第八十二話「営業スマイルの限界」
茶会の翌日。
門の前に座った。いつも通り。
しかし、いつも通りではなかった。
昨日の茶会の後、眠れなかった。デュランの言葉が頭に残っていた。「格が釣り合いませんよ」。
(格。格とは何だ。家柄か。財力か。容姿か)
(全部足りない。没落貴族。大根農家。門の前で握り飯を食べる男。格が釣り合わないのは事実だ)
(事実を認めた上で、営業スマイルで対処した。それは正しい対応だった。しかし、正しい対応をした後に、疲れが来る)
(前世でも同じだった。大口クライアントの厳しい会議の後、帰りの電車で動けなくなることがあった。営業スマイルの代償は、スマイルを解いた後に来る)
握り飯を食べた。味が薄い気がした。
(味は同じはずだ。同じ塩加減。同じ大根の漬物。しかし、薄く感じる)
トーマスが声をかけてきた。
「ヴェルツ殿。今日は顔色が悪いですよ」
「……そうか」
「お茶を入れましょうか。門衛の分ですが」
「……もらう。ありがとう」
トーマスが門衛用の茶を出してくれた。粗末な茶だ。しかし、温かかった。
(門衛の茶。王都で一番安い茶だろう。しかし、今はこれでいい)
*
昼。フィオナが出てきた。パンを持っていた。
「ランベルトさん。はい、お昼です」
「ああ」
「……今日、元気ないですね」
「元気だ」
「嘘ですね。握り飯が半分残ってますよ。あなたが握り飯を残したこと、一度もないですよ」
(握り飯が残っている。フィオナは食べ残しの量で体調を読む)
「……食欲がないだけだ」
「食欲がないあなたは初めて見ます。……昨日の茶会のこと、気にしてるんですか」
「気にしていない」
「嘘ですね。あなた、嘘つくとき、目が」
「右に動く。リリアに言われた」
「右に動いてます。今も」
(フィオナと麻衣で、俺の嘘の癖を共有されている。最悪のネットワークだ)
「……少し疲れただけだ。営業マンの疲れは、1日寝れば治る」
「1日寝てないでしょう。目の下が青いですよ」
「……」
「昨日、寝てないですよね。隣の部屋から音がしてました。台所に行く音」
「……台所に行った」
「何時ですか」
「……3時」
「3時。何してたんですか」
「……出汁を取っていた」
「夜中の3時に出汁を」
「ああ。眠れないとき、出汁を取ると落ち着く。前世の……以前からの癖だ」
(前世では、眠れない夜にインスタント味噌汁を作っていた。この世界では、出汁を取る。行動は変わったが、動機は同じだ。不安を料理で処理している)
「フィオナ。大丈夫だ。本当に」
「大丈夫じゃないです。大丈夫じゃない人が『大丈夫だ』って言うのは、もう聞き飽きました」
(聞き飽きた。麻衣も「大丈夫」と書いて大丈夫ではなかった。フィオナは学習している)
「……わかった。少し疲れている。認める」
「認めてくれてありがとうございます。……じゃあ、今日は早く帰りましょう」
*
夕方。早めに帰宅した。
台所に立った。夕飯を作った。
いつもの根菜の煮込み。しかし、今日は少しだけ手を変えた。薬草のスープを追加した。前にフィオナの疲れに気づいて作った、あのスープ。
「……あれ。このスープ、前に私が疲れてたときに作ってくれたやつですよね」
「ああ」
「今日は、あなたが疲れてるから作ったんですか」
「……ああ」
「自分のために作ったの、初めてじゃないですか」
(初めてだ。今まで、料理は誰かのために作っていた。フィオナのために。麻衣のために。エマのために。レオンのために。自分のために作ったのは、初めてかもしれない)
「……初めてだ」
「いいことだと思います。自分のために料理を作るの」
「営業マンは自分のためには動かない。クライアントのために動く」
「あなたはクライアントのために料理を作ってたんですか」
「……違う。食べる人のために」
「食べる人。……私も含まれてますか」
「含まれている」
「じゃあ、あなたも食べる人に含まれていいんじゃないですか」
(俺も食べる人に含まれる。料理を作る側であると同時に、食べる側でもある。当たり前のことだが、意識したことがなかった)
スープを飲んだ。自分で作ったスープ。
温かかった。
「……美味い」
「でしょう。あなたの料理は、作った人にも美味しいんですよ」
「当然だ。味見をしながら作っている」
「味見と、食べるのは違いますよ。味見は確認。食べるのは……食べることです」
「同じだろう」
「違います。味見は仕事。食べるのは生活です」
(仕事と生活。営業マンは仕事と生活を分けない。24時間営業だ。しかし、フィオナは分けろと言っている)
*
食後。食器を洗った。2枚。フィオナが拭いた。
「ランベルトさん」
「何だ」
「昨日の茶会で、あの人に言われたこと、まだ考えてますか」
「……少し」
「格が釣り合わないって」
「ああ」
「釣り合わなくていいですよ」
「……なぜだ」
「だって、格が釣り合う護衛が来たら、私は嫌ですよ。格が釣り合う貴族の護衛って、たぶん、お茶も淹れないし、握り飯も作らないし、門の前で一日中座ってもくれないです」
「……それは確かに」
「でしょう。格が釣り合わない人のほうが、私にはちょうどいいんです」
(ちょうどいい。格が釣り合わないことが、ちょうどいい。フィオナの価値基準は、世間とずれている。しかし、そのずれが、俺にとっては救いだ)
「……ありがとう」
言った。自然に。
フィオナは少し黙った。
「……今のは、特別なやつですね」
「特別か」
「はい。自然に出たけど、重さが違いました。カウントします」
「何回目だ」
「19回目です。でも、数字はもういいです。大事なのは、数じゃないので」
「数じゃなくて何だ」
「中身です。……今の19回目は、中身が一番重かったです」
(中身が一番重い。茶会で傷ついた後に、フィオナの言葉で戻ってきた。その重さ)
窓の外に、王都の夜。
隣の部屋から、小さな光。
今夜は、出汁を取らなくていい気がした。
眠れそうだった。




