に縫い付けられたように動かせない。喉の奥が引き攣り、見開かれた瞳に獣の巨体が迫りくる。
──カチリ
乾いた金属音が、凍りついた空気に亀裂を入れた。
アオの目の前に、視界を遮るように一人の男──シンが踏み込んでいた。
シンは深く地を踏み込み、見慣れない歯車仕掛けの大剣を正面へ構える。迫る狼の突進を剣の腹で受け止めると、刃と牙が噛み合う耳障りな金属音が森へ弾けた。シンは腰を沈めて衝撃を殺し、刃先をわずかに流すよう傾けると、力任せにその巨体を横へ弾き飛ばした。
地を削りながら踏み止まった狼はすぐさま身を翻し、再びシンに飛びかかる。
シンは冷静にその軌道を見切り、狼の懐に潜り込む。大剣を軽々と振り上げ、胸元を斬りつけるが、異様なほど硬質な鱗に刃が弾かれる。
「……普通の鱗じゃないな。それなら……」
シンは姿勢を落とし、後方へ剣を引く。振り抜きの途中で手元のレバーを弾くと、刃の重圧感が急激に深まり、風ごと押し潰すような一撃が狼の脇腹へ叩き込まれた。
宙へ跳ね上がった狼の巨体が地面へ叩き付けられ、土埃を巻き上げながら滑ってゆく。横たわった巨躯が動きを止めると、先ほどの騒乱が嘘のように森は深い静寂に包まれた。
シンは剣を低く下げたまま振り返る。
「……お前、こんなところで何してるんだ?この辺りは魔物が出るから危ないぞ。今の狼も、懸賞金がかかった危険な魔物だ。俺はこいつを追ってきたんだが──」
言葉の途中で、倒れていた狼が重々しく身をもたげる。低く唸りながら後ずさると、身を翻して藪の奥へと滑り込んでいった。シンは狼の消えた先を見据えたまま、肩に剣を担いだ。
「……逃げられたか」
シンは浅く息をつき、肩越しに振り返る。薄藤色の髪が月光を透かし、その横顔が淡く浮かび上がる。アオは地面にへたり込んだまま、その横顔をただ呆然と見上げていた。
「俺はグリーダのギルドへ戻るが……お前はどうする。行く当てはあるのか?」
アオは慌てて立ち上がり、服についた土や枯れ葉を払った。
「あっ、あの……!助けてくれてありがとうございます!僕、道に迷っちゃって……。街へ行くなら、一緒に行ってもいいですか?」
シンは剣を背中へ戻し、一度だけ頷く。
「こっちだ」
短く告げると踵を返し、森の出口へ続く獣道を歩き始める。アオは胸の奥にわだかまる恐怖を吐き出すように深く息を吐くと、迷うことなくその背中を追いかけた。




