第三十九話「空白の行」
朝飯のあと、書斎に戻った。フィオナには「家の記録の続きを調べる」とだけ言った。
帳簿を広げる。空白は三箇所あった。四代前の当主の欄、その下に一行。六代前、同じく一行。八代前、二行分。
(二代おきに空白がある。規則性がある)
(欠損なら、散らばるはずだ。規則的な欠落は、欠損ではなく仕様だ)
指で空白をなぞった。紙の質感は周囲と同じ。削った跡も、インクを消した跡もない。消されたのではなく、最初から書かれていない。
(書くべきものがなかったのか。いたのに、記録されなかったのか)
*
昼前、エマが茶を持ってきた。書斎の入口でニコニコしている。
「坊ちゃま。古い帳簿をご覧になっているのですね」
「ああ。エマさん、聞きたい。ここに空白がある。三箇所。何が書かれるはずだったか、知っているか」
エマは茶を置いて、帳簿を覗き込んだ。ニコニコの表情が、ほんの少しだけ変わった。微笑みは残っているが、目の奥に何かが走った。
「……存じ上げております。この帳簿は、先代のお父様がお書きになったものです。歴史を丁寧にまとめておいででした。しかし、この空白の箇所だけは、私がお尋ねしても教えてくださいませんでした」
「教えなかった」
「『書けなかった』と仰いました。『書くべきことがあったが、もう誰も覚えていない』と」
(誰も覚えていない)
「覚えていない、というのは」
「お父様は、こうも。『ヴェルツ家には、時折、忘れられる者がいる。名前も、顔も、何をしたかも。ただ、いたはずだという感覚だけが残る』」
背筋が冷えた。
「忘れられる者」
「はい。お父様は、それを大変悲しんでおいででした」
エマはニコニコに戻った。だが、その笑顔の奥に、長い時間をかけて積み重なった何かがあった。
「……エマさん。俺は、忘れられるか」
エマはまっすぐ俺を見た。
「いいえ。坊ちゃまは忘れられません」
「なぜ」
「坊ちゃまには、太い糸がございますから」
(用意のある答えだった。俺が聞くより、ずっと前から)
エマはそう言って、茶を勧めた。
忘れられる者。名前も顔も消え、ただ「いた」という感覚だけが残る。エンドロールに名前がなかったかもしれない。帳簿に空白がある。ヴェルツ家には「忘れられる者」がいた。偶然ではない。
*
昼飯を作りに台所へ行ったら、フィオナがすでにいた。鍋に火をかけ、根菜を切っている。
「……何をしている」
「お昼の準備です。あなた、書斎にこもると出てこないので。お腹空くかなと思って」
フィオナが、俺の食事を気にして、先に台所に立っていた。
「……すまない。集中していた」
「いいですよ。でも、食べないと頭も回らないですよ」
横に立った。フィオナが切った根菜を鍋に入れる。
「エマさんに聞いたんですか、帳簿のこと。何かわかりました?」
「……少しだけ。ヴェルツ家には、記録が消えた人間がいるらしい」
「記録が消えた? 怖い話ですか」
「怖い話ではない。……俺自身と、重なるかもしれない話だ。俺の記録が、最初からなかったかもしれない」
フィオナは包丁を置いた。少し黙って、それから鍋をかき混ぜた。
「仮説でもいいです。わかったら教えてください。私、あなたのこと忘れませんから」
忘れません。エマも言った。「忘れられません」と。二人が、別の文脈で同じことを言っている。ヴェルツ家の「忘れられる者」と、忘れないと言う二人。その対比が、胸の奥で静かに響いた。
「……ありがとう」
「三回目です。ありがとうの三回目。数えてます」
「数えるな」
「数えます。あなたが忘れても、私が覚えてますから」
冗談のつもりだったのだろう。だが、今日の俺には、その一言が妙に重く着地した。
*
午後、丘に行った。修行が終わって、フィオナが隣に座った。風が草を揺らしていた。
「ランベルトさん。私、あなたがいないと、修行の調子悪いんですよ。今朝、書斎に行ってる間、一人で光を出す練習したんですけど、全然ダメでした。ブレるし、持続しないし」
「……理由はわかるか」
「わかりません。でも、結果は見えてます。あなたが前に言ってたやつです。見えないものは結果で判断するって」
俺が言ったことを、フィオナが使っている。
「だから、あんまり書斎にこもらないでください。あなたがいないと、なんか落ち着かないんですよ。修行に限らず」
修行に限らず、いないと落ち着かない。フィオナがそう言った。ゲームの記憶を探っても、これが何なのかはわからない。だが、何かが変わりつつある。
「……なるべく、丘にはいる」
*
夜、書斎で今日得たものを整理した。
帳簿の三箇所の空白。父の言葉――「忘れられる者がいる。名前も顔も消える」。エマの言葉――「坊ちゃまは忘れられない。太い糸があるから」。
糸があれば忘れられない。糸がなければ、忘れられる。空白の行に書かれるはずだった名前は、糸がなかったから消えたのか。エンドロールにランベルトの名がなかったのも、同じ理由なのか。
ペンを置いた。まだ仮説だ。確かめる材料は、麻衣の返事の中にある。
あと数日で、返事が来る。そこに「忘れられる者」の正体が書いてあるかもしれない。怖いか、と自分に聞いた。
怖い。だが、開けないという選択肢は、もうなかった。




